第5話:新月の夜
一週間は、あっという間だった。
薪を割った。水を汲んだ。柵の修繕を手伝った。井戸水で洗濯もした。頼まれたことは何でもやった。おかげで腰が痛い。全盛期の体とはいえ、慣れない力仕事で体のあちこちがギシギシ言っている。
飯は煮豆と硬いパンだ。味はない。塩だけ。量も少ない。腹が鳴る夜が続いた。
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三日目のことだ。
柵の修繕をしていた時に、ユーリがこちらを見ていた。
「テッペイ、ナイフ使うの上手いな」
「肉屋だからな。包丁は三十年握ってる」
「……ちょっと、頼みたいことがある」
ユーリの声が少し低くなった。
「新月の夜に、ゴブリンが来る」
「ゴブリン?」
「小型の魔物だ。新月のたびに群れで村を襲ってくる。畑を荒らし、食料を奪っていく。柵を修繕してるのはそのためだ」
「全員で逃げるってわけにはいかないのか」
「逃げてもいいが、そうすると畑が全部やられる。食料を根こそぎ持っていかれたら、次の収穫まで持たない。飢え死にだ。かといって年寄りや女子供を戦わせるわけにはいかない。だから俺たち若い男が残って、少しでも守るんだ」
……新月。あと四日後だ。
「毎月来るのか」
「毎月だ。毎回怪我人が出る。五年前には死人も出た。勝てるわけじゃない。ただ、追い払えればいい方だ。正直、人手が足りない。テッペイ、もし良かったら……」
そこまで言って、ユーリは口をつぐんだ。
俺はユーリの腕を見ていた。
日に焼けてはいる。が、細い。袖がめくれると、筋だけが浮き出ていた。脂肪が一切ない。鶏でいえば胸肉の、さらに貧しい部位だ。
他の若い衆も似たようなもんだ。そもそも食う量が足りていない。力仕事をしながら、あの量では削れる一方だ。肉屋として三十年生きてきたからわかる。あれは「若者の体」じゃない。「削れた体」だ。
「ユーリ、ずっと食事はこんな感じか。豆とパンばかりで」
「昔はもう少しマシだったと聞いているが、今はそうだ」
「家畜は」
「卵を取るために鶏を飼っている。それだけだ」
「……この体で、ゴブリンと戦ってるのか」
「戦わなきゃ、飢え死にするからな」
ユーリは笑った。口の形だけ、笑いに似せた。
ベルントが「一週間だけ」と言った意味が、ようやくわかった。余所者を追い出したかったわけじゃない。ゴブリンが来る前に、たまたま村に来ただけの旅人を危険な目に遭わせたくなかったんだ。
「ユーリ。ベルントが俺に一週間で出て行けと言ったのは、ゴブリンの前に逃がすためだったんだな」
ユーリは一瞬驚いた顔をして、それから頷いた。
「……すまない。さっきの頼みは忘れてくれ。たまたま来ただけのお前を巻き込むわけにはいかない。ベルントが正しい」
「いや」
俺は柵の板を打ちつけた。
「残る」
「テッペイ?」
「別に勇気があるわけじゃない。ただ……」
言葉を探した。うまく言えない。でも、腹の底にあるものは決まっていた。
「ここの飯を食って、ここの水を飲んで、三日間世話になった。それで『じゃあ逃げます』ってのは、俺の性に合わない」
ユーリは黙って俺を見ていた。それから、小さく笑った。
「変な奴だな、お前」
「よく言われる」
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何日かかけて、俺は村人の体をこっそり観察した。
子供は痩せている。老人は歩くのも辛そうだ。若い女たちは顔色が悪い。ユーリたち若い衆は一番マシだが、それでも体が細い。食い物の絶対量が足りていないのだ。豊作の年でも貧しい村だというのがユーリの話からもわかる。
その上に、肉がない。豆や穀物でもタンパク質は取れるが、量が少なければ筋肉はつかない。力仕事をしながら食べる量が足りず、おまけに肉というタンパク質の塊もない。体が削れるのは当たり前だ。
こんな体でゴブリンの群れと戦っているのか。毎月怪我人が出るのは当たり前だ。五年前に死人が出たのも当たり前だ。武器や腕前の問題じゃない。そもそも体が追いつかないんだ。
俺の中で、何かが固まった。
肉を食わせたい。
別に義侠心からじゃない。次の新月までに、できることをやりたいだけだ。飯が少ない上に肉もない。せめて肉があれば、あいつらの体はもう少し動く。精肉店で何十年も見てきた体がそう言っている。
問題は肉の禁忌だ。王国の法か。宗教の話か。どちらにしても、村人に強制するわけにはいかない。俺自身が食う分には関係ない。俺は別の国から来た旅人だ。
だが、村人に食わせるには。
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誰にも言わなかった。
朝早く、村人が起き出す前に森に入った。罠を仕掛けた。ドライホルンを仕留めた時に使った仕掛けだ。岩の隙間に設置した足枷型の罠。獣道を探し、それらしい場所を見つけて三か所に設置した。
一日待った。
翌朝、罠にドライホルンがかかっていた。前に仕留めたやつより少し大きい。暴れている。角が光っていた。ユーリが言っていた。魔獣は魔力を持っている、と。罠にかかっても、何をしてくるかわからない。近づけば角で突かれるか、見たことのない力で吹き飛ばされるかもしれない。
離れた場所で半日待った。魔獣が暴れ疲れて、動きが鈍くなるのを。日が傾き始めた頃、ようやく角の光が消えた。脚が震えている。今だ。背後から一気に近づいて、ナイフで急所を刺した。精肉店で何百回もやってきた動きだ。
解体した。きれいに部位ごとに分けた。脂の乗り方を見ると、腹回りと首の付け根がいい。骨はスープに使える。
持ち帰って、小屋の裏で仕込みを始めた。岩塩で擦り込んでいたところで、足音がした。
ベルントだ。
俺の手元を見て、一瞬で顔が固まった。
「……何をしている」
「見ての通りだ」
「すぐにしまえ」
「俺の国では肉を食う文化がある。それに、ここを出たらまた森を抜けて旅をする。干し肉がないと話にならない」
ベルントはため息をついた。
「ただ、村人の前でだけはやめてくれ。それだけだ」
ベルントはそれだけ言って、踵を返した。
許可ではない。黙認だ。でも、それで十分だった。
ベルントが去ってから、仕込みを再開した。岩塩を擦り込み、しばらく置いてから火を通した。じっくり焼くと、脂がじわっと滲み出て、旨そうな匂いが立った。
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新月の夜が来た。
日が沈んだ。村人の大半は森に逃げた。残ったのはユーリと若い男が四人、ベルント、それから俺だ。柵の内側に焚き火を焚いた。明かりがないと何も見えない。
「食ってくれ」
俺は残った若い衆と、ユーリに仕込んだ肉を渡した。
「……なんだこれ」
「肉だ。焼いてある。食えば体に力が出る。今夜、それで戦えるはずだ」
ユーリの顔が固まった。
「俺たちは、そういうものは……」
「わかってる。でも聞いてくれ。あんたらの体を見てきた。食料が足りない体だ。肉を食えばもっと動ける。今夜の戦いで使える」
「……肉を食えば力が出るって、なんでそんなことが」
「俺の国では当たり前に食ってきた。そうやって体を作ってきた。信じてくれとしか言えないが、試してほしい」
ユーリは肉を見た。それから仲間を見た。誰も手を伸ばさない。
「……俺たちはずっと、肉を食べちゃいけないと言われて育ってきた。それを今さら信じろと言われても」
受け取らなかった。他の若い衆も誰も手を伸ばさない。
強制はできない。
北の森から、物音がし始めた。
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ゴブリンだ。柵の向こうに、緑色の小さな影がぞろぞろと現れる。子供くらいの大きさ。赤い目。粗末な棍棒や石を持っている。焚き火の明かりに照らされて数えた。四十はいる。
「前回より増えてる……」
ユーリが鎌を握った。
ゴブリンが柵を破り始めた。細い木の柱が軋む。一か所が崩れた。ゴブリンがなだれ込んでくる。ユーリたちが立ち向かった。
俺も加わった。剣はない。ナイフと、焚き火から引き抜いた燃えた薪だ。ゴブリンに向かって投げる。火花を浴びたゴブリンが後退した。
だが数が多すぎる。じりじりと押されていく。ユーリの腕に棍棒が直撃した。別の男が膝をついた。
「くそっ……」
ユーリたちの体が動かなくなっていく。食料が足りない体で、全力を出し続けられるわけがない。
「引け、いったん引くぞ」
ベルントが叫んだ。
家の近くまで後退した。ゴブリンが畑になだれ込む。作物を踏み荒らし、食料を奪っていく。
ユーリが歯を食いしばっていた。
「また……また、こうなる。毎月こうだ。毎月畑を荒らされて、食料を奪われて……」
声が震えていた。悔しさが滲み出ている。
「もう一回いく」
「テッペイ……無理だ。体がもう」
「これを食えば大丈夫だ」
肉を掴んだ。自分の口に入れた。
嘘だ。そんなすぐに体力が戻るわけがない。肉は体に蓄積されて初めて力になる。一口食ったくらいで何が変わる。
でも、さっきのユーリの顔が頭から離れなかった。歯を食いしばって、声を震わせて、それでも諦められなかったあの顔。
あの悔しさ。
商店街の仲間を思い出した。大型スーパーに客を奪われ続けて、もうダメだと諦めて店を閉めた顔。一軒また一軒とシャッターが下りていくのを、俺はずっと見ていた。みんな「仕方ない」と言っていたが、目の奥は全然仕方なくなかった。
またあの時と同じものを見ているのか。
「俺は戦う。一人でも行く」
そのまま立ち上がろうとした。
ユーリが俺の手を見ていた。
それから、肉に手を伸ばした。
恐る恐る、一口。
一瞬、固まった。
「……うまい」
呟くように言った。それから止まらなくなった。
それを見ていた他の若い衆が、一人また一人と手を伸ばした。誰も言葉を発さないまま、全員が貪り食べた。
しばらく沈黙が続いた。
「……体が、熱い」
「血が止まってる。さっきの傷が」
腕をやられた男が、自分の傷口を二度見していた。
「痛みがない。なんでだ、あれだけ痛かったのに」
「体が動く。動きたくなる」
肉は体に蓄積されて初めて力になる。一口食ったくらいで何が変わる。方便のはずだ。
本来ならそうだ。――だが、今夜の肉は「本来」じゃなかった。
俺自身も体が軽い。さっきまで痛かった腰が嘘みたいに動く。気のせいじゃない。
痛みがない? 血が止まる? どういうことだ。
いや、今はそんなことを考えている暇はない。
「行くぞ」
勢いそのまま、畑を荒らすゴブリンの群れに突っ込んだ。
だが数はまだ多い。減ってはいる。でも森の奥からまだ出てくる。
「キリがない……」
ユーリが呟いた。体は動いている。でも気力が限界に近い。
一人が膝をついた。
もうダメかもしれない。
その時だった。
村の北、森の奥から、低い唸り声が響いた。
ゴブリンたちが一斉に動きを止めた。
唸り声が大きくなる。地面を伝って腹の底に響くような重低音だ。
崩れた柵の隙間から、銀色の影が飛び込んできた。
俺より大きい。肩までの高さが人間の胸ほどある。額に青い模様のある、銀灰色の巨大な狼。
あの時の、あいつだ。
狼は焚き火の前を一直線に駆け抜けると、ゴブリンの群れに突っ込んだ。
一匹目が吹き飛ぶ。二匹目の棍棒が空を切る。三匹目が逃げ出す。四匹目、五匹目が前脚の爪でまとめて引き裂かれる。
ゴブリンの群れが崩壊した。悲鳴を上げて半数が森に逃げ帰り、残りもそれを追うように消えていった。
静寂が戻った。
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狼が振り返って、俺を見た。金色の瞳だ。
心臓が止まるかと思った。
ゴブリンを蹴散らしてくれた。それは確かだ。だが、次は俺たちを襲うかもしれない。人間の胸の高さまである巨大な魔獣だ。あの牙で噛まれたら、ゴブリンどころの話じゃない。
ユーリたちも固まっている。誰も動けない。
狼が鼻をヒクつかせた。焼いた肉の匂いを嗅いでいる。
……肉か。
俺は震える手で、残っていた焼けた肉を一切れ掴んだ。恐る恐る、地面に置いた。
狼がゆっくりと近づいた。全員が息を呑んだ。
狼は肉の匂いを嗅いで、ぱくりと食った。
尻尾が一回揺れた。
こちらを見た。
「……もう一本、食うか」
もう一切れ置いた。食った。満足そうに鼻を鳴らした。
ベルントが近づいてきた。腰が引けている。当たり前だ。人間の胸の高さまである巨大な狼が目の前にいるのだから。
「……何だ、こいつは」
「森で助けた狼だ。あの時、水と肉を分けてやった」
「助けた? この化け物を?」
「化け物かどうかは知らん。ただ、食い意地の張った狼だ」
ベルントは狼と俺を交互に見た。長い沈黙の後、呟いた。
「六十年この村を守ってきたが、魔獣が人間の味方をするのは見たことがない」
俺も見たことがない。というか、一週間前まで魔獣の存在すら知らなかった。
狼は焚き火の傍に大きな体を横たえた。そのまま目を閉じた。
「……寝るのかよ、お前」
尻尾が一回揺れた。
名前もない。言葉も通じない。でも、こいつはここにいる。
ユーリが近づいてきて、興奮した声で言った。
「テッペイ、お前が残ってくれたおかげだ。肉がなかったら俺たちは動けなかった。あの狼も来なかった」
「たまたまだ。肉の匂いに釣られてきただけかもしれない」
「たまたまでも、結果は同じだ。村が助かった」
俺は村を見渡した。柵は一部崩れたが、怪我人は最小限だ。
森に逃げた村人たちが、おそるおそる戻ってきていた。だが、焚き火の傍で眠っている巨大な狼を見た瞬間、悲鳴が上がった。
「化け物!」
「逃げろ!」
母親が子供を抱えて後ずさる。「ミーナ、来なさい!」と叫んだ。小さな女の子が泣き出した。村に入った時に駆け回っていた、あの子だ。
「大丈夫だ。近づかなければ何もしない」
俺は両手を広げて、村人を制した。
「こいつはゴブリンを追い払ってくれた。俺たちの味方だ。……たぶん」
「たぶんって何だよ」とユーリが小声で突っ込んだ。
俺だってわからない。でも、今のところ人間には興味がなさそうだ。肉にしか興味がない。
村人たちは少しずつ落ち着いたが、誰も狼に近づこうとはしなかった。遠巻きに、恐る恐る見ている。子供たちは母親の後ろに隠れたままだ。
肉を焼いただけだ。ゴブリンを一匹も倒していない。
でも、逃げなかった。それだけは、前の人生とは違う。
ベルントが俺の横に立った。狼を見下ろしている。
何か言うかと思った。一週間の約束は今日で終わりだ。「出ていけ」と言われても文句は言えない。
だがベルントは何も言わなかった。しばらく狼を見た後、踵を返して自分の小屋に戻っていった。
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翌朝。
俺はまだ村にいた。
ベルントが井戸で水を汲んでいるのとすれ違った。目が合った。
何も言わなかった。
「出ていけ」とも「残れ」とも言わなかった。ただ、いつも通り水を汲んで、自分の小屋に戻っていった。
ああ、そうか。
残ってもいいんだ。
狼が鼻を鳴らした。いつの間にか小屋の横に座っている。腹が減っているらしい。
「……森で何か狩ってくるか」
尻尾が大きく揺れた。
肉屋のおっさんは、もう少しだけこの村にいることにした。




