第4話:村長の眼
※この世界では肉食が最大の禁忌とされています。ここから、肉屋のおっさんの『食の意識改革』が始まります!
ユーリの小屋で茫然としていたのは、そう長くはなかった。
「ベルント村長が話を聞きたいと言っている」
ユーリが外からひょっこり顔を出した。さっきまで肉を怖がってガタガタしていた男と同じ顔とは思えないほど、あっけらかんとしている。
「村長?」
「村を仕切っている人だ。よそ者が来た時は必ず通す決まりになっている。悪い人じゃないから、正直に話せば大丈夫だ」
正直に話せばといっても、正直に話せることが何もない。名前と職業くらいだ。
村長の家はユーリの小屋から五十歩ほどのところにあった。他の家より少しだけ大きく、石を積んだしっかりした造りだ。扉をノックすると、低い声が返ってきた。
「入れ」
中は薄暗く、窓が小さい。土間に木の椅子と机。棚に何かの書類らしき紙の束。飾り気はないが、整理されている。
椅子に座っていた男が立ち上がった。
六十代くらいか。背が高く、肩幅が広い。髪はほとんど白くなっているが、体には衰えた印象がない。深く刻まれた皺と、静かで動かない目。人をじっと見る目だ。まるで牛の品定めをする仕入れ業者みたいな目だと思った。
「ベルントだ。ルーンハルトの村長をしている」
「黒田鉄平だ。……ただの、旅人だ」
ベルントは俺を頭の天辺から足の先まで見た。服。手。ナイフの位置。それから顔。
「旅人にしては、随分と軽装だな」
一発で見抜かれた。旅人なら荷物の一つや二つあって当然だ。俺が持っているのは腰のナイフと、肉の残りを包んだ葉っぱだけだ。
「あー……それは、その。来る途中に、でかい化け物に出くわして。必死に逃げたら、荷物を全部放り出すことになって」
「どんな化け物だ」
「でかい、象みたいなやつだ。角が二本あって、口から火を吐いた。あれには参った。荷物なんか拾ってる余裕がなかった」
嘘ではない。実際に森で火を吐く巨大な獣を見た。荷物があったかどうかは別として。
ベルントはしばらく俺の顔を見ていた。信じているのか疑っているのか、表情からはわからない。
「ドライホルンを仕留めた男が、グルートホルンから逃げたのか」
グルートホルン? ああ、あの火を吐く化け物のことか。こっちではそう呼ぶのか。
「ドライホルンは罠で仕留めた。真正面から戦ったら俺が死んでる。逃げられる時は逃げるに限る」
ベルントがわずかに顎を引いた。これが正解だったのかどうか、相変わらずわからない。
「ドライホルンを仕留めた後、どうした」
「解体して、焼いて食った」
一拍の間があった。
「肉を食ったのか」
「食った。旨かった」
「……この国の禁忌を知らなかったのか」
まずい。「国」ということは、この辺り全体でそういうルールになっているということか。
「知らなかった。俺は……そのっ、遠い。ものすごく遠い別の国から来てて。肉食の禁忌なんて聞いたことがなかった。うちの国ではむしろ普通に食うから、まさかこっちじゃ禁忌だとは思わなかった。本当に知らなかったんだ」
言いながら、自分でも言い訳がましいと思った。だが、「死んで転生しました」よりはるかにマシな説明だ。
ベルントは俺をじっと見た。
「どこの国だ」
「……ク、クロダという、小さな国だ。ここからずっと、ずっと遠い。たぶん誰も聞いたことがない」
言ってから、三秒後に気づいた。
俺の名前は黒田鉄平だ。クロダ。ユーリに自己紹介している。ユーリがベルントに伝えたとすれば、今俺は「自分の名字と同じ国から来た」という最高に怪しい嘘をついたことになる。
ベルントの目が少しだけ細くなった。
「クロダ、か。お前の名前もクロダだったな」
「ッ……そ、そうだ。うちの国では、よくある苗字なんだ。黒田なんて山ほどいる。国の名前もそこから来ているくらいだから」
言い訳が止まらない。墓穴を掘っている自覚はある。
ベルントはしばらく黙っていた。信じたのか信じていないのか、相変わらず表情が読めない。
ベルントは椅子に座り直した。机の上で指を組む。
「お前は、どこへ行く」
「……正直、わからん。森で目が覚めて、ユーリに連れられてここに来た。それだけだ」
嘘をついても仕方がない。知らないことは知らない、説明できないことは説明できないと言うしかない。ベルントはしばらく黙っていた。俺も黙っていた。
「お前の服は、見たことのない仕立てだ。言葉は通じるが、発音が少し違う。体の傷は新しい。腰のナイフは解体に使うもので、武器ではない」
全部当たっている。この男は観察している。
「旅人だというのは嘘ではないだろう。だが、何かを隠しているのも明らかだ」
俺は黙った。
「一つだけ聞く。この村を害するつもりはあるか」
「ない」
「なぜ信じられる」
「信じる理由はない。だが、俺には害するものが何もない。金もない。武器もない。ナイフ一本で肉が切れるくらいだ」
ベルントはまた黙った。今度の沈黙は長かった。
窓の外で子供の声がした。村に入った時に駆け回っていた女の子だろう。
「一週間だけ置いてやる」
ベルントが言った。
「この村はよそ者を無条件に受け入れる余裕はない。お前がここにいる間に旅の身支度を整えろ。一週間経ったら、出発できる状態にしておけ。その間に危険があれば、その日のうちに追い出す。わかったか」
「……わかった」
永住許可じゃなく、追い出すまでの猶予だ。それでも今夜の屋根があるだけ、ありがたい。
「ユーリに空き小屋の場所を案内させる。食い物は村の分から出す。その代わり、村の仕事を手伝え。水汲みでも薪割りでも、できることをやれ」
「力仕事なら任せてくれ。薪割りでも水汲みでもやる。あと、刃物を使うのは得意だ。何か捌いたり切ったりする仕事があれば、言ってくれ」
ベルントが微かに眉を上げた。
「捌く、か。面白い言い方をする」
「三十年、肉を切ってきた。刃物のことなら少しはわかる」
「三十年か。道理でその手だ」
ベルントの目が、俺の手を見ていた。包丁ダコだらけの掌を。
「見た目通りかはわからん。ただ、中身はそのくらいの年季がある」
ベルントはふっと短く息を吐いた。笑ったのかどうか、よくわからない表情だった。
「行っていい」
俺は立ち上がって頭を下げた。扉に手をかけた時、ベルントが言った。
「肉食は、この村では禁忌だ。表では食うな」
「……表では、か」
返事はなかった。俺は扉を閉めた。
外に出ると、夕方の光が村全体に斜めに差し込んでいた。痩せた土地。古い柵。煙突から上がる細い煙。少ない村人。そしてあちこちに漂う、貧乏の匂い。
「どうだった? 追い出されるのか? 飯は? 今夜どこで寝るんだ?」
ユーリが待ち構えていた。質問はいつも束で来る。
「一週間、置いてもらえた」
「よかった。ベルントさんに気に入られたな」
「気に入られた感じはまったくしなかったが」
「あの人が追い出す気なら、その場で追い出す。一週間の猶予をくれたってことは、まあ認めてもらったってことだよ」
俺は村を見渡した。
一週間で何ができる。
薪を割るくらいしか思い浮かばない。
肉屋が、肉を使えない場所で、何ができるというんだ。
夕飯の匂いが漂ってきた。何かを煮ている匂いだ。肉の匂いはしない。
腹が鳴った。
腰の包みの中に、ドライホルンの肉がまだ少し残っている。だが、村の中では出せない。今夜、誰もいない時にこっそり食うしかないか。
肉屋が肉を隠して食う羽目になるとは、人生というのはわからないものだ。
それにしても、あの爺さん。「表では食うな」ということは——裏なら、いいんだな?




