第3話:肉が食えない世界
気がつくと、背中に張りついていた銀色の気配が消えていた。
いつからかは、わからない。振り返っても、揺れる枝があるだけだ。野生の獣の気まぐれなんて、そんなもんだろう。……少しだけ惜しい気がしたのは、気のせいだ。
太陽の位置からして、昼を少し過ぎたあたりだろう。歩き続けるうちに、少しずつ景色が変わってきた。獣道とは違う、人が踏み固めたような細い道を見つけたのだ。
しゃがんで土を見る。新しい足跡がある。ブーツの跡だ。
間違いない。人間がいる。
足跡を辿って歩くこと数十分。前方の茂みが、ガサリと鳴った。
腰のナイフに手をかけて身構える。また化け物か。
茂みを掻き分けて出てきたのは、一人の若者だった。麻のシャツに粗末なズボン。木の実を入れた籠を抱えている。赤茶色の短い髪、日焼けした顔にそばかす。二十代前半か。
向こうも俺を見て固まった。籠を取り落としかけている。
「……人間、だよな?」
俺が声をかけると、若者はびくっと肩を揺らした。
「あ、あんた誰だ!? どこから来た!? いや待て、なんだその服。見たことねえぞ。商人か? 違うな、荷物がねえし。なんで森から出てくるんだよ!?」
質問が四つ、いっぺんに来た。よく喋る奴だ。
それより——言葉が、通じている。口の動きと聞こえてくる音が微妙にズレているのに、意味は頭に直接入ってくる。なんでだ。……考えるのは後だ。
「怪しいもんじゃない。森で迷ったんだ」
ナイフから手を離して、両手を上げた。
若者の視線が、俺の服のあちこちで止まった。緑色の血。さっき罠で仕留めた三本角の獣の血だ。みるみる顔がこわばっていく。
「その血……魔物の血だな!? 襲われたのか? よく生きてたな!?」
「襲われたんじゃない。罠を張って仕留めた。角が三本ある、鹿みたいなでかいやつだ」
「三本角って……は? ドライホルンを倒した? 一人で!?」
「ドライホルンっていうのか、あれは」
「名前も知らねえで倒したのかよ!?」
声がひっくり返った。
「お、俺はユーリ。ルーンハルト村の者だ。あんたは? どっから来た? 何しに来た? ……腹、減ってないか?」
また質問の束だ。最後の一つだけ、妙に生活感がある。
「黒田鉄平だ。ただの……肉屋のおっさんさ」
「テッペイか。で、ニクヤって何だ」
「肉を売る商売だ」
「肉を……売る?」
ユーリの顔が、冗談を聞いた時の顔と、気味の悪いものを見た時の顔の、ちょうど中間で止まった。だが、それ以上は聞いてこなかった。聞きたくなかったのかもしれない。
「どこから来たかは……遠くだ。ずっと遠く。自分でもよくわからんくらい遠くだ」
「何だそれ」
「言っても信じないだろうからな」
ユーリはしばらく胡散臭そうに俺を見ていたが、やがて籠を担ぎ直した。
「まあいい。とにかく村へ来い。じき日が暮れる。森は夜のほうが危ねえんだ」
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森を抜けると、視界が開けた。
斜面にへばりつくように、小さな集落があった。石と木でできた家が二十軒ほど、身を寄せ合っている。周囲には木の杭を並べただけの頼りない柵。その向こうに灰色の畑が広がり、痩せた葉の作物が植わっていた。
これが、ルーンハルト村。俺がこの世界で初めて見る、人間の営みだった。
村に入ると、視線が突き刺さった。見かけるのは年寄りと女子供ばかりで、働き盛りの男の姿が妙に少ない。誰もが痩せて、服がくたびれている。
井戸端で洗濯をしていた初老の女が顔を上げた。
「ユーリ、お客さんかい」
「森で迷ってたんだ。……この人、ドライホルンを倒したらしいぞ」
「まあ……! あんな恐ろしい魔獣を?」
女の後ろから、小さな女の子がひょこっと顔を出して、俺をじっと見た。目が合うと、ぱっと駆けていった。
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ユーリの家は、土間と、いろりがあるだけの小さな小屋だった。
「座ってくれ。大したもんは出せないけど」
差し出された木の椀の水を、一息に飲み干した。生き返る。
「助かった。……そうだ、ユーリ。お前さっき、腹減ってないかって聞いたな。あれは、お前が減ってるんだろう」
「な、なんでわかった」
「三十年、腹を減らした客の顔を見てきたからな」
俺は腰の蔓を解いて、葉っぱの包みを板の間に置いた。開く。
香ばしい脂の匂いが、狭い小屋いっぱいに広がった。さっき焼いたドライホルンのモモ肉だ。まだほんのり温かい。
ユーリの喉が、ごくりと鳴った。
「……いい、匂い……」
ぽつりと漏れた。
それから自分の言葉に気づいて、ユーリの顔が一瞬で青ざめた。
「ち、違う! 今のは違うからな!? ——って、おい、待て。それ、まさか」
「さっきの獣の肉だ。焼いてあるからすぐ食える。味付けはないが、肉そのものが甘くてな——」
「しまえ!! 早くしまえって言ってんだよ!!」
ユーリが弾かれたように叫んで、葉っぱの包みを閉じにかかった。ただし、肉そのものには指一本触れない。猛毒でも見るような手つきだった。
「ど、どうした」
「どうしたじゃない! 魔獣の肉だぞ!? 穢らわしい! そんな不浄なもの、ベルント村長に見つかったら村から追い出されるぞ!」
「穢らわしい? 不浄? ……おい、まさかお前ら、肉を食わないのか」
「当たり前だろ! 肉を食うのは野蛮な魔物か、頭のおかしい連中だけだ! 人間は神聖な麦と野菜を食べるんだ! 肉食は最大の禁忌だぞ!」
頭の中が、白くなった。
肉食が、禁忌。
あの三本角の肉は、日本の高級和牛にも引けを取らない旨さだった。この森を歩いている獣はきっと、どいつも極上の肉を持っている。それを、こいつらは「不浄なもの」と呼んで捨てているのか。
「嘘だろ……」
三十年、肉を切って、肉を売って生きてきた。肉の旨さで人を笑顔にしてきたつもりだった。それが全否定される世界。肉屋の俺に、肉を焼くなと言うのか。
「……テッペイ?」
黙り込んだ俺を、ユーリが不安そうに覗き込んだ。
俺は包みを手に取り、しっかりと結び直した。
前世で店を潰し、酒に溺れ、家族に迷惑をかけて死んだ罰か。神様の嫌がらせにしても、出来が悪すぎる。肉屋から肉を取り上げたら、ただの役立たずのおっさんじゃないか。
ただ——。
結び直した包みの中から、肉の匂いがかすかに漏れている。さっき、ユーリの喉は確かに鳴った。禁忌だなんだと言ったところで、体は正直だった。
……これを捨てる気はない。こっそり食う。それだけは、譲れない。
「ユーリ。一つ聞いていいか」
「な、なんだよ」
「この村、働き盛りの男が少なくないか。お前みたいな若いのは、どこにいる」
ユーリの顔から、さっきまでの騒がしさが消えた。籠の中の木の実を一つ、意味もなく転がしてから、低い声で言った。
「……新月が来れば、わかる」
窓の外で、灰色の畑が夕日に染まり始めていた。




