第2話:銀色の獣
どれくらい走ったかわからない。足が止まった時には、膝に手をついて荒い息をしていた。
後ろを見た。何もいない。追ってこなかったのか、それとも途中で興味を失ったのか。
助かった。
足が震えていた。全盛期の体でも、心臓は壊れそうだった。火を吐く獣。あんなものがいる森に、ナイフ一本で放り出されている。
ここがどこかはわからない。だが、のんびりしていたら死ぬ。それだけはわかった。
呼吸が落ち着くのを待って、また歩き出した。今度は慎重に、足音を殺して。
森は深い。木の幹は大人が三人で抱えるほど太く、見上げても梢が見えない。地面には苔と落ち葉が厚く積もっていて、足が沈む。葉の形も匂いも、知らないものばかりだ。
小川を見つけて水を飲んだ。冷たくて旨い。内臓が悪くなってからは水すらまともに飲めなかったのに、今は腹の底まで沁み渡る。
腹が減った。
死にかけの体で腹が減るわけがない。つまり、この体は健康だということだ。一番肉を切ってイキイキしていた頃の体。嘘みたいだが、腹が減るのは嘘じゃない。
茂みの奥で何かが動いた。
歩きながら、木の実のようなものを見つけては口に放り込んだ。酸っぱかったり、渋かったりした。少しはマシになったが、いよいよ腹が減って限界が近づいてきた。
せっかく生き返ったのに、見知らぬ森の中で餓死するのか?
さっき見た火を吐く象や、背中に棘がある牛。あんな化け物がうようよしている森だ。正直、足の震えが止まらない。茂みがガサッと鳴るだけで心臓が跳ね上がる。日本で肉を切っていただけのただのおっさんが、あんなものを相手にできるわけがない。怖い。死ぬほど怖い。
でも、このままじゃ本当に死ぬ。腹の虫が「何か食わせろ」と内臓を引っ掻き回している。あの二人にもう一度会えないにしても、腹を空かせてうずくまって死ぬなんて、そんな惨めな終わり方は嫌だ。
やるしかない。食うために、狩るんだ。
だが、ナイフ一本でまともにやり合えば、俺が肉塊になる。
罠を仕掛けよう。
昔、戦争に行っていたじいちゃんに連れられて、畑を荒らす猪を狩りに行ったことがあった。その時、じいちゃんは罠の作り方を教えてくれた。木の弾力を利用して、獲物の足を吊り上げる仕掛けだ。蔓と、しなりそうな太い枝を探した。
数時間かけて、獣道らしき場所に罠を張った。身を潜めて待つ。
最初の罠は空振りだった。獣が罠の手前で足を止め、鼻で匂いを嗅いでから、避けて通っていった。人間の匂いがついていたのかもしれない。
場所を変えた。今度は風下に仕掛け直し、罠の周りに泥を塗って匂いを消した。じいちゃんが猪用にやっていた手順だ。
また待った。日が傾き始めた頃、別の個体が来た。薄紫色の毛皮。額に三本の角。鹿ほどの体格だが、脚が太くて筋肉質だ。こっちを見ている。目が赤い。
獣が罠を踏んだ瞬間、バチンという音と共に蔓が跳ね上がり、獣の後脚を宙に吊り上げた。
今度はかかった。
暴れる獣に近づいた。角が一瞬、光った気がした。首の後ろにナイフを一閃した。血飛沫が上がる。急所だ。頸動脈を一発で断った。肉屋が三十年で何万回と繰り返した、首の骨の構造を知り尽くした一撃。あの光が何だったのかは、この時はまだ知らなかった。
解体を始めた。皮を剥ぐ。筋膜を切り離す。関節を外して後脚をブロックに分ける。手が覚えている。じいちゃんの手つきを見て、親父に怒鳴られながら覚えた動作だ。病気で鈍っていた体が嘘のように、手が止まらない。
見たことのない獣だが、骨格は哺乳類の基本構造に近い。肩甲骨の位置、腱の走り方、脂の乗り方。肉屋の目で見れば、どこが旨くてどこが硬いか、だいたいわかる。
後脚のモモ肉。ここが一番旨いはずだ。
枝を集めて火を起こした。ライターもマッチもないが、火打ち石に使えそうな硬い石を見つけた。ナイフの背に打ち付けると、火花が散った。何度かやって、枯れ草に火が移った。小さな焚き火だ。
モモ肉を厚切りにして、枝に刺して火にかざした。
脂がじゅうと音を立てる。肉の表面が焼けて、色が変わっていく。匂いが立ち昇る。
三本角の薄紫色の化け物の肉が、旨かった。味付けなんかない。塩もない。焼いただけだ。それなのに、肉の繊維を噛み締めると甘みのある肉汁が口に広がる。赤身の味が濃い。脂は少ないが、赤身そのものに旨味がある。
「旨い」
声に出した。誰もいない森の中で、一人で肉を焼いて、一人で食べて、一人で旨いと言っている。
ああ、でも。これが俺だ。肉を焼くことだけは、三十年ずっと得意だった。店を潰しても、家族を失っても、この腕だけは残った。
腹が満たされて、ようやく頭がまともに動き始めた。ここがどこで、なぜ俺は死んだはずなのにここにいるのか。考えても答えは出ない。とにかく歩こう。人間がいる場所を見つけなければ。
残りの肉を焼いて大きな葉っぱに包み、蔓で縛って腰に下げた。歩き出した。
半日ほど歩いた頃だった。
異様な匂いがした。甘ったるい、腐りかけの果実のような匂い。肉屋の鼻は匂いに敏感だ。この匂いは獲物を誘い込む匂いだ。
慎重に近づくと、巨大な植物があった。人間の背丈の倍はある。紫色の花弁のようなものが開いていて、中から粘液が垂れている。蔓が何本も地面に広がっている。
食虫植物だ。馬鹿でかい食虫植物。
その蔓に、何かが絡まっていた。
銀灰色の毛皮。巨大な体。肩までの高さが俺の胸ほどある。狼だ。だが、普通の狼にしては巨大すぎるし、額に青い模様がある。金色の瞳がこちらを見ている。
蔓が四本、体に巻きついている。後脚と胴に深い傷がある。この植物に捕まって傷を負ったのか? それとも、別の場所で戦って弱っていたところを捕まったのか。どちらかはわからないが、かなり弱っている。このままだと植物の餌になるのは時間の問題だ。
蔓が少しずつ締まっていく。粘液が傷口に染みて、狼が低く唸った。
普通なら逃げる。こんな巨大な獣に近づく馬鹿はいない。関われば死ぬ。そう頭ではわかっているのに、気づけば俺の足は勝手に前へ動いていた。なんでだ。理屈じゃない。自分でもわからない。
ナイフを抜き、狼のそばまで来ていた。植物の繊維には、肉の筋膜と同じように切れやすい方向がある。繊維に逆らって切れば刃が滑る。繊維に沿って切れば、一発だ。
「動くなよ」
狼に言った。通じるわけがない。だが、金色の瞳が俺を見つめたまま動かなかった。
ナイフを蔓に当てた。繊維の走り方を指で確認する。ここだ。一気に引いた。
蔓が切れた。粘液が飛び散る。
二本目。三本目。四本目。全部、同じ要領で切った。最後の一本が切れた時、狼の体がずるりと地面に落ちた。
傷を見た。後脚の裂傷は深いが、骨までは達していない。肉屋は筋と腱の位置を知っている。この傷なら、腱は無事だ。走れるようになる。
服の布を裂いて、傷口に巻いた。止血だ。消毒なんかできないが、少なくとも土や虫が入るのは防げる。
狼は黙って、されるがままになっていた。俺の手を噛もうとしなかった。金色の目がずっとこっちを見ていた。弱り切っているのがわかる。
「……ほら、水だ」
近くの小川から葉っぱに水を汲んで口元に持っていくと、狼は舌を出して夢中で舐めた。少しだけ目に生気が戻る。
「これも食え」
腰に下げていた包みから、先ほど焼いた三本角の獣の肉を取り出して前に置いた。狼は鼻をヒクつかせると、大きな口を開けてあっという間に肉を平らげた。
「よし、終わりだ。あとは自分で治せ」
言いながら、じりっと後ずさった。肉を食って体力を取り戻した狼が、ゆっくりと立ち上がったからだ。
やはりデカい。俺より大きい。間近で見ると、殺気というか、威圧感が凄まじい。
やばい。何やってんだ俺。なんでこんな化け物を助けてしまったんだ。肉を食って元気になったら、次に狙われるのは俺に決まってるじゃないか。
「や、やめろよ……。俺は酒浸りだったから、肉も硬くて、全然美味くないぞ……」
ナイフを構える手もガタガタ震えていた。金色の瞳が、じっとこっちを見下ろしている。ああ、死んだ。今度こそ本当に食われる。
数秒、互いに見つめ合った。
それから、銀色の獣はふいっと振り返り、歩き出した。傷を庇いながらも、王者のような威風堂々とした足取りで、ゆっくりと森の奥へ消えていった。
「……助、かった」
その場にへたり込んだ。全身からどっと冷や汗が噴き出した。膝の震えが止まらない。
まあ、そういうもんだろう。野生の獣だ。助けたからって恩を感じるわけがないし、気まぐれで見逃してくれただけだろう。
黒田精肉店の裏に住んでいた野良猫だって、十年餌をやっても触らせてくれなかった。
俺はナイフの粘液を拭いて、鞘に戻した。
人間を探そう。腹は減るし、日が暮れれば寒くなる。一人でどうにかするしかない。
まあ、いつものことだ。
歩き出した。




