第1話:肉屋のおっさん、死ぬ
※本作は「飯テロ」から始まり、徐々に「村づくり」「商売」「権力との対立」へとスケールが拡大していく成り上がりファンタジーです。
※なぜこの世界では『肉食が禁忌』なのか? その謎と、店を潰した不器用な元肉屋の逆襲をお楽しみください!
夢を見ていた。
石造りの広場に、長いテーブルが出ていた。古いヨーロッパの田舎町のような場所だ。テーブルの上には山盛りの肉が並んでいる。焼き肉、コロッケ、骨付きのスペアリブ、見たことのない料理。全部、湯気を立てていた。
テーブルを囲んで、大勢が笑っている。知らない顔ばかりだ。その向こうに、恵子がいた。美咲もいた。二人とも笑っていた。
テーブルの端には銀色の大きなオオカミが寝そべって、肉を頬張りながら尻尾を振っている。空を見上げたら、巨大な翼を持つ何かが旋回していた。竜だ。竜までいる。
誰かが俺の肩を叩いた。振り向いたが、顔が見えない。ただ、その手は温かかった。
とても幸せな夢だった。
目を開けた。天井のシミが、コロッケに見える。
病室の天井だ。やることがないから、シミの形を覚えた。右上のやつが揚げたてのコロッケに似ている。きつね色の、衣がサクサクの、黒田精肉店のコロッケだ。
もう二度と揚げることはない。
黒田精肉店。東京都墨田区、商店街の真ん中。じいちゃんが闇市で稼いだ金で店を構え、親父が継いで、俺が三代目。八十年続いた。
続いた、じゃない。続けられなかった。
八年前、駅前に大型スーパーができた。客は減った。月を追うごとに、確実に減った。
妻の恵子は何度も言った。
「ねえ、ネット通販とか、やってみない?」
配達はどうか。コロッケの移動販売は。商店街でイベントは。
全部断った。肉屋は肉を売る。余計なことはしない。それが親父のやり方だ——そう言いながら、本当は知っていた。親父もじいちゃんも、時代に合わせて変えてきた。変えなかったのは俺だけだ。恵子の案を採用したら、恵子に頼ったことになる。それが、どうしても嫌だった。
馬鹿な話だ。
閉店の日、シャッターを下ろしたのは俺一人だった。恵子にも娘の美咲にも、何も言わなかった。家に帰ると、恵子は何も聞かず、味噌汁を温めなおして俺の前に置いた。
その味噌汁を、飲めなかった。
次の日から酒を飲んだ。朝から飲んだ。焼酎の四リットルペットボトルが三日で空になった。止める恵子に怒鳴った。美咲が泣いても止めなかった。
三ヶ月で、恵子は美咲を連れて出ていった。テーブルに置き手紙があった。
「お父さんが元気になったら、また会いに来ます。美咲より」
娘は中学二年だった。あの丸い字を見て、酒瓶を壁に投げた。
それから一年で体が壊れた。腹が膨れ、目が黄色くなり、階段を五段上がると息が切れた。肝硬変。余命半年。
見舞いは誰も来なかった。商店街の連中も、仕入れ先も、誰一人。当たり前だ。俺が全部切ったんだから。助けてくれと言えないまま、一人で店を潰して、一人で家族を追い出して、一人で体を壊した。
全部、自分のせいだ。
夜だった。急にモニターのアラームが鳴った。看護師が飛び込んできて、酸素マスクを被せられ、腕に何か注射された。
ああ、死ぬのか。
わかった。体でわかる。足の先から、冷たいものがゆっくり上がってくる。
医者と看護師が出ていくと、静かになった。モニターの音だけが残った。
このまま一人で死ぬ。当たり前だ。一人で生きてきたんだから、一人で死ぬのが筋だ。恵子にも美咲にも、連絡先すら教えていない。
廊下が騒がしくなった。足音が二人分。片方は大人の靴。もう片方は、少し軽い。
ドアが開いた。
恵子だった。隣に美咲がいた。高校の制服を着ていた。中学生だったのに、もう高校生になっていた。そんなに経ったのか。
恵子の目が赤かった。
「……なんで、教えてくれなかったの」
声が震えていた。
「こんなになるまで。なんで、一言も」
俺は何も言えなかった。助けてくれと言えない男が、死にかけてますなんて言えるわけがない。
恵子が椅子を引いて、俺の手を握った。
「……違うわね。私のせいだ」
恵子が言った。
「あなたが壊れていくのが怖くて、逃げた。あなたが一人で抱え込む人だって、わかってたのに。私が出ていったから、こうなった」
違う。
「ごめんなさい」
恵子が頭を下げた。泣いていた。
違う。そうじゃない。怒鳴ったのは俺だ。酒に逃げたのは俺だ。お前が支えようとしてくれたのを、振り払ったのは俺だ。
「お前は……悪くない」
声がかすれて、それだけしか出なかった。
美咲が反対側に立っていた。制服のスカートの裾を握りしめ、唇を噛んでいた。
「お父さん」
声が小さく震えた。
「ごめんなさい。私、お父さんに会いに来なかった。お父さんが怖い顔で怒鳴るのが怖くて、会いたくなくて……ごめんなさい」
美咲が泣いた。声を押し殺して、肩を震わせていた。
やめてくれ。
お前たちが謝ることなんか、何もない。怖がらせたのは俺だ。中学生の娘に、父親を怖いと思わせたのは俺だ。なのに、二人とも自分を責めている。俺のせいで、背負わなくていい荷物を背負っている。
涙が出た。三十年、泣いたことなんかなかったのに、止まらなくなった。
「すまない」
恵子の手を握り返した。力が入らなかった。美咲が左手を握ってきた。右手に恵子。左手に美咲。二人の手が温かい。
「悪いのは俺だ。全部、俺が悪い。お前たちは何も悪くない。……すまない」
それしか言えなかった。もっと言いたいことがあった。美咲、制服似合ってるな。恵子、苦労かけたな。コロッケ、食いたかったな。お前が好きだった、玉ねぎ多めのやつ。
全部、遅い。
心電図の音が遠くなっていった。恵子の手の温かさが薄れていく。美咲の指の感触も。
音が消えた。光が消えた。
暗闇の中で、掌の温かさだけが、最後まで消えなかった。
目を開けたら、空が見えた。
蛍光灯の白い光じゃない。木の枝の隙間から、青い空が覗いていた。
土の匂い。草の匂い。鳥の声。
体が軽い。腹の膨らみがない。手を見たら、点滴の管がなかった。太くて、節くれ立って、包丁ダコのある手。病気になる前の、一番肉を切っていた頃の俺の手だ。
起き上がった。体が嘘みたいに動く。腰が痛くない。息が切れない。顎には無精髭。四十くらいの体だ。朝四時に起きて仕込みをして、夜十時まで立ちっぱなしでも平気だった頃の。
ここはどこだ。
森だった。見たことのない巨木が立ち並んでいる。幹の太さが尋常じゃない。日本の山じゃない。
腰にナイフが一本、革の鞘に収まっている。服も変わっていた。麻のシャツに革のベスト、革のブーツ。病院の寝巻きじゃない。
何が起きたのかはわからない。だが、一つだけわかる。
俺は生きている。
とにかく歩こう。人がいる場所を見つけなければ。
歩き始めて、すぐだった。
地面が揺れた。
地震じゃない。何かが走っている。重い足音が、こっちに近づいてくる。
木の陰に身を隠した。
茂みの向こうから、二頭の獣が飛び出してきた。
一頭は牛ほどの大きさで、真っ黒な体の背中に赤い棘が並んでいる。犬でも熊でもない。図鑑でも動物園でも見たことがない。
もう一頭は、さらにでかい。象ほどもある灰色の体。頭に二本の角。その口が、裂けるように開いた。
炎が出た。
口から、炎が噴き出した。
黒い獣が悲鳴を上げて転がる。毛皮が焦げ、やがて分厚い脂が炎に炙られて爆ぜる音がした。
熱風とともに、俺の鼻を突いたのは――暴力的なまでに香ばしい、極上の『焼き肉』の匂いだった。
口から火を吐く獣。こんなものは地球のどこにもいない。
ここは、日本じゃない。地球でもない。
灰色の獣が黒い獣の首を噛み砕いた。それから、ゆっくりとこちらを向いた。
目が合った。小さな、赤い目。
普通なら恐怖で腰を抜かす場面だ。
だが、鼻先をくすぐる圧倒的な肉の匂いに、俺の中の『肉屋』としての本能が、恐怖をわずかに上書きしていた。
(……あの黒い獣の肉、めちゃくちゃ美味いんじゃないか?)
馬鹿なことを考えている場合じゃない。あれに食われたら終わる。
こんなところで死んでたまるか。
俺は弾かれたように駆け出した。
だがこの時、俺はまだ知らなかった。
この狂った異世界において、俺の最大の武器が「剣」でも「魔法」でもなく――ただの『肉を焼く腕』になるということを。




