表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
36/70

【第36話】怒れる商会


ゲルハルトが村に来るたびに、注文が増えていた。


「テッペイ、麦火酒の追加を頼む。マルタが壺をもう三つくれと言っている。チーズもだ」


「三つ? 前は二つだっただろう」


「客が増えた。夕方は席が埋まる。麦火酒の水割りと焼きチーズの組み合わせが評判になっている。マルタが笑っているぞ。あの女が笑うと、店の雰囲気が変わるらしい」


 ゲルハルトの報告は、毎回少しずつ良くなっていた。


 壺を増やした。チーズも増やした。だが、モーリー一頭から搾れる乳の量には限りがある。一日に壺二杯がいいところだ。チーズにすると一日で使い切る。もっと牛が要る。だが、今はこれが精一杯だ。


 麦火酒の方は、グスタフとクラウスが蒸留器を昼夜交代で動かしていた。次の麦酒もすでに発酵を終え、今月中ならあと五壺は造れる見込みだった。



 二週間後、ゲルハルトの馬車に見覚えのある二人が乗っていた。


 ビアスとレンツだ。


 二人とも顔が赤い。恥ずかしいのか、暑いのか。


「テッペイ殿」


 ビアスが馬車から降りて、頭を下げた。


「すまなかった。あの時は、商会が怖くて逃げた。だが、銅の杯亭の話を聞いて、いてもたってもいられなくなった」


「客がうちの店にも来て、銅の杯亭で飲んだ新しい酒はないのかと聞くんです。あの酒とつまみを出してくれる店に行くと。うちの常連が流れています」


 レンツが続けた。


「虫がいいのはわかっている。一度逃げた人間が、また取引してくれと言えた義理じゃない。だが……」


「だが、旨いものがある店に客は行く。それだけの話だ」


 俺が言うと、ビアスが顔を上げた。


「もう一度、取引してもらえるか」


「商会の圧力は大丈夫なのか。また麦酒を止められるぞ」


「正直、麦酒を完全に失うのは怖い。だが、言われるままミードも麦火酒も手放したら、いずれ何を売るかまで商会に決められる。もう一度だけ賭けたい」


 レンツも頷いた。


「銅の杯亭が証明しました。麦火酒を目玉にして、食事とつまみで客を呼ぶやり方なら、麦酒がなくてもやっていけます」


 前に来た時の、商談に燃える表情が戻っている。


「わかった。ただし、壺の数は限りがある。最初は月に一壺ずつだ。増やせるようになったら増やす。チーズはまだマルタの分しか作れない。牛が一頭しかいないんでな」


「一壺で十分です。希少な酒として出します」


「恩に着る」


 二人が同時に頭を下げた。


 帰り際、ビアスが振り返った。


「テッペイ殿。あんた、一人で商会と喧嘩してるんだな」


「一人じゃない。村のみんなと、マルタと、ゲルハルトがいる」


「……俺たちもだ。もう逃げない」


 ビアスの太い背中が、来た時より真っ直ぐだった。



 三軒の店に麦火酒が並んだ。チーズはまだマルタの店だけだ。


 ゲルハルトから届く報告は、毎週良くなる一方だった。


 銅の杯亭は連日満席。焼きチーズと麦火酒の組み合わせが名物になっている。ビアスの居酒屋では水割りが一番人気。レンツの食堂では蜂蜜湯割りが評判だった。


 前の世界では、商店街の店が一軒ずつ消えていくのをただ見ていた。俺にはスーパーに対抗する商品がなかった。


 今は違う。対抗できる商品がある。少なくとも、今すぐ相手に真似できるものではない。


 初めて、商売で勝てるかもしれないと思った。



 ◆ ◆ ◆


 銅の杯亭の前に人が並んでいた。


 ヴェルナーは街角から、その列を見ていた。夕方の書き入れ時。一月前は閑古鳥が鳴いていたはずの店に、客が溢れている。ビアスの居酒屋もレンツの食堂も、同じ状況だ。三軒とも、商会の麦酒を使っていない。


「まずいな」


 ヴェルナーは足早に商会へ戻った。



 ディートリヒの執務室。帳簿が開いたまま机に置かれている。


「銅の杯亭だけではありません。ビアスとレンツも戻りました。三軒とも新しい酒を出しています。麦火酒と呼ばれている透明な酒です。強いが旨いと評判で、飲み方も何通りかある。つまみに焼いた白い食べ物を出していて、それも客を呼んでいます」


「三軒だと。二軒は手を引いたはずだ」


「はい。ですが、銅の杯亭の成功を見て、戻ったようです。商会の麦酒がなくても商売ができると分かった以上、もう脅しは効きません」


 ディートリヒが振り返った。前と違う。目の奥に苛立ちがある。


「真似はできるのか。蒸留酒ならうちでも扱っている」


 ヴェルナーは懐から小瓶を取り出し、机に置いた。銅の杯亭で人を使って買わせた麦火酒だった。


「商会の酒職人にも飲ませました。蒸留酒であることは間違いないと。ですが、同じものは作れないと言っています。澄み方が違う、雑味がない、原料の質が違うと。うちの火酒とは別物です」


「つまり、商売では潰せない」


 ディートリヒが椅子に座り直した。指で机を叩いている。考えている時の癖だ。


「商売で潰せないなら、商売以外で潰す。ヴェルナー、ブルクハルトに会いに行け」


 ブルクハルト。ハルテンの町の徴税官だ。ヴェルナーは何度か書類を届けたことがある。商会からの盆暮れの届け物を受け取る時だけ、愛想のいい顔をする男だった。


「ブルクハルトに何を」


 ディートリヒは答えなかった。ただ、薄く笑った。


 ヴェルナーは背筋が冷たくなった。この笑い方を知っている。主人がこの顔をする時、相手に逃げ道はない。


 ディートリヒが帳簿を閉じた。


「あの村は、一度潰れてもらう。細かいことは任せろ。お前はブルクハルトとの段取りだけ整えればいい」


 ヴェルナーが頭を下げて部屋を出た。


 廊下を歩きながら、ヴェルナーは思った。たかが蜂蜜酒だと主人は言っていた。一月前のことだ。雑草を抜く程度の話だと。


 だが今、主人の顔から余裕が消えている。


 雑草は、思ったより深く根を張っていたらしい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ