【第36話】怒れる商会
ゲルハルトが村に来るたびに、注文が増えていた。
「テッペイ、麦火酒の追加を頼む。マルタが壺をもう三つくれと言っている。チーズもだ」
「三つ? 前は二つだっただろう」
「客が増えた。夕方は席が埋まる。麦火酒の水割りと焼きチーズの組み合わせが評判になっている。マルタが笑っているぞ。あの女が笑うと、店の雰囲気が変わるらしい」
ゲルハルトの報告は、毎回少しずつ良くなっていた。
壺を増やした。チーズも増やした。だが、モーリー一頭から搾れる乳の量には限りがある。一日に壺二杯がいいところだ。チーズにすると一日で使い切る。もっと牛が要る。だが、今はこれが精一杯だ。
麦火酒の方は、グスタフとクラウスが蒸留器を昼夜交代で動かしていた。次の麦酒もすでに発酵を終え、今月中ならあと五壺は造れる見込みだった。
二週間後、ゲルハルトの馬車に見覚えのある二人が乗っていた。
ビアスとレンツだ。
二人とも顔が赤い。恥ずかしいのか、暑いのか。
「テッペイ殿」
ビアスが馬車から降りて、頭を下げた。
「すまなかった。あの時は、商会が怖くて逃げた。だが、銅の杯亭の話を聞いて、いてもたってもいられなくなった」
「客がうちの店にも来て、銅の杯亭で飲んだ新しい酒はないのかと聞くんです。あの酒とつまみを出してくれる店に行くと。うちの常連が流れています」
レンツが続けた。
「虫がいいのはわかっている。一度逃げた人間が、また取引してくれと言えた義理じゃない。だが……」
「だが、旨いものがある店に客は行く。それだけの話だ」
俺が言うと、ビアスが顔を上げた。
「もう一度、取引してもらえるか」
「商会の圧力は大丈夫なのか。また麦酒を止められるぞ」
「正直、麦酒を完全に失うのは怖い。だが、言われるままミードも麦火酒も手放したら、いずれ何を売るかまで商会に決められる。もう一度だけ賭けたい」
レンツも頷いた。
「銅の杯亭が証明しました。麦火酒を目玉にして、食事とつまみで客を呼ぶやり方なら、麦酒がなくてもやっていけます」
前に来た時の、商談に燃える表情が戻っている。
「わかった。ただし、壺の数は限りがある。最初は月に一壺ずつだ。増やせるようになったら増やす。チーズはまだマルタの分しか作れない。牛が一頭しかいないんでな」
「一壺で十分です。希少な酒として出します」
「恩に着る」
二人が同時に頭を下げた。
帰り際、ビアスが振り返った。
「テッペイ殿。あんた、一人で商会と喧嘩してるんだな」
「一人じゃない。村のみんなと、マルタと、ゲルハルトがいる」
「……俺たちもだ。もう逃げない」
ビアスの太い背中が、来た時より真っ直ぐだった。
三軒の店に麦火酒が並んだ。チーズはまだマルタの店だけだ。
ゲルハルトから届く報告は、毎週良くなる一方だった。
銅の杯亭は連日満席。焼きチーズと麦火酒の組み合わせが名物になっている。ビアスの居酒屋では水割りが一番人気。レンツの食堂では蜂蜜湯割りが評判だった。
前の世界では、商店街の店が一軒ずつ消えていくのをただ見ていた。俺にはスーパーに対抗する商品がなかった。
今は違う。対抗できる商品がある。少なくとも、今すぐ相手に真似できるものではない。
初めて、商売で勝てるかもしれないと思った。
◆ ◆ ◆
銅の杯亭の前に人が並んでいた。
ヴェルナーは街角から、その列を見ていた。夕方の書き入れ時。一月前は閑古鳥が鳴いていたはずの店に、客が溢れている。ビアスの居酒屋もレンツの食堂も、同じ状況だ。三軒とも、商会の麦酒を使っていない。
「まずいな」
ヴェルナーは足早に商会へ戻った。
ディートリヒの執務室。帳簿が開いたまま机に置かれている。
「銅の杯亭だけではありません。ビアスとレンツも戻りました。三軒とも新しい酒を出しています。麦火酒と呼ばれている透明な酒です。強いが旨いと評判で、飲み方も何通りかある。つまみに焼いた白い食べ物を出していて、それも客を呼んでいます」
「三軒だと。二軒は手を引いたはずだ」
「はい。ですが、銅の杯亭の成功を見て、戻ったようです。商会の麦酒がなくても商売ができると分かった以上、もう脅しは効きません」
ディートリヒが振り返った。前と違う。目の奥に苛立ちがある。
「真似はできるのか。蒸留酒ならうちでも扱っている」
ヴェルナーは懐から小瓶を取り出し、机に置いた。銅の杯亭で人を使って買わせた麦火酒だった。
「商会の酒職人にも飲ませました。蒸留酒であることは間違いないと。ですが、同じものは作れないと言っています。澄み方が違う、雑味がない、原料の質が違うと。うちの火酒とは別物です」
「つまり、商売では潰せない」
ディートリヒが椅子に座り直した。指で机を叩いている。考えている時の癖だ。
「商売で潰せないなら、商売以外で潰す。ヴェルナー、ブルクハルトに会いに行け」
ブルクハルト。ハルテンの町の徴税官だ。ヴェルナーは何度か書類を届けたことがある。商会からの盆暮れの届け物を受け取る時だけ、愛想のいい顔をする男だった。
「ブルクハルトに何を」
ディートリヒは答えなかった。ただ、薄く笑った。
ヴェルナーは背筋が冷たくなった。この笑い方を知っている。主人がこの顔をする時、相手に逃げ道はない。
ディートリヒが帳簿を閉じた。
「あの村は、一度潰れてもらう。細かいことは任せろ。お前はブルクハルトとの段取りだけ整えればいい」
ヴェルナーが頭を下げて部屋を出た。
廊下を歩きながら、ヴェルナーは思った。たかが蜂蜜酒だと主人は言っていた。一月前のことだ。雑草を抜く程度の話だと。
だが今、主人の顔から余裕が消えている。
雑草は、思ったより深く根を張っていたらしい。




