【第35話】反撃の酒
鍛冶場から煙が上がっている。いつもの鉄を叩く煙とは違う。甘い匂いが混じっている。
「テッペイ、来い。出たぞ」
グスタフの声が鍛冶場の奥から響いた。
銅の蒸留器の管の先から、透明な液体が一滴ずつ落ちていた。受け皿にしている小さな壺に、ゆっくりと溜まっていく。
グスタフが指先で液を掬い、舌に載せた。目を閉じた。
「……強い。舌が焼けるようだ。だが、後から麦の甘みが来る。これは酒だ。今まで飲んだどの酒とも違う」
俺も一口舐めた。
喉が熱くなった。前の世界で飲んだ焼酎に近い。だが、もっと荒い。若い酒だ。ただ、酒場で出すあの臭い火酒とは別物だ。麦の香りが奥にある。粗削りだが、磨けば化ける。
「もう一度蒸して、匂いのきつい部分を除けば、雑味を減らせるかもしれん」
グスタフが蒸留器の火加減を調整しながら言った。
「管をもう一巻き増やせば、蒸気を確実に冷やせる。取りこぼしが減るはずだ。クラウス、やれるか」
「やります」
クラウスが即答した。目が光っている。
三日後、二度目の蒸しが終わった。
一口飲んだ。最初の荒さが消えていた。透明で、麦の甘みが口の中に広がり、喉を過ぎた後に温かさが残る。
「これだ」
グスタフが膝を叩いた。
「テッペイ。俺は五十年生きてきたが、こんな酒は飲んだことがない。名前をつけろ」
名前か。前の世界なら麦焼酎だが、この世界にその言葉はない。
「……麦火酒。火にかけ、酒の力を集めた麦の酒だ」
「麦火酒か。いい名だ。燃えるような味に合っている」
グスタフが満足そうに顎髭を撫でた。
「本当なら、樽に入れて寝かせたい。半年、一年と置けば、角が取れてもっと旨くなるはずだ」
「わかっている。だが今は時間がない。マルタの店が持たない」
「なら、飲み方を工夫するしかないな」
グスタフが水を汲んできた。
麦火酒をそのまま飲めば、慣れない者は咽せる。酒場で出すなら、誰でも飲める形にしなければならない。
水で割ってみた。酒の角が和らいで、麦の甘みが前に出てくる。悪くない。
次に、ヒルダの蜂蜜を少し溶かした湯で割った。
グスタフが一口飲んで、目を丸くした。
「これは……旨いぞ。蜂蜜の甘さと麦の香りが合う。強い酒が苦手な者でもいけるな」
「蜂蜜湯割り。冬場には特にいいはずだ」
ニーナが庭から黄色い果実を持ってきた。
「これ、絞って入れてみたらどうですか。酸っぱいから、強い酒に合うかも」
皮ごと絞って、水割りに垂らした。一口飲んで、思わず声が出た。
酸味が酒の重さを軽くして、後味がすっきりする。前の世界のレモンサワーに近い。夏場にはこれが一番いける。
クラウスにも飲ませた。ユーリにも。ニーナにも。全員が水割りか蜂蜜湯割りか果実割りを選んだ。そのままで飲んだのはグスタフだけだった。
飲み方が四つできた。そのまま、水割り、蜂蜜湯割り、果実割り。客の好みに合わせて出せる。
手紙に書いた一月が、もう残り数日になっていた。
ゲルハルトの馬車に麦火酒の壺を二つと、チーズを布に包んで積んだ。
マルタの銅の杯亭に向かう。
店に着いた時、中はほとんど空だった。夕方の書き入れ時だというのに、客は隅の席に一人だけ。カウンターの上の杯は伏せられたままだ。棚に並んでいた麦酒の樽がない。酒棚の半分が空いている。
マルタがカウンターの奥から出てきた。髪は乱れ、目の下には濃い隈があった。いつもの太い声にも張りがない。一月前とは別人だった。
「テッペイ。来たのかい。……もう来ないかと思ってたよ」
壺を一つ、カウンターに載せた。蓋を開ける。透明な液体が光を受けて揺れた。
マルタが鼻を近づけた。
「……何だいこれは。酒の匂いがするが、見たことがない」
「麦火酒。麦から作った新しい蒸留酒だ。商会が扱っている火酒とは、造り方が違う。甘くない。水で割れば飲みやすくなる。食事にも合わせられる」
杯に少し注いだ。マルタが一口飲んだ。杯を持ったまま、動かなくなった。
「熱い。喉が焼ける。だが……旨い。蒸留酒なら飲んだことがある。だが、こんな澄んだ酒は初めてだよ」
「ミードとは別物だ。同じ蒸留酒でも、商会が扱う火酒とは造り方が違う。うちの麦と、この蒸留器でなければ同じ味にはならない」
マルタが杯を見つめた。目の色が変わった。
「値段は」
「壺一つ銀貨二枚。杯売りの値段はマルタが決めろ。ただし、安く出すな。希少な酒だということを客に伝えてくれ」
「銀貨二枚。高いね」
「ミードより強い酒だ。一杯の量は半分でいい。杯の数は倍になる。それと、飲み方が四つある」
水を貰って、目の前で割ってみせた。
「そのまま。水割り。蜂蜜を溶かした湯で割る。酸っぱい果実を絞って入れる。客の好みで選ばせればいい」
マルタが四つの杯を並べて、順番に舐めた。
「……果実のが一番飲みやすい。女の客はこっちだね。男は水割りか、そのまま。蜂蜜湯割りは寒い日に出す」
一口で客層ごとの出し方を組み立てた。
マルタが計算している顔をした。すぐに表情が緩んだ。
「なるほどね。商売のできる男になったじゃないか。で、次はいつ持ってこられる。何壺だい」
「十日ごとに二壺ずつなら運べる。もっと増やせるようにする」
「十日で二壺か。最初はそれで十分だ。希少な酒として出せば、むしろ足りないくらいがちょうどいい」
次にチーズを出した。布を開くと、白い塊が並んでいる。
「これは?」
「チーズ。牛の乳から作った。焼いて食べる。酒のつまみだ」
鉄板を借りて、目の前で焼いた。表面がこんがりと色づき、香ばしい匂いが店に広がった。
隅の席にいた客が、首を伸ばした。
「マルタ姐さん、それ何だ。いい匂いがするぞ」
マルタが焼いたチーズを一切れ、その客に渡した。
「……旨い。何だこれ。外がカリッとして、中がしっとりで、酒に合いそうだ」
「合うよ。ほら、この酒で飲んでみな」
マルタが水割りを一杯出した。客が飲んだ。目が丸くなった。
「おい。何だこの酒。麦酒とも葡萄酒とも違う。強いが……旨い。チーズと合わせたら止まらんぞ」
「合うだろう。この新しい酒と一緒に出すんだよ」
マルタがこちらを見た。目が笑っていた。
「テッペイ。あんたの手紙、短すぎたよ。一月待ってくれ、じゃなくて、とんでもないものを持ってくるから待ってろ、って書きな」
「次から気をつける」
マルタが声を上げて笑った。久しぶりに聞く笑い声だった。
店を出る時、ゲルハルトが馬車の上から声をかけた。
「マルタの顔が変わったな」
「まだ始まったばかりだ」
「ああ。だが、始まった」
馬車が通りを離れる頃、銅の杯亭の扉が開いた。焼いたチーズの匂いに誘われた男が一人、中を覗き込んでいた。




