【第34話】商会の影
ハルテンの目抜き通りに面した石造りの建物。フェルゲン商会の看板が、通りを見下ろすように掲げられている。
二階の執務室で、商会の番頭ヴェルナーが帳簿を閉じた。
「ミードとやらの話、また耳に入りました」
向かいに座る商会主ディートリヒは、葡萄酒の杯を傾けたまま動かなかった。
「銅の杯亭だけではありません。ビアスの居酒屋、レンツの食堂。三軒がこの甘い酒を仕入れています。出所はルーンハルトという辺境の村だそうです」
「ルーンハルト。……聞き覚えがございます。一年ほど前、市場に見慣れぬ調味料を売る男が現れた時、私が瓶を一つ、買って確かめました。あの男の村です」
ディートリヒが杯を置いた。五十を過ぎた男だが、目だけは若い。鋭く、冷たい。
「たかが蜂蜜酒だろう」
「はい。ですが、客の間で評判になっています。わざわざ指名で注文する者もいると」
「この街の酒は、うちが仕切っている。麦酒も蒸留酒も、うちを通さなければ手に入らない。そのことを忘れている連中がいるようだな」
ディートリヒが立ち上がった。窓から通りを見下ろす。
「ヴェルナー。三軒に書状を出せ。ミードを扱うなら、麦酒と蒸留酒の取引を止めると。それと、誰がその村から酒を運んでいるか調べろ。そちらも塞ぐ」
「よろしいのですか。マルタの店は古い常連を抱えています」
「構わん。この街で誰の許しもなく商売ができると思わせたら、次が出てくる。芽は小さいうちに摘む」
ディートリヒの声には怒りはなかった。面倒な雑草を抜く程度の話だ。杯に残った葡萄酒を飲み干して、窓の外に目を戻した。
「それと、その村の名前は覚えておけ。今のところは放っておくが、目障りになるようなら、別の手もある」
ヴェルナーが頭を下げて部屋を出た。
窓の外では、ハルテンの街が何も知らずに動いている。
◆ ◆ ◆
それから数日後のことだった。
ゲルハルトの馬車が村に着いたのは、いつもより早い時間だった。
荷台にはビアスとレンツが乗っている。顔が暗い。前に来た時の、商談に燃える表情とは別人だった。
「テッペイ殿。言いにくいことなんだが」
ビアスが先に口を開いた。太い首を縮めて、目を逸らしている。
「麦酒が入ってこなくなった」
「麦酒?」
「フェルゲン商会から通告があった。テッペイ殿のところの甘い酒を扱う店には、麦酒と蒸留酒は卸さないとな」
レンツが続けた。
「うちも同じです。今朝、商会の使いが来ました。取引停止の書状を持って」
ビアスが拳を握った。
「居酒屋が麦酒を出せなくなったら終わりだ。客の八割は麦酒を飲みに来る。ミードは旨いが甘い。甘い酒は何杯も飲めない。一杯目にミードを頼んだ客も、二杯目からは麦酒に切り替える。その麦酒がなくなったら、客は別の店に行くだけだ」
「食堂も同じです。ミードは人気がありますが、甘い酒が苦手な客もいます。それに月三壺では、夕方の客全員には行き渡りません」
レンツの声が小さくなった。
わかっていた。こうなることは、前の世界で見てきた。商店街の時と同じだ。個別の店を攻めるのではなく、流通を止めて全体を兵糧攻めにする。
「二人とも、ミードの取引を止めたいということか」
「すまない」ビアスが頭を下げた。「店を潰すわけにはいかないんだ。女房も子供もいる」
「テッペイ殿のミードは本当にうまい酒です。でも、商会を敵に回す力は、うちにはありません」
レンツも頭を下げた。
責められない。この二人は商売で家族を食わせている。命がけで戦えとは言えない。
「わかった。二人の判断を尊重する。壺の代金は精算する。売り掛けは気にするな」
「恩に着る」
ビアスの声が震えた。レンツは何も言わず、深く頭を下げたまま動かなかった。
二人が帰ったあと、ゲルハルトが残った。
「マルタのところにも来ているぞ」
「どうなった」
「マルタは断った。商会の使いを追い返した」
「追い返した?」
「あの女は、追い返し方も派手だったらしい。使いの男に向かって、フェルゲンに伝えろ、銅の杯亭の酒棚に誰の酒を並べるかは私が決める、と」
ゲルハルトが苦い顔で笑った。
「だが、マルタも無事では済まない。麦酒が止まれば客が離れる。常連の中にも、商会に睨まれるのを嫌がって足が遠のく者は出てくるだろう」
「商会は、客にまで圧力をかけるのか」
「直接は言わない。だが、商会と取引のある商人には、それとなく銅の杯亭に行くなと匂わせる。ハルテンの商人の半分はフェルゲンと何かしらの繋がりがある。逆らえば仕入れ値を上げられたり、取引を切られたりする」
前の世界のスーパーと、同じやり方だ。
「ゲルハルト。お前のところには来なかったか」
「来たよ。数日前にな」
「数日前?」
「ビアスやレンツより先だ。まず俺を止めようとした。テッペイの村への荷を運ぶなと言われた。断った」
ゲルハルトの表情が変わらなかった。事実を述べているだけだ。
「断って大丈夫なのか」
「俺はフェルゲンとは取引していない。仕入れ先は自分で開拓した。商会に止められるものがない」
ゲルハルトがこちらを見た。
「テッペイ。マルタが逃げなかったのは、あの女の意地だ。だが、意地だけでは店は守れない。何か手はあるのか」
「ある」
「何だ」
「まだ言えない。だが、もう少しだけ時間をくれ」
ゲルハルトがしばらく黙った。それから、一つ頷いた。
「わかった。待つ」
その夜、マルタに手紙を書いた。
ゲルハルトに託す。明後日には届くだろう。
短い手紙だ。
マルタ。
一月だけ待ってくれ。
テッペイ




