【第32話】三つの店
ミードの卸売りを始めて一月が過ぎた頃、ゲルハルトの馬車で見知らぬ男が二人やってきた。
一人は太い首に革のエプロンをかけた中年。もう一人は痩せた男で、髪を後ろで縛っている。
「テッペイ殿。お初にお目にかかる。ビアスだ。ハルテンで居酒屋をやっている」
「レンツです。食堂を営んでおります」
ゲルハルトが後ろで腕を組んでいた。俺を見て、小さく頷いた。
「二人ともこの一月、俺の店に通ってきた。素性も商売ぶりも知っている。勝手に道を探られるより、俺が連れてきたほうがましだと思ってな」
ゲルハルトの判断だ。この男が信用できると言うなら、話は聞く。
「マルタの店で出している甘い酒のことは、もう街中で話題になっている。うちでも扱わせてもらえないか」
ビアスが単刀直入に言った。居酒屋の主人らしい。回りくどいことが嫌いなのだろう。
「うちは食堂ですが、酒も出します。ミードは女性のお客にも受けると思うのです」
レンツは丁寧だった。ビアスとは商売の仕方が違う。
「それと、もう一つお願いがあります。マルタの店で使っているドレッシングとマヨネーズ。あれも卸してもらえませんか。うちの客が、銅の杯亭で食べた味が忘れられないと言うんです」
食堂を営んでいる男だ。酒だけではなく、料理の味を変える調味料にも目が行く。商売をわかっている。
俺は二人を鍛冶場の脇に座らせた。ユーリが水を運んできた。
「いくつか条件がある」
「聞こう」
「一つ。銅の杯亭が最優先だ。マルタへの納品を減らすことはしない。二つ。今の生産量では三店全部に十分な量を回すのは難しい。増産が追いつくまで、そちらには月に壺二つずつだ」
「二つか」ビアスが唸った。「テッペイ殿、正直に言う。壺二つじゃ商売にならん。うちは毎晩四十人は入る。二壺で四十杯だろう。二日で売り切れちまう。残り二十八日はどうすればいい」
「生産量に限りがある」
「わかっている。だが、三つなら何とかなる。三つあれば週末に出して、平日は麦酒で回す。客にも『今週末に来い』と言える」
レンツも頷いた。「うちも同じです。二つでは出し惜しみになって、かえって評判を落とします」
頭の中で計算した。マルタには月に六壺。二店に三壺ずつ足すと、合計十二壺だ。増設した巣箱の蜂蜜が採れるのは来月。そこから仕込んで、飲めるようになるまでさらに時間がかかる。だが、ニーナが先月から多めに仕込んでくれていた分がある。今ある在庫と仕込み中の分を合わせれば、月三壺ずつなら当面は回せる。
「三つだ。ただし、蜂蜜の収穫が追いつかない月は二つに減ることもある。それでいいなら」
「十分だ」ビアスが即答した。
「ありがとうございます」レンツが頭を下げた。
「値段は壺一つ銀貨一枚。マルタと同じだ。杯売りの値段はそちらで決めてくれ。ただし、銅貨五枚より安く出すな。安売り競争でミードの価値が落ちる」
「納得だ」とビアス。
「異存ありません」とレンツ。
レンツが少し前のめりになった。
「それで、ドレッシングとマヨネーズの方は……」
「レンツ。ドレッシングは月に壺一つ出せる。だがマヨネーズは卵を使う。日持ちしない。売り切れる量だけ扱ってくれ。壺半分、月に二回届ける。余らせたら次から減らす」
「承知しました」
レンツが深く頭を下げた。食堂の主人にとっては、酒よりも調味料の方が商売の根幹に響くのかもしれない。
二人が帰ったあと、ゲルハルトが残った。
「お前、商売がうまくなったな」
「うまくない。決めることを先に決めただけだ」
「それが商売だよ」
ゲルハルトが笑った。久しぶりに見る笑顔だ。
その夜、寝床で天井を見つめていた。
三つの店にミードを卸す。売れている。客が増えている。喜ぶべきことだ。
だが、腹の底に引っかかるものがある。
前の世界を思い出す。商店街で黒田精肉店が売れ始めた頃のことだ。コロッケが評判になり、わざわざ隣町から買いに来る客がいた。テレビの取材も二回来た。年商が三割増えた。
そしてその年の暮れ、商店街の裏手に大型スーパーが出店した。
最初は影響がないと思った。スーパーの肉は安いが質が悪い。うちの常連は味がわかる客だ。そう思っていた。
だが、スーパーの強さは安さだけじゃなかった。肉も魚も野菜も惣菜も一カ所で揃う。駐車場がある。毎日同じ品が同じ棚に並ぶ。品切れがない。安定して買えるという安心感が、客の足を変えた。味で勝っていても、便利さには勝てなかった。
そしてスーパーは流通も押さえにかかった。問屋に大量発注をちらつかせて、商店街との取引を切らせた。魚屋が良い魚を仕入れられなくなり、八百屋が市場で競り負け始めた。個々の店を潰したんじゃない。商店街を支えていた流通の根を枯らした。街全体の客足が減り、うちの客も減った。
あの時、俺は何もしなかった。三軒隣の魚屋の親父が「黒田さん、一緒に何かできないか」と言ってきた時、忙しいからと断った。自分の店さえ良ければいいと思っていた。魚屋は半年後に閉めた。八百屋はその三ヶ月後。気づいた時には商店街に肉屋一軒だけが残っていて、客は誰もいなかった。
今のハルテンは、あの時と同じ匂いがする。
マルタが言っていた。この街の酒はフェルゲン商会が仕切っている。俺のミードは、その支配に穴を開ける商品だ。商会が黙っているわけがない。
問題は、いつ来るかじゃない。来た時にどう動けるかだ。
ミードだけでは足りない。蜂蜜の量に限りがある以上、ミード一本に頼る商売は脆い。もう一つ、別の商品が要る。商会が手を出せない、こちらだけが持っている武器が。
翌朝、クラウスの鍛冶場に行った。
クラウスは朝から鉄を叩いていた。農具の注文が溜まっている。移住者が増えた分、鍬や鎌の需要も増えた。
「クラウス。一つ相談がある」
「はい、何でしょう」
火箸を置いて振り返った。汗が額から顎に流れている。
「酒を造りたい。ミードとは別の、もっと強い酒だ」
「強い酒、ですか」
「昔聞いた話だが、酒を熱して蒸気を集めると、元の酒より強い酒ができるらしい。度数が高くて、少量で酔える。香りも凝縮される」
クラウスが目を丸くした。
「テッペイさんが作り方を知っているんですか」
「いや、原理をかじった程度だ。テレビで……いや、以前どこかで見聞きしただけだ。蒸気を管に通して冷やすと液体に戻る、くらいしか覚えていない。器の形も温度の加減もわからない」
正直に言った。中途半端な知識で作って失敗するよりも、詳しい人間を頼った方が早い。
「だから頼みたいのは、お前の師匠だ」
「グスタフ師匠を、ですか」
グスタフ。ドルンの鍛冶親方で、クラウスの元師匠だ。腕は超一流で、酒も大好き。クラウスが「テッペイさんの村で誰も見たことがない道具を作りたい」と申し出た時、「好きにしろ、馬鹿弟子」と送り出してくれた男だ。
「グスタフは酒好きだろう。酒の作り方にも詳しいんじゃないか」
「詳しいなんてもんじゃないです。師匠は暇さえあれば醸造所を見に行って、職人に質問攻めにしてました。自分でも何度か酒を仕込んで、うまくいかなくて鍛冶場の天井を焦がしたこともあります」
クラウスが苦笑いした。
「その師匠の酒の知識と、鍛冶の腕を借りたい。蒸留器という道具を一緒に作れないか。俺は原理だけ伝える。細かい設計はグスタフに任せる」
「師匠なら、喜んでやると思います。新しい酒を造ると聞けば飛んで来ますよ」
「こちらには、うちの畑で採れた麦と果実がある。魔獣の堆肥で育てたものだ。味が濃い。蒸留しても香りが残るはずだ」
「あの畑の麦と果実を酒にするんですか。確かに、あれだけ味が濃ければ……」
クラウスの顔に、鍛冶師の顔が混じった。
「クラウス。この話はまだ誰にも言うな」
「なぜですか」
「まだ作れるかどうかわからない。できてから話す」
本当の理由は言わなかった。商会が動く前に、札を揃えておきたい。手の内を見せるのは、勝負の時だけだ。
前の世界では、目の前の仕事だけを見て周りを見なかった。今度は違う。先を読んで、手を打つ。不器用だから小細工はできない。だが、旨いものを作ることだけは、誰にも負けない。
鍛冶場を出ると、ガルドが日向で壺の蓋をおもちゃにしていた。鼻で転がして、追いかけて、また転がす。
「お前は気楽でいいな」
尻尾が一度だけ揺れた。




