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【第30話】村から町へ

エルスト一家が来てから半年が過ぎた。


 あの時は四人だった。今はもう数えきれない。エルスト一家を受け入れたという噂が近隣に広がり、飢えた村から行き場を失った人間が次々にやってきた。ブレンナー村から十二人。ノルトリッヒ村から二十人。さらに南の集落からも、名前すら聞いたことのない村からも、痩せた顔をした家族連れが現れた。


 最初の頃はベルントが一組ずつ面談して受け入れを決めていたが、途中から追いつかなくなった。エルストが窓口役を買って出た。自分が移住者だったからこそ、新しく来た者の不安がわかる。ハイデ村で飢えた経験と、ルーンハルトで立ち直った経験の両方を持っている男の言葉は、どんな説明より効いた。


 人口は二百を超えた。ミーナが「新しい子の名前、もう覚えきれない」とこぼすほどだった。


 最初の三ヶ月は、綱渡りだった。


 ある夜、ベルントに保管庫へ呼ばれた。蝋燭一本の明かりの下で、ベルントが麦の袋を数えていた。


「百五十の口で、袋が四十。一日二袋として」


「二十日で尽きる」


「新しい畑が実るまで、早くて二十五日」


 五日、足りない。


「五日分は、森が出す」


 蝋燭越しに、ベルントがこちらを見た。


「骨のスープを濃くする。ガルドの狩りを増やす。豆は粥に伸ばして嵩を稼ぐ。五日なら、保たせられる」


「……六十年で一番危ない橋だ」


 ベルントが袋の山に手を置いた。


「だが、六十年で一番、渡る価値のある橋でもある」


 実際には、畑は二十二日で実った。魔物の堆肥は、こちらの見積もりより三日早かった。人手が増えた分だけ収穫も増える。新しい区画は古い畑と変わらない収量を叩き出した。


 先日、新しい水門の前で、エルストが若い移住者に言っているのを見かけた。

「焦るな。土を見ろ。湿っているなら水はいらない」

 それは半年前、ハンスが彼に怒鳴った言葉そのものだった。少し離れた場所で、ハンスが黙ってそれを聞いていた。そして、ほんの少しだけ頷いた。


 アンネは今では共同台所で、新しく来た女たちに包丁の使い方を教えている。ただし、野菜の切れ端を捨てる時だけは、今でも少しだけ顔をしかめる。飢えの記憶は、そう簡単には消えない。



 村の景色は別物になった。


 丸太小屋が二十棟以上並び、畑は東西に大きく広がった。水路は三本の支流に枝分かれし、南端の新しい区画まで水を送っている。ユーリが仕切る若い衆が毎朝集まり、その日の作業を割り振る光景が日常になった。


 変わったのは中だけではない。外からの客が増えた。


 ゲルハルトが月一回の行商で来るのはいつも通りだが、最近は他の行商人も立ち寄るようになった。目当てはドレッシングとマヨネーズ、それにピクルスだ。ピクルスなど他でも作れそうなものだが、ルーンハルトの野菜は別物だった。魔物の骨を混ぜた堆肥で育てた作物は、味が濃く、甘みが強い。同じ酢漬けでも他の村のものとは歯ごたえが違うと、行商人たちが口を揃えて言う。日持ちもする。馬車で二日かかる街でも品質が落ちない。ナッツ油で作ったマヨネーズはさらに人気が高く、一壺持って行けば仕入れ値の三倍で売れるとゲルハルトがこぼしていた。森胡椒と地辛の調合スパイスも、今では仕入れの予約待ちが出ている。


 売れるものがあるということは、買えるものも増えるということだ。行商人たちが持ち込む布、染料、革、蝋燭。以前は手に入らなかったものが、商品の交換で手に入るようになった。



 移住者の中に、変わった男がいた。


 フリッツ。四十がらみの、無口で目つきの悪い木工職人だ。ブレンナー村では家具を作っていたが、客がいなくなって村ごと潰れた。村に来てから三日、誰とも口をきかなかった。ただ、端材だけは黙って拾い集めていた。四日目の朝、拾った端材で棚を作り始めた。手が速い。木を見ただけでどこに刃を入れるかわかるような男だった。


 フリッツの手仕事を見ていて、ずっと引っかかっていたことを思い出した。おろし金だ。以前、クラウスに頼んで薄い鉄板に突起を打ち出してもらったことがある。裏から釘で叩けば凸凹になる。理屈は簡単だった。だが、鉄板だけでは使えない。力を込めて擦りおろすには、しっかりした枠と握りやすい柄がいる。クラウスは金属の腕は確かだが、木を削るのは専門外だ。鉄板を丸めて柄を作ってみたが、手が滑って使い物にならなかった。


 フリッツの仕事ぶりを見た時、もしやと思った。


「フリッツ、頼みがある。こういう形の柄と枠を作れるか」


 クラウスの鍛冶場に残っていた試作の鉄板を見せた。フリッツは黙ってそれを手に取り、裏表をひっくり返して眺めた。


「枠は樫の木がいい。柄は手のひらに合わせて削る」


 翌日には完成していた。


 台所でジャガイモに当てて引いた。白い繊維がぼろぼろと落ちた。三十秒で一個分のすりおろしができた。


「……なんだこれは」


 フリッツが呟いた。


 それが始まりだった。



 俺の頭の中には、前の世界で見てきた道具の記憶がある。肉屋として、客として、生活者として使ってきたものだ。構造はわかる。だが、作る技術はない。クラウスには鉄を操る腕があるが、複雑な木組みや仕上げはできない。フリッツには木と革を自在に扱う手があるが、金属は触れない。


 三人が組めば作れる。


 次に作ったのは皮剥き器だった。薄い鉄の刃を木の柄に取り付けただけのものだ。ジャガイモの皮を剥くのに、包丁で厚く切り落としていたのが、薄く均一に剥けるようになった。ニーナが使ってみて、目を丸くした。


「これ、野菜の無駄が半分になるわ」


 その次は手押しポンプだ。これは苦労した。筒の中にぴったりはまる板を上下させると、空気の力で水が押し上げられる。理屈は簡単だが、筒と板の隙間をなくすのが難しい。クラウスが鉄の筒を叩き出し、フリッツが木の弁と革のパッキンを作った。三回失敗して、四回目にようやく水が出た。


 井戸の横に据え付けたポンプの柄をエルストの娘が押すと、水が勢いよく噴き出した。それまで、大人が桶を何度も上げ下げしていた作業だ。子供の力で水が汲める。集まった村人の間からどよめきが起きた。


 ベルントが腕を組んで見ていた。噴き出す水と、柄を押す子供の手を、交互に見ていた。



 夕方。村の広場で、ベルントと並んで立った。


 半年前とは別の場所に立っているようだった。並んだ家。広がった畑。三本の水路。鍛冶場の煙。行商人の馬車が停まっている広場。走り回る子供の数が倍になった。


「テッペイ」


「なんだ」


「ここはもう村じゃないな」


 ベルントの声が少し震えていた。


「町だ。ルーンハルトは町になった」


 俺は何も返せなかった。ただ頷いた。


 ガルドが広場の隅で、子供たちに囲まれている。以前は銀狼を見ただけで泣いていた移住者の子供たちが、今はガルドの背中に手を伸ばしている。ガルドは迷惑そうに尻尾を振っていた。


 町になった。人が増え、物が増え、道具が増えた。


 だが大きくなれば目立つ。ゲルハルトが先月、声を落として言っていた。


「市場街で、お前の村の話をしている連中がいた。商人じゃない。もっと厄介な連中だ」


 守るものが増えた。それは嬉しいことだ。


 だが同時に、怖いことでもある。

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