【第29話】新しい顔、新しい問題
エルスト一家がルーンハルト村での生活を始めて、三日が経った。
ヘルマンが急ごしらえで作った小さな丸太小屋が彼らの家になった。粗末な作りだが、屋根があり、隙間風を防げる壁がある。エルストは何度も頭を下げ、アンネは唇を噛んで天井を見上げていた。ハイデ村では冬の寒さで凍死する者が毎年出ていたらしい。
だが、新しい顔が加わるということは、新しい問題が生まれるということだ。
「違う、そうじゃない。水路の開け方は昨日教えただろう」
畑の方から、ハンスの苛立った声が聞こえた。
俺が台所の窓から顔を出すと、ハンスが鍬を持ったままエルストを睨みつけていた。エルストは肩をすくめ、何度も頭を下げている。
「すみません、すみません。早く水をやらなければ作物が枯れると焦ってしまって」
「ここはハイデ村じゃない。水は十分にある。一気に水を流し込めば、せっかく整えた土が流されてしまうんだ。作物の根元をよく見ろ。湿り気があるうちは水をやるな」
ハンスの言い分は正しい。ルーンハルトの水路は小川から引いた水を段階的に畑へ送る仕組みになっている。だが、常に水不足と戦ってきたエルストには、その「余裕」が理解できないのだろう。焦って動き回り、かえってハンスの仕事を邪魔してしまっている。
問題は畑だけではない。
「ニーナさん、この傷んだ野菜の切れ端、私が貰ってもいいでしょうか。スープにでもして食べますから」
アンネが申し訳なさそうに、調理で切り落とした野菜の端っこを抱え込んでいた。
ニーナが横から覗き込み、苦笑いする。
「ちょっと待って、それは本当に傷んでるから捨てるのよ。新しい野菜はいくらでもあるんだから」
「でも、食べ物を捨てるなんて……」
アンネは村の共同台所の広さと、そこにある鉄製の包丁や鍋の数々に圧倒されていた。ハイデ村では、欠けた石包丁一本で全てをやりくりしていたという。彼女は「失敗してはいけない」というプレッシャーからか、動きが硬く、何をするにもニーナやヒルダの指示を仰いでいた。
そして、最大の問題は別にある。
昼時になり、畑仕事から戻ってきたエルストが、共同台所の前で立ち止まった。彼の視線の先には、俺がいる。
俺の目の前には、こんがりと焼け焦げたディッケルのバラ肉がある。分厚く切って塩を振り、直火で炙っただけの豪快な昼飯だ。ガルドが横で涎を垂らして待機している。
エルストの顔が引きつり、一歩後ずさりした。
「……本当に、食うんですか」
声が震えている。
「ああ。食うか?」
俺が焼き上がった肉の一切れを串に刺して差し出すと、エルストは顔を青ざめさせ、首を激しく横に振った。
「結構です。人間が、そのような……恐ろしいものを口にするわけにはいきません」
「恐ろしい?」
「獣の肉は、魔物や野蛮な生き物が食うものです。人間が口にすれば、呪いを受けると教わりました。それに、その銀色の魔獣……」
エルストはガルドを指差すことすら恐ろしいようで、目を伏せた。
ガルドは肉しか見ていない。俺の手から肉を咥え取ると、熱いのも構わず激しくむしゃぶりついた。
エルストの反応は無理もない。この世界の常識だ。むしろ、ユーリやベルントたちが俺の肉食を受け入れ、大肉祭りで村中が肉を食ったルーンハルトが異常なのだ。
夕方。
俺は村の広場で、ハンスとニーナに捕まっていた。
「テッペイ、少し相談があるんだが」
ハンスが困り果てた顔で切り出した。
「エルスト一家のことか?」
「ああ。エルストは真面目だ。働き者だし、手抜きもしない。だが、何度言ってもうちの村のやり方を覚えてくれない。このままじゃ、こっちの仕事が進まないんだ。……怒鳴るつもりはなかったんだが、あの手つきで水門を開けられると、つい声が荒くなる」
ニーナも深くため息をついた。
「アンネさんも同じよ。立派な包丁や鍋を怖がって使おうとしないし、傷んだ野菜のクズを捨てようとすると血相を変えて止めるの。ずっと謝ってばかりで……見てるこっちまで苦しくなるわ」
二人とも、エルスト一家を追い出したいわけではない。ただ、これまでの平和な日常がかき乱され、どう接していいかわからず疲れ果てていた。
「すまない。俺からもう一度、うまく話してみる」
「頼むよ、テッペイ。あんたが言い出したことなんだからな」
ハンスに肩を叩かれ、二人は去っていった。
村の人口が増えれば、畑も水路もさらに広げられる。移住者の受け入れは、ルーンハルトを大きくするために避けて通れない道だ。俺としても、せっかく来たエルスト一家には何としても村に馴染んでほしい。
だが、現実は甘くなかった。俺は古株の村人と移住者の間で完全に板挟みになっていた。
一人になり、焚き火の前に座って深いため息をついた。
ユーリが隣に腰を下ろし、俺に木の杯を渡してきた。中にはミードが入っている。
「お疲れみたいだな、テッペイ」
「疲れる。肉を切るほうがよっぽど楽だ」
ミードを一気に煽り、喉の奥を焼く甘さに目を細める。
「……無理なら、出ていってもらうしかないのか?」
ユーリが真顔で言った。
俺は首を振った。
「いや。それじゃ何も変わらない。これからもっと人が増える。そのたびに追い出していたら、村は大きくならない」
炎を見つめながら、前の世界の記憶が蘇った。
黒田精肉店に、若いアルバイトが入ってきた時のことだ。包丁の持ち方も知らない学生だった。俺は一から十まで細かく指示を出し、少しでも間違えれば怒鳴りつけた。「なぜ言われた通りにできないんだ」「見て覚えろ」。結局、その学生は一ヶ月で辞めた。その後も何人か雇ったが、長く続く者はいなかった。
俺は人に頼るのが苦手だった。そして、人を育てるのも、まとめるのも下手だった。
全部一人でやったほうが早い。そうやって店を切り盛りし、最後には体を壊した。
ここでも同じことを繰り返すのか。
俺が全部指示を出して、俺のやり方を押し付けて。
「……テッペイ?」
ユーリが不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。
「ユーリ。お前は、最初からハンスのように水路の管理ができたか?」
「いや? 俺は木に登るくらいしか能がなかったからな。ハンスに何度も怒られたよ」
「ニーナは、最初からあのドレッシングを作れたか?」
「作れるわけがない。テッペイが森胡椒のすり潰し方を教えたんだろう」
そうだ。ルーンハルトの村人も、最初から何でもできたわけじゃない。
少しずつ変わってきたのだ。
「俺は、エルストたちに急ぎすぎているのかもしれない」
俺は立ち上がった。
「飯を作る。今夜は、エルスト一家の歓迎会だ」
「肉か?」
「いや。あいつらが安心して食えるものだ」
俺は台所に向かった。
骨スープは使わない。獣の骨を煮込んだと知れば、彼らはパニックになるだろう。
まだ青いトマトは使えない。代わりに、こちらの世界でラッケルと呼ばれるジャガイモによく似た野菜と、玉ねぎ、それに甘みのある根菜を多めに刻む。
ナッツ油を多めに引いた鍋で、それらをじっくりと炒める。旨みを引き出すためだ。岩塩を振り、とろみをつけるためのジャガイモもすりおろして加える。
水を足して煮込む。すりおろしたジャガイモが熱で溶け出し、小麦粉がなくても汁にしっかりとしたとろみがつく。肉の入っていない、濃厚な野菜のシチューだ。
これに、たっぷりの油で揚げたジャガイモを添える。
「エルスト。アンネ」
俺は二人の前に木製のボウルを置いた。
「食ってくれ。村の野菜だけで作った」
エルストは恐る恐るボウルを覗き込んだ。肉が入っていないことを確認し、木の匙で一口すする。
その瞬間、彼の目が大きく見開かれた。
「……甘い。それに、こんなに濃厚な……」
アンネも子供たちも、夢中で食べ始めた。
「美味しい。野菜だけで、どうしてこんなに」
「炒めてから煮込んだんだ。油のコクが野菜の甘みを引き出している」
俺はエルストの隣に座った。
「エルスト。焦る必要はない」
エルストが顔を上げた。
「ハンスのやり方に慣れるまで、時間がかかって当然だ。水路も、畑も、この村のやり方は他とは違う。だから、わからないことは聞け。ハンスもニーナも、聞かれれば答える」
エルストは匙を持ったまま、黙って俺の言葉を聞いていた。
「お前たちがハイデ村でどれだけ苦労してきたか、俺にはわからない。だが、ここでは食い物の心配はいらない。今日みたいに、腹一杯食える」
俺は自分のボウルを取り、揚げたジャガイモをかじった。
「だから、周りを見てくれ。自分が何をすべきか、自分で考えて動いてみてほしい。俺たちは、お前たちを縛り付けるつもりはない」
エルストは泣かなかった。
ただ、匙を握る手が震えていた。シチューをすくっては飲み、またすくう。その動きだけが、妙に必死だった。
人をまとめるということは、自分のやり方を押し付けることではない。
相手の不安を取り除き、同じ釜の飯を食って、同じ方向を向くことだ。
肉食という決定的な違いはある。それはすぐには埋まらないだろう。だが、少なくとも今夜、俺たちは同じテーブルで、同じシチューを食っている。
「……テッペイさん」
エルストが空になったボウルを置いて言った。
「明日、ハンスさんにもう一度、土の触り方を教えてもらいます」
「ああ。そうしてくれ」
俺はミードを一口飲み、焚き火の向こうで骨をかじっているガルドを見た。
問題は山積みだ。
だが、悪くない夜だった。




