【第28話】噂は風に乗って
大肉祭りから三週間が経った。
あの日のことは、まだ村のあちこちで話題になっている。ミーナがニーナの袖を引いて「あのカリカリしたやつ、また食べたい」とせがんでいるのを見かけた。ヘルマンが鍛冶場の横で黙々と木を削りながら、ふと手を止めて何か考えている。何を思い出しているのかは聞かなくてもわかる。
ベルントとの約束通り、肉の宴はあの一度きりだ。翌日から、俺の台所はいつもの日常に戻った。ガルドと俺の分だけの焼肉。ユーリに分けるスープ。ヒルダに渡す卵焼き。
だが、村の空気は明らかに変わった。
あの日まで肉を避けていた人間が何人かいた。年配の男たちだ。生まれてから六十年、肉を口にしたことがなかった者たちが、恐る恐るステーキを口に運び、目を見開いた。あれ以来、朝の共同広場ですれ違うと、以前は素通りだった老人がわざわざ足を止めるようになった。
「テッペイ、あの肉は何だったんだ。ドライホルンか」
「ああ。あれはドライホルンのロース肉だ。肩の部分を厚めに切って焼いた」
「そうか。ロース、というのか」
それだけ言って、老人は行ってしまう。だが翌朝もまた聞きに来る。次の日はディッケルの部位について。その次はヴァルトフーンの調理法。聞くだけ聞いて、黙って帰る。まるで、忘れたくないから何度も確認しているみたいだった。
噂は村の外にも広がっていた。
ゲルハルトが月に一度の行商で来た時、真っ先にそれを教えてくれた。
「テッペイ、お前の村のこと、知らない奴がいなくなってきたぞ」
「何の噂だ」
「全部だ。畑が豊作だとか、蜂蜜があるとか、水路を引いたとか。だが一番広がっているのは別の話だ」
ゲルハルトが声を落とした。
「あの村では肉を食っている連中がいるらしい、とな」
やはりそうなったか。大肉祭りの日、広場にいたのは八十人以上だ。全員に口止めなどできるわけがない。むしろ、あれだけの衝撃を受けた人間が誰にも話さないほうが不自然だ。
「どの辺まで広がっている」
「近隣の村は全部だ。ハイデ村、ブレンナー村、ノルトリッヒ村。どこも貧しい村だ。ルーンハルトと同じように辺境に置き去りにされた連中だよ」
ゲルハルトは腕を組んだ。
「最初に聞いた奴はみんな同じ反応だ。肉を食うなんて、よほど飢えが酷いのか、と。ところが畑は豊作で、ドレッシングやら蜂蜜酒やら市場に売りに来るほどだと。一体どういう村なんだ、と首をひねっている。怖がる奴もいれば、興味を持つ奴もいる。特にハイデ村は去年の冬に飢饉で人が減った。あそこの連中は、禁忌がどうとか言っていられる状況じゃない」
その言葉の三日後だった。
朝、畑の見回りに出ようとしたら、村の入口にユーリが立っていた。
「テッペイ、来てくれ」
ユーリの声が硬い。何かあったのかと思って足を速めた。
村の入口、道が畑に分かれるあたりに、四人の人間が立っていた。
立っていた、というより、立ち尽くしていた。四人とも畑のほうを向いている。ジャガイモ——こちらの世界ではラッケルと呼ばれている——が一面に実っている畑だ。葉物野菜の緑が朝日を受けて光っている。水路から水が流れる音がしている。
男が一人。女が一人。子供が二人。痩せた家族だった。男は三十代くらいだろうか。頬がこけて、目の下に濃い隈がある。女は男の腕にしがみつくようにして立っている。子供は五歳と三歳くらいだ。上の子が下の子の手を握っている。
全員、服がぼろぼろだった。靴は泥だらけで、上の子は裸足だ。
男の目が畑から離れなかった。自分たちの村では枯れた土しか見ていなかったのだろう。あれだけの作物が土から生えている光景を、信じられない顔で見ていた。
「水が……畑に、流れている」
かすれた声だった。水路の存在に気づいたのだ。辺境の村に水路などない。川から桶で運ぶのが当たり前の世界で、水が勝手に畑まで流れてくる。
「あの……ルーンハルトの方ですか」
男が声を出した。かすれた声だった。
「そうだ。お前たちは」
「ハイデ村から来ました。エルストと言います。妻のアンネと子供たちです」
男が頭を下げた。女も頭を下げた。子供たちは何が起きているのかわからないようで、ぼんやりとこちらを見ている。
「去年の冬に畑が全滅しました。蓄えも尽きて……ここに来れば食えると聞いて」
ユーリが俺を見た。俺はユーリを見た。
「とりあえず座れ。飯は食ったか」
「……三日、まともに食っていません」
三日。子供二人を連れて、三日まともに食っていない。歩いてここまで来たのか。
「ユーリ、パンとスープを持ってきてくれ」
ユーリが走った。
道の脇の木陰にエルストの家族を座らせた。女は腰を下ろした途端に目を閉じた。疲労が限界だったのだろう。子供たちは不安そうに母親の腕にくっついた。
エルストは座ってからも背筋を伸ばしていた。こちらの出方を窺っている。
「今すぐ受け入れるとは言えない。村長に話を通す必要がある」
「わかっています」
「だが、飯は食わせる。まずはそれからだ」
ユーリがパンとスープを運んできた。骨スープだ。肉の入っていないやつだが、しっかり出汁が出ている。パンは昨日の残りだが、水車の粉で焼いたやつだから柔らかい。
子供たちがスープに手をつけた。最初は恐る恐る。一口飲んで、目が大きくなった。
「おいしい」
上の子が小さな声で言った。下の子はもう無言で飲んでいた。
エルストがパンをちぎって口に入れた。三回噛んで、飲み込んだ。それから目を伏せた。
「……旨い」
かすれた一言だった。妻のアンネが泣いていた。パンを持ったまま、声を殺して泣いていた。
俺はその場を離れた。泣いているところを見られたくないだろう。
ベルントに報告した。
「移住希望者だ。ハイデ村から。四人家族」
ベルントはしばらく黙った。窓の外を見ている。鍛冶場の煙が見える。
「来たか」
「来た」
「ゲルハルトの言った通りだな。遅かれ早かれ来ると思っていた」
ベルントが椅子に座り直した。
「一組で済むわけがない。受け入れれば、次が来る。その次も来る。断れば、あの家族はどうなる」
「死ぬかもしれない。子供が二人いる」
ベルントの顔が歪んだ。
「受け入れるなら条件がいる。働くこと。村の決まりに従うこと。肉食については……どうする」
「無理に食わせない。うちの村のやり方を見て、自分で決めてもらう」
「お前らしい答えだな」
ベルントが立ち上がった。
「今晩、村の集まりを開く。全員に聞く。受け入れるかどうかは、村のみんなで決めることだ」
夜。広場の焚き火を囲んで、村人が集まった。
ベルントが説明した。ハイデ村から家族が来たこと。移住を希望していること。今後も同じような人間が来る可能性があること。
反応は分かれた。
「畑を広げるなら人が要る。助かる」
カイルが真っ先に言った。水路の延長工事を手伝ってくれる人間がほしいと前から言っていた。
「子供がいるんだろ。可哀想じゃないか、追い返すなんて」
ニーナが言った。ミーナが母親の隣で頷いている。
「だが、食わせる余裕はあるのか」
年配の男が腕を組んだ。ハンスだ。畑の管理をしている慎重な男だ。
「余裕はある」
俺が言った。全員がこちらを見た。
「ジャガイモ、いやラッケルだったか。そいつは畑を広げた分だけ穫れている。蜂蜜は毎月壺四つ分。鶏は三十羽近くいて、卵は毎日二十個以上。牛も二頭いる。四人増えたところで食糧が足りなくなることはない」
「四人で済むのか。次が来たら」
ハンスの指摘はもっともだった。
「来るだろうな。十人かもしれないし、二十人かもしれない」
「そんなに来たら困る」
「困らない。人が増えれば畑も広げられるし、できることが増える。今、この村に足りないものは何だ。人手だろう」
ハンスが黙った。反論できないのだ。水路の延長も、新しい畑の開墾も、クラウスの鍛冶場の手伝いも、全部人が足りなくて止まっている。
ベルントが口を開いた。
「儂は受け入れるつもりだ。ただし、条件がある。一つ、働くこと。二つ、村の決まりに従うこと。三つ、一月の試し期間を設ける。合わなければ、互いに相談して決める。強制はしない。どちらにもな」
村人たちが顔を見合わせた。
ヘルマンが一言だけ言った。
「住む場所は儂が作る」
それで決まった。ヘルマンが動くなら、もう反対する者はいない。
翌朝、エルストの家族に伝えた。
「一月の試し期間がある。その間に合わないと思ったら、いつでも言ってくれ。無理はさせない」
エルストが深く頭を下げた。
「ありがとうございます。何でもやります。畑でも力仕事でも」
「まずは体を戻せ。三日飯を食っていない体で畑に出ても倒れるだけだ」
アンネがまた泣きそうな顔をした。上の子がミーナを見つけて、少しだけ笑った。
その日の夕方、ヘルマンが村の端に杭を打ち始めた。新しい家の基礎だ。
俺は台所に立った。今日の夕飯は、いつもより少し多めに作る。骨スープにジャガイモと玉ねぎを刻んで放り込んだ。市場街で仕入れた種から育てた茄子も、そろそろ使えるようになった。トマトはまだ青いが、来月には赤くなるだろう。エルストの家族の分も含めて、八十七人分。
鍋をかき混ぜながら考えた。八十三人から八十七人になった。たった四人だ。だが、この四人が最初の一歩だ。次が来る。その次も来る。
人が増えれば、食わせなきゃいけない口が増える。だが、人が増えれば、できることも増える。
精肉店をやっていた頃、客が増えて忙しくなると、嬉しいくせに文句を言っていた。妻が手伝おうかと言っても断った。一人でやれると思い込んでいた。
もうあの失敗はしない。
人を受け入れる。力を借りる。一緒に飯を食う。
ガルドが台所の入口に座って、鍋を見ていた。尻尾がゆっくり揺れている。
「お前は人が増えても気にしないのか」
金色の目がこちらを向いた。尻尾の揺れが止まらない。肉の匂いに反応しているだけかもしれない。
「まあいい。お前の分は減らさないから安心しろ」
尻尾が速くなった。
鍋から湯気が上がった。骨スープの匂いが台所を満たした。この匂いが、もっと多くの人の腹に届く日が来る。
焚き火の向こうで、ミーナが新しく来た女の子と手をつないで走っていた。
この村は、また少し大きくなった。




