【第27話】大肉祭り
クラウスが来てから二ヶ月が経った。
村の東外れに建てた鍛冶場からは、毎朝煙が上がる。カン、カン、カンと金属を叩く音で目が覚める。目覚まし時計なんかなくても困らない。前の世界でもそうだった。店のシャッターを開ける音で起きた。
クラウスは黙々と働く男だった。フライパンをもう二枚。深底の鉄鍋を一つ。肉を薄く切るためのスライサー。頼んだものは全部、図面通りかそれ以上の出来で上がってきた。
「テッペイさん、これでどうですか」
渡された包丁は二本目だった。一本目より柄が細い。
「刃の角度を少し変えました。前のやつ、ドライホルンの骨に当たるとガタつくって言ってたでしょう。背を厚くして、ここに段をつけた」
俺が一言もらした不満を覚えていて、勝手に改良してきた。師匠譲りだ。頼んだ以上のものを返してくる。
水路も完成した。ヘルマンとカイルが三ヶ月かけて組み上げた木と鉄の水路が、小川の水を畑まで引いている。毎朝の水汲みが不要になり、畑は倍の広さになった。ラッケルが山ほど採れる。
蜂蜜も安定した。巣箱六つ。月に壺四つ分の蜂蜜が採れる。グスタフへの支払い分を引いても、ドレッシングとミード用に十分だ。
捕まえた野牛は二頭。親牛のモーリーが畑を耕し、子牛のチビが走り回ってミーナに追いかけられている。牛乳も搾れるようになった。鶏は三十羽近くに増えた。卵が毎日二十個以上手に入る。
そして——肉だ。
村の仕事が増えた。水路の管理、畑の世話、商品の仕込み。ガルドと一緒に森に入れない日が多くなった。最初のうち、ガルドは小屋の前で寝転がって待っていた。だがそのうち、勝手に森に入って自分の飯を調達するようになった。
ある日、見慣れない獣を咥えて帰ってきた。ドライホルンではない。ずんぐりした体に短い牙、茶色い剛毛。猪に似ている。村の人間に聞いたら、ディッケルという名前だった。
こいつもドライホルンの肉に飽きたのか。焼いた肉を半分やる約束は続いていたが、毎日同じ肉では銀狼だって退屈するらしい。それから、ガルドは森の奥まで足を延ばして、いろんな獣を仕留めてくるようになった。
別の日には、鶏より一回り大きい鳥を咥えてきた。鶏のような鴨のような、灰色の羽毛をした鳥だ。飛べないが走るのは速いらしく、ガルドの口の中でまだバタバタ暴れていた。村の人間はヴァルトフーンと呼んでいた。
ディッケルの肉は脂がよく乗っていて、解体すると腹まわりに白い脂肪の層がある。前の世界の豚バラに近い。ヴァルトフーンの肉は柔らかくて淡白だ。胸肉はささみに似ていて、腿肉は歯応えがある。
新しい肉が手に入れば、試したくなるのが肉屋の性だ。
ディッケルのロース肉を厚めに切って、塩と森胡椒で下味をつけた。卵と粉をまぶし、ナッツ油で揚げた。とんかつだ。衣がサクッと割れて、中から脂の甘い肉汁があふれた。前の世界の豚カツに負けていない。
半分に切ってガルドの前に置いた。ガルドは匂いを嗅いで、一瞬だけ首を傾げた。いつもの焼き肉とは違う匂いだ。恐る恐る口に入れた。
二回噛んで、動きが止まった。耳がぴんと立った。
残りを一口で飲み込んで、こっちを見た。尻尾がちぎれるほど振れている。もっとくれ、と言っている。
「わかったわかった。もう一枚焼くから待ってろ」
ヴァルトフーンの腿肉では唐揚げを作った。一口大に切って、塩と森胡椒で揉み込んで、卵と粉をつけて揚げる。カリッと揚がった唐揚げを一つ投げてやったら、ガルドが空中でキャッチした。着地する前にもう飲み込んでいた。
銀狼が焼き肉以外の料理を覚えた日だった。それ以来、ガルドは獲物を持ってくるたびに、俺の方をじっと見る。今日は何を作る、と聞いている目だ。
ドライホルン。ディッケル。ヴァルトフーン。三種の肉が小屋に吊るされている。燻製にしたり、干し肉にしたり、塩漬けにしたり。保存技術も前の世界で覚えたことが活きている。
材料がある。道具がある。腕もある。
問題は——ガルド以外に食わせる相手がいないことだ。
俺は毎日、自分とガルドの分だけ焼いていた。ステーキ。焼肉。挽き肉のハンバーグ。ヴァルトフーンの唐揚げ。全部旨い。全部旨いのに、一人で食う飯ほど虚しいものはない。
精肉店をやっていた頃、一番嬉しかったのは客が旨そうに食ってくれる瞬間だった。大将、今日のカルビ最高だよ。その一言で、朝四時から肉を捌いた疲れが吹っ飛んだ。
最近、毎晩夢を見る。
商店街の精肉店に立っている。ショーケースにはコロッケとメンチカツが並んでいる。客が次々に入ってくる。旨い旨いと笑っている。俺はカウンターの向こうで包丁を握って、肉を切り分けている。手が覚えている。この角度、この厚さ。客の顔が見える。笑っている。
目が覚める。天井の木目が見える。商店街はない。ショーケースもない。客もいない。隣でガルドが寝息を立てているだけだ。
この世界に来てから、売り物にする料理ばかり作ってきた。ドレッシング、チップス、卵焼き。全部商品だ。金のために作った。旨いものを旨いと言って食ってくれる場が、ない。
村の連中が毎日、煮た豆と黒パンを食っているのを見るたびに、腹の底が疼く。旨い肉がこんなにあるのに。俺の腕ならもっと旨いものが作れるのに。食わせてやれない。
もう限界だった。
朝飯の後、ベルントのところへ行った。
「ベルント。広場を使わせてくれ」
「広場? 何をする」
「宴をやりたい。村のみんなに飯を振る舞う。肉料理を」
ベルントの顔が固まった。
「肉料理だと?」
「ドライホルン、ディッケル、ヴァルトフーン。ガルドが狩ってきた獣の肉で、ステーキ、焼肉、唐揚げ、ハンバーグ。全部作って、全員に食わせたい」
ベルントが腕を組んだ。眉間の皺が深くなった。
「駄目だ」
即答だった。
「何故だ」
「テッペイ。お前がこの村に来てから、儂はお前の肉食を黙認してきた。ガルドとの狩りも、お前が一人で食う分には目を瞑ってきた。だが、村の全員に食わせるとなると話が違う」
「違わない。みんなにも旨い飯を食ってほしいだけだ」
「お前の気持ちはわかる。だが今は時期が悪い」
ベルントが声を落とした。
「ゲルハルトから聞いたろう。近隣の村に噂が広まっている。ルーンハルトでは肉を食っているらしい、と。噂は広がるものだ。いずれ街にも届く。街に届けば、その先にも届く」
貴族だ。ベルントは名前を出さなかったが、意味はわかった。
「今ここで派手なことをすれば、火に油を注ぐ。肉の匂いは遠くまで届く。匂いだけではない。人の口も遠くまで届く」
正論だった。
俺は黙った。言い返す言葉が見つからなかった。
だが、引き下がる気にもなれなかった。
「ベルント。俺は肉屋だ」
「知っている」
「肉を焼いて、人に食わせるのが仕事だ。精肉店をやってた頃は、客が旨そうに食ってくれるのが一番嬉しかった。この村に来てから、それをまだ一度もやれてない」
声が大きくなった。自分でも驚いた。溜まっていたらしい。
「骨スープやコロッケで、少しずつ肉に慣れてもらってきた。でも、あれは誤魔化しだ。スープに溶かしたり、芋に混ぜたりして、肉だと気づかないようにして食わせてきた。俺がやりたいのはそうじゃない。ステーキ、焼肉、唐揚げ。肉そのものを、堂々と食わせたい。一回でいい。一回だけ、腕を振るわせてくれ」
ベルントが黙った。長い沈黙だった。
鍛冶場のカン、カンという音だけが聞こえていた。
ベルントの顔を見て、わかった。この男は動かない。六十年の村長が駄目だと言ったら駄目だ。
「……わかった。すまん。忘れてくれ」
俺は踵を返した。
「テッペイ」
背後からベルントの声がした。振り返ると、ベルントが目を閉じていた。腕を組んだまま、何かを噛み締めるような顔をしている。
「お前が来る前、この村は死にかけていた」
「……」
「畑は痩せ、食い物は足りず、若い者は出ていくばかりだった。お前が来て、ドレッシングを作り、畑を蘇らせ、ゲルハルトとの商いを始めた。水路を引き、鍛冶師を呼び、蜂蜜を採り、牛を捕まえた。この村が今こうして生きているのは、お前のおかげだ」
ベルントが目を開けた。
「儂はお前に旨い肉を食わせてもらった。骨のスープも、コロッケの中の挽肉も、旨かった。お前がもっと旨いものを食わせたいと言うのなら、儂は……」
言葉が途切れた。
ベルントが長い息を吐いた。村長の顔と、一人の老人の顔が入れ替わるのが見えた。
「……一回きりだ」
搾り出すような声だった。
「一回きり。広場を使っていい。だが、その後はまた元通りだ。お前が一人で食う分は構わん。だが、村全体で肉を食う宴は、これが最初で最後だ。約束できるか」
「約束する」
「いいだろう。……儂にも食わせろ」
ベルントの口元が微かに動いた。笑ったのか。この男が笑うのは珍しい。
準備は翌朝から始めた。
ガルドに話しかけた。明日、みんなに肉を食わせる。いつもより多く狩ってきてくれ。ガルドは金色の目で俺をじっと見て、尻尾を一振りすると森に消えた。
翌朝、小屋の前に出て目を疑った。
ドライホルンが二頭、ディッケルが一頭、ヴァルトフーンが五羽。小屋の横にきれいに並べられている。ガルドが夜通し森と村を何往復もしたらしい。銀色の毛皮が朝露で濡れていた。息が少し荒い。
「お前……いつからやってたんだ」
ガルドが欠伸をした。疲れているのに、尻尾だけはぱたぱたと振れている。小屋に吊るしてある燻製と干し肉も合わせれば、八十人分には足りる。
ユーリとヒルダが手伝いに来た。クラウスは鍛冶場の仕事があるが、鉄板を一枚貸してくれた。大きな鉄板だ。直火の上に渡せば、一度に大量の肉が焼ける。
「テッペイ、何をどれだけ作るんだ」
ユーリが聞いた。
「全部だ」
「全部って何だよ」
「今ある肉で作れるもの全部。ドライホルンのステーキと焼肉。ディッケルの蜂蜜煮とロースト。ヴァルトフーンの唐揚げ。ハンバーグ。コロッケ。フライドポテト。卵焼き。ドレッシングサラダ。それと、初めてみんなに食わせるやつがある」
「初めて?」
「ディッケルのとんかつだ」
ユーリが首を傾げた。
「とんかつ?」
「ディッケルのロース肉を厚く切って、卵と粉をつけて油で揚げる。サクサクの衣の中に、脂の甘い肉汁が閉じ込められてる」
「……聞いてるだけで腹が減ってきた」
ヒルダが笑った。
「あたしは何をすればいい」
「野菜を切ってくれ。サラダ用だ。あとラッケルを茹でるのも頼む」
「了解」
広場の中央に焚き火を起こした。大きめに組んで、両脇に石を積んで鉄板を渡した。もう一つの焚き火には鍛冶場から借りた鉄鍋を乗せた。ナッツ油をたっぷり注ぐ。揚げ物用だ。
ドライホルンの肉を包丁で切り始めた。二本目の包丁は手に吸いつくように馴染む。ステーキ用に厚めに、焼肉用に薄めに。断面が光っている。繊維を潰さず切れている。
ドライホルンの肉をミンサーで挽いた。赤い肉が螺旋状に押し出されてくる。塩と卵を混ぜて捏ねる。両手で叩きつけるように空気を抜く。丸めて形を整える。ハンバーグの種だ。
ディッケルは腹まわりの脂身が旨い。厚めに切って、塩だけで鉄板に乗せた。じわじわと脂が溶け出して、甘い匂いが立ち上る。もう一塊は蜂蜜煮用に大きめに切って、鉄鍋で煮込んだ。本当なら醤油と砂糖で角煮にしたい。だが、この世界にはどちらもない。代わりに蜂蜜と塩と地辛で味をつける。甘辛い煮汁がディッケルの脂に染みて、これはこれで旨い。角煮とは別物だが、俺は蜂蜜煮と呼ぶことにした。
ヴァルトフーンは一口大に切って、塩と森胡椒で下味をつけた。卵と粉をまぶして油に落とす。ジュワッと泡が立つ。こんがりと揚がった唐揚げを紙に上げた。油を切る。香ばしい匂いが広場に広がった。
八十人分だ。量が半端ではない。
朝から休みなく動き続けた。肉を切り、種をこね、衣をつけ、油で揚げ、鉄板で焼く。同じ動作を何十回も繰り返す。昼前には腕が上がらなくなっていた。油の熱気で顔が焼ける。汗が目に入る。拭く暇がない。
ヒルダが何度も井戸と広場を往復して水を運んだ。サラダ用の野菜を切り終えた後は、ラッケルを茹でてはコロッケの種を丸め続けている。指先が赤くなっていた。
ユーリは肉を切る手を止めるたびに、痺れた指を振っていた。
「テッペイ、まだあるのか」
「まだだ。とんかつがまだ揚がってない」
「……お前、昔から毎日こんなことやってたのか」
「やってた。三十年な」
ユーリが絶句した。
昼前に、村人が集まり始めた。
最初に来たのはミーナだった。ニーナに手を引かれて、走ってきた。
「テッペイ! いい匂いする!」
「もう少し待ってろ。全部できてから食う」
次にヘルマンが来た。何も言わず、広場の端に座った。鉄板の上でジュウジュウと音を立てているドライホルンの肉を見ている。
カイルが来た。若い衆を三人連れている。ヒルダの母が来た。年配の女たちが連れ立って来た。鍛冶場のクラウスも、仕事を切り上げて顔を出した。
村の全員が集まった。八十人と少し。この村の全人口だ。
テーブル代わりの長い板を並べた。その上に料理を並べていく。
ドライホルンのステーキ。焼き目がついた分厚い肉から肉汁が滲んでいる。
ドライホルンの焼肉。薄切りにして鉄板で焼いた肉に、地辛をまぶした。
ディッケルのロースト。脂身がとろりと溶けて、皮目がカリカリになっている。
ディッケルの蜂蜜煮。蜂蜜と地辛で甘辛く煮込んだ腹肉。木匙で押すだけで崩れる柔らかさだ。
ヴァルトフーンの唐揚げ。山盛り。衣がカリカリで、割ると白い蒸気が上がる。
ハンバーグ。ミンサーで挽いたドライホルンの肉を、フライパンでじっくり焼いた。表面はカリッと、中は肉汁が閉じ込められている。
コロッケ。ラッケルと挽き肉のコロッケが、きつね色に揚がっている。
ディッケルのとんかつ。分厚いロース肉に衣をつけて揚げた。断面から肉汁が滴っている。今日の目玉だ。
フライドポテト。塩を振っただけ。
卵焼き。ナッツ油で焼いた卵が黄金色に光っている。
ドレッシングサラダ。今朝採った野菜に、グリュンベーレのドレッシングをたっぷりかけた。
テーブルの端に、壺が一つ。蜂蜜酒だ。
全部並べ終えた。村人たちが料理を前にして、黙っていた。
誰も手を出さない。
当然だ。この世界の人間にとって、肉を食うのは禁忌だ。骨スープやパン粥は受け入れた。コロッケも食べるようになった。ドレッシングや卵焼きも定着した。だが、肉の塊を目の前にして、それを自分の口に運ぶのは、まだ別の話だ。
俺はドライホルンのステーキを一切れ手に取った。
「俺が先に食う。見ててくれ」
かぶりついた。肉汁が口の中に広がった。森胡椒の香りが鼻に抜ける。旨い。この世界の獣肉は、前の世界のどの肉より力がある。噛むたびに体の芯が温かくなる。
「旨い」
声に出した。テーブルの向こう側で、村人たちが息を呑んでいる。
ミーナがニーナの手を振り払った。
「ミーナ、待ちなさい」
「やだ! テッペイが旨いって言ってる!」
ミーナがテーブルに駆け寄って、ヴァルトフーンの唐揚げを一つ掴んだ。かじった。
しばらく噛んでいた。
目が大きくなった。
「ママ! これ、すっごくおいしい!」
ニーナが固まった。娘が肉を食べている。だが、ニーナはミーナの顔を見た。嬉しそうに笑っている娘の顔を。
ニーナが唐揚げに手を伸ばした。一口かじった。目を閉じた。噛んでいる。噛みながら、涙が一筋流れた。
「……おいしい」
声が震えていた。
それを見ていたヘルマンが、無言で立ち上がった。ドライホルンのステーキを一切れ手に取り、口に入れた。三回噛んで、うなずいた。
「ああ」
それだけだった。
堰を切ったように、みんなが手を伸ばし始めた。カイルがディッケルのローストを頬張り、若い衆がドライホルンの焼肉に群がり、年配の女たちはお馴染みのコロッケに安心したように手を伸ばした。一人がとんかつを恐る恐る齧って、目を見開いた。
「何だこの肉は! サクサクの中からじゅわっと脂が……!」
「この衣のやつ、外がカリカリで中がふわっとして……もう一個くれ!」
「ドレッシングかけた野菜、もう一皿くれ」
ユーリがドライホルンの焼肉を三枚重ねて口に押し込んだ。
「テッペイ! 旨い! 旨すぎる!」
「食いすぎだ馬鹿」
ヒルダがハンバーグを食べて、黙った。もう一個食べた。また黙った。
「……これ、何で作ったの」
「ドライホルンの挽き肉だ」
「挽き肉って、あの機械で」
「ああ。グスタフの親方が作ったミンサーだ。だがこの包丁はクラウスだ。ステーキの切り分けも、この包丁がなきゃこうはいかない」
ヒルダがクラウスを見た。クラウスは照れて俯いた。
「クラウス、あんたすごいよ」
「え、あ、いや、テッペイさんの設計で……」
「設計がどうとか関係ないよ。この味を作った道具を作ったのはあんただ」
クラウスの顔が赤くなった。ユーリがニヤニヤしながら蜂蜜酒を注いでやった。
広場に笑い声が満ちた。
日が傾いてきた。料理はほとんどなくなった。テーブルには骨と皿だけが残っている。
ベルントが俺の隣に座った。手に蜂蜜酒の杯を持っている。
「テッペイ」
「何だ」
「一つ聞きたいことがある。ずっと考えていたが、わからなかった」
「何だ」
「この世界では、誰も料理をしない。煮るだけだ。焼くこともしない。お前が来るまで、塩以外の味付けを見たこともなかった」
「ああ」
「何故だと思う。お前が前にいた国では、こんな料理が当たり前にあったんだろう? 何故この辺りでは、誰も思いつかなかったんだ」
俺は杯を置いた。ずっと考えていたことだ。
「たぶん、二つ理由がある」
「聞かせてくれ」
「一つは、油と香辛料だ。料理の基本は焼くことだが、焼くには油がいる。味をつけるには香辛料がいる。この世界では、油脂も香辛料も貴族が独占してる。平民の手に入らない。手に入らなければ、使い方も覚えない。何世代も続けば、そもそも存在を知らなくなる」
ベルントが頷いた。
「もう一つは、肉だ。料理の幅を広げるのに一番大事な食材が肉だ。焼く、煮る、揚げる、挽く。肉があれば無限に料理が生まれる。だが、肉食が禁じられている。肉がなければ、料理を発展させる動機がない。野菜と穀物だけなら、煮て塩をかければ事足りる」
「つまり、貴族が油と香辛料を独占し、肉食を禁じたことで、料理そのものが発展する道を塞いだと」
「意図してやったかどうかはわからない。だが結果的にそうなった。食が貧しい民は、考える力も奪われる。毎日同じ飯を食って、毎日同じ暮らしをして、何も変わらない。それが支配する側にとっては都合がいい」
ベルントが長い息を吐いた。
「テッペイ。お前は恐ろしい男だ」
「は?」
「食い物で世界の仕組みを語る男は初めて見た。そして、その通りだと思う。儂らは六十年、煮た豆と黒パンだけ食って生きてきた。それが当たり前だと思っていた。疑いもしなかった」
ベルントが広場を見渡した。村人たちがまだ残った料理をつつきながら笑っている。子供が走り回っている。ミーナがヴァルトフーンの骨をガルドに投げて、ガルドがパクッと食べた。
「コロッケや骨のスープで、肉というものは知ったつもりでいた。だが今日、本当の肉料理を知った」
「どうだった」
ベルントが黙った。しばらく何かを探すように空を見上げていた。
「……言葉にできん。ただ、六十年損をしたとは思った」
「まだ取り返せる。明日も作る。明後日も——」
「駄目だ」
ベルントの声が急に厳しくなった。
「約束だ。一回きりだと言ったろう。今日のことは今日で終わりだ」
俺は口を噤んだ。わかっている。ベルントが正しい。噂が広まっている今、毎日肉祭りをやるわけにはいかない。
「……ああ。約束は守る」
「だが」
ベルントが杯を傾けた。蜂蜜酒を一口飲んで、小さく息を吐いた。
「今日だけは、良い日だった。六十年で一番旨い飯だった。それだけは言っておく」
俺は何も言えなかった。目の奥が熱くなった。
夜になった。焚き火の明かりだけが広場を照らしている。
村人たちが一人、また一人と帰っていく。
年配の女が、空になった皿に残った衣の欠片を指で集めて口に入れた。カイルが皿の底を覗き込んで、名残惜しそうに舌打ちした。
ニーナがミーナを抱き上げた。ミーナは半分眠りかけていたが、ニーナの肩に顔をうずめながら小さく呟いた。
「また……食べたい」
ニーナが俺を見た。何も言わなかった。ただ、深く頭を下げて、背を向けた。
広場に残っているのは俺とユーリとガルドだけだ。ガルドは焚き火の横で丸くなっている。今日はドライホルンのステーキにディッケルのとんかつ、ハンバーグまで平らげた。満足そうに尻尾をぱたぱたと振っている。
ユーリが隣にいた。
「テッペイ」
「何だ」
「今日、みんな笑ってた」
「ああ」
「ベルントも笑ってた。あの人が笑うの、初めて見たかもしれない」
俺も見た。あの厳しい顔の村長が、ディッケルの蜂蜜煮を食べながら目を細めていた。
「テッペイ、明日も何か作るのか」
「……いや。約束したからな。肉の宴は今日で最後だ」
ユーリが黙った。少し寂しそうな顔をした。
「でも、いつか。いつかこの村で、毎日肉が食える日が来るといいな」
「来る。俺が来させる」
声に力が入った。自分でも驚くほど、強い声だった。
ユーリが立ち上がって伸びをした。
「じゃ、俺は帰って寝る。今日は旨かった」
「ああ。おやすみ」
ユーリが去った。
焚き火が弾けた。火の粉が夜空に舞い上がった。
ガルドが顔を上げて、俺を見た。金色の目が焚き火の光を映している。
「ガルド。今日は旨かったか」
尻尾が一回振れた。肯定だ。
俺は空を見上げた。星が多い。前の世界では、東京の空にこんなに星は見えなかった。
精肉店を閉めた日のことを思い出した。シャッターを降ろす音が、今でも耳に残っている。あの日、俺は全てを失ったと思った。
違った。
失ったんじゃない。形が変わっただけだ。
店はなくなった。でも腕は残った。客はいなくなった。でも今、新しい客がいる。家族は離れた。でも今、新しい家族がいる。
肉を焼いて、人を笑顔にする。
それが俺の仕事だ。
この世界でも、前の世界でも、それだけは変わらない。
今日は一回きりの約束だった。だが、いつかこの村で堂々と肉を焼ける日が来る。その日まで、俺は腕を磨き続ける。
焚き火の向こうで、ガルドがまた目を閉じた。俺も目を閉じた。
明日も肉を焼く。ガルドと俺の分だけ。でも、いつか——みんなの分を。




