【第26話】野牛を捕まえろ
ルーンハルトが変わり始めていた。
クラウスが来てから二ヶ月。村の東外れに建てた鍛冶場の煙突からは毎日煙が上がっている。カン、カン、カンという鉄を叩く音が、朝の目覚ましになった。
水路も完成した。ヘルマンとカイルが三ヶ月かけて組み上げた木と鉄の水路が、川の水を畑まで運んでいる。おかげで日に二度の水汲みが不要になり、畑の面積は倍に広がった。ラッケルの収穫量が跳ね上がった。葉物野菜も育つようになった。
水路の流れを利用して、ヘルマンが水車も作った。麦を挽くのに使っている。石臼で手挽きしていた頃とは粉の細かさが段違いだ。きめの細かい粉で焼いたパンは、前のものとは別物になった。ふわりと膨らんで、中がしっとりしている。ヒルダが「もう手で挽く気にならない」と言った。
巣箱は五つに増えた。花畑の拡大とともに蜂の数が増え、蜂蜜は毎月壺四つ分取れるようになった。そのうち半分をミードの醸造に回し、グスタフへの支払い分を毎月確保できている。残りの蜂蜜はそのまま料理や保存食に使う。ミード作りも安定してきた。いずれはマルタの店にも卸せるかもしれない。
鶏は十二羽に増えた。毎日五、六個は卵が取れる。雄鶏が三羽いるから、このまま増やせる。
ベルントが朝の見回りで水路の横を歩きながら言った。
「一年前が嘘のようだ」
「一年前は何があったんだ」
「何もなかった。それが問題だった」
ベルントが珍しく笑った。しわくちゃの顔が少し若く見えた。
畑が広がるのはいい。だが、問題もある。耕す手が足りない。水路のおかげで水は行き渡るようになったが、土を掘り返す作業は人の腕に頼るしかない。ユーリとカイルが毎日鍬を振っているが、二人では限界がある。
前の世界なら耕運機がある。だが、ここにはそんなものはない。昔の農家は機械がなかった頃、馬に鋤を引かせて畑を耕していた。ゲルハルトの馬車にも馬がいる。あれを畑に使えないだろうか。
ゲルハルトが月に一度の行商でやってきた日、聞いてみた。
「馬を手に入れる方法はないか」
ゲルハルトが渋い顔をした。
「馬は高い。それに、数が限られている。馬は貴族が管理している」
「管理?」
「この国では、馬の飼育と売買は領主の許可が要る。軍馬を確保するためだ。平民の手に降りてくるのは、年老いて走れなくなった馬だけだ。わしの馬車の馬も、貴族のお古だ。畑を耕すのに使えるかどうか……」
ゲルハルトが馬車の外を見た。老いた栗毛の馬が草を食んでいる。確かにあれで畑を耕すのは厳しそうだ。
ゲルハルトがしばらく馬を見つめていたが、ふと何かを思い出したように言った。
「……そういえば、昔、爺さんから聞いたことがある。馬が普及する前は、別の獣を使っていたと」
「どんな獣だ」
「馬のようには走らない。だが、馬よりも大きくて力がある。角が二本あって、群れで動く。草を食う」
俺の頭の中で何かが繋がった。
「それは魔獣か?」
「いや、違う。ただの獣だ。魔獣のように魔力を持っているわけでも、魔法じみた技を使うわけでもない」
魔獣と獣。この世界ではその区別が重要だ。ガルドは魔獣だ。額の青い模様がその証で、魔力を宿している。どんな魔法を使えるのかはまだわからないが、ガルドが普通の狼と違うことは確かだ。だが、ゲルハルトの言う獣は魔獣ではない。普通の動物だ。
「大きくて、角があって、群れで草を食う」
それは牛だ。
「ゲルハルト、それは牛だ」
「ウシ? お前の故郷では名前があるのか」
「ある。そいつは畑を耕くだけじゃない。乳を搾って飲めるし、料理にも使える」
ゲルハルトの手が止まった。
「獣の乳を飲む? 聞いたことがない」
この世界の人間にとっては常識外れの発想なのだろう。だが、俺にとっては逆だ。牛乳のない世界のほうがよほど異常だ。牛乳があればバターが作れる。チーズが作れる。料理の幅が劇的に広がる。
「そいつはどこにいるんだ」
「多分、草原にいる。この近くの草原といったら、そうだな……」
ゲルハルトが木の板に炭で簡単な地図を描き始めた。森を東に三日。途中に川がある。川沿いを南に半日で森が開ける。そこが草原だ。
「わしが若い頃に一度だけ見たことがある。茶色い大きな獣が、群れで草を食っていた」
「だが、危険だぞ。森には魔物がいる」
「ガルドがいる」
俺の足元で丸まっていたガルドが、片耳だけ動かした。名前を呼ばれたのはわかっているが、起きる気はないらしい。食い意地だけでなく、怠け癖も一流だ。
ユーリに話したら、即答だった。
「行く。俺も行く」
「危ないぞ」
「テッペイが行くなら俺も行く。お前一人でその牛とやらを連れて帰れるわけないだろう」
それはそうだ。牛は重い。一人では無理だ。
クラウスにも声をかけたが、首を振った。
「俺は鍛冶場を離れられません。今、ゲルハルトさんに頼まれた農具を作ってる途中で」
「そうか。じゃあ留守を頼む」
「縄を作っておきます。牛を縛るなら、太い縄がいるでしょう」
ベルントに報告した。
「牛? 何だそれは」
「大きな獣だ。草原にいるらしい。捕まえてくる」
「獣を捕まえてどうする」
「畑を耕かせる。乳も搾れる」
「乳を搾る。獣から」
ベルントが怪訝な顔をした。また鉄平がおかしなことを言い出した、という顔だ。
「……お前はいつも儂の知らんことを言う」
「すみません」
「だが、まあ、お前のことだ。お前が言うなら何かあるのだろう」
ベルントが腕を解いた。
「行ってこい。ただし、無茶はするな。お前が怪我をしたら、この村は困る」
「わかっている」
「わかっていないから言っている」
ベルントの目が笑っていた。
三日目の朝、森が切れた。
目の前に広がったのは、見渡す限りの草原だった。風が吹くと、緑の草が波のようにうねる。空が広い。森の中で見上げていた空とは違う、端から端まで見えるような空だ。
ユーリが声を上げた。
「すげえ……こんな場所があったのか」
ガルドは草原の匂いを嗅いでいた。鼻がひくひく動いている。何かの匂いを捉えたらしい。
「ガルド、何かいるか」
ガルドが草原の南を向いて、低く唸った。
丘の向こうに、茶色い影が見えた。大きい。馬よりも胴が太く、背が高い。角が二本、空に向かって伸びている。
野牛だ。
心臓が跳ねた。肉屋の血が騒ぐ。あの体躯、あの筋肉の付き方。肩からロースにかけての肉の厚み。腿の張り。間違いない。あれは上等な牛だ。
だが、今は食わない。まず畑だ。
群れだった。十頭ほどが草を食んでいる。大きな雄が一頭、群れの外で見張りをしている。雌が数頭と、子牛が二頭。
「でけえな……」
ユーリが呟いた。
「ああ。でかい。最高だ」
声が震えていた。自分でもわかる。牛だ。この世界に牛がいた。ステーキが焼ける。すき焼きが作れる。牛丼だって。肉屋の三代目として、これほど嬉しいことはない。
「一頭で何百キロだ。正面からは無理だぞ」
「正面からやるつもりはない」
精肉店の二代目——親父は、若い頃に北海道の牧場で働いていたことがあるらしい。そこで聞いた話を、俺にも教えてくれた。牛は臆病な動物だ。急に驚かすと暴れる。だが、ゆっくり近づいて、怖くないと分かれば落ち着く。
「まず、子牛を狙う」
「子牛?」
「大人の牛は力が強すぎる。子牛なら縄で捕まえられる。親牛は子牛について来る」
ユーリが感心したような顔をした。
「お前、牛を捕まえたことがあるのか」
「ない。だが、親父から聞いた話がある」
「聞いた話で大丈夫なのかよ」
「やってみないとわからん」
ガルドに先に行かせた。ガルドは草原を大きく迂回して、群れの風上に回った。牛たちはガルドの匂いに気づいて、風下——つまり俺たちのいる方向に少しずつ移動し始めた。
「来た。準備しろ」
ユーリと二人で、草むらに身を伏せた。手には、クラウスが作ってくれた太い縄。端に輪を作ってある。
子牛が一頭、群れから少し離れて草を食べていた。好奇心が強いのか、きょろきょろと周りを見ている。
五歩先まで来た。
今だ。
立ち上がって、縄を投げた。輪が子牛の首にかかった。子牛が驚いて跳ねる。引っ張られて体が持っていかれそうになった。
「ユーリ!」
ユーリが後ろから縄を掴んだ。二人で踏ん張る。子牛は暴れたが、大人の男二人の力には勝てなかった。次第に大人しくなった。
親牛が近づいてきた。大きな雌が一頭、子牛を心配して鳴いている。低い、腹に響く声だ。
「大丈夫だ。取って食いやしないから」
……いや、いずれ食うかもしれない。だが、今は食わない。
ガルドが親牛の後ろから近づいた。親牛はガルドを警戒して足を踏み鳴らしたが、ガルドは攻撃しなかった。ただ座って、尻尾を振っていた。
「……お前、何やってるんだ」
ガルドが俺を見た。金色の目が「早くしろ」と言っている。
子牛の縄をしっかり結んで、ゆっくり歩き始めた。子牛が引かれて動くと、親牛もついてきた。子牛を見捨てる気はないらしい。
「二頭連れて帰れるぞ」
ユーリが笑った。
「テッペイ、お前の親父さんの話、当たってたな」
当たっていた。親父は嘘をつかない男だった。肉のことだけは。
帰り道は四日かかった。牛の歩みが遅いのと、途中で何度も立ち止まるからだ。子牛はすぐに俺たちに慣れた。手から草を食べるようになった。親牛はまだ警戒していたが、ガルドが横を歩いても暴れなくなった。
二日目の夜、森の奥から遠吠えが聞こえた。一つではない。複数だ。親牛が怯えて暴れかけた。ガルドが立ち上がり、森に向かって低く唸った。額の青い模様がかすかに光った気がした。遠吠えが止んだ。朝になって見ると、野営地の周りに大きな足跡が残っていた。何かが来て、引き返していった。ガルドがいなかったら、どうなっていたかわからない。
村の入り口に着いた時、ミーナが飛び出してきた。
「何あれ! でっかい!」
子牛を見て目を輝かせている。だが親牛のほうは怖いらしく、母親のニーナの後ろに隠れた。
村人たちが集まってきた。牛を見る目が様々だった。興味深そうに見る者、怯える者、「何に使うんだ」と聞く者。
ヒルダが親牛の横に立って、体を撫でた。
「大人しいのね。大きいけど、目が優しい」
「乳が搾れる。明日やってみせるから、見ていてくれ」
「乳? この獣から?」
「ああ。温かくて甘い液体が出る。それを料理に使う」
ヒルダが不思議そうな顔をしている。この世界の人間にとっては、獣から食べ物が出てくるという概念自体が新しいのだろう。
ベルントが牛の前に立った。牛を見上げて、腕を組んだ。
「……でかいな」
「ああ」
「儂が子供の頃、爺さんから聞いたことがある。昔はこの辺りにも牛がいたと。だが、魔物が増えてから草原に近づけなくなった」
「魔物が減ったのか?」
「減ったのか、ガルドが抑えているのか。どちらにせよ、昔は当たり前にあったものが、いつの間にか消えていた。お前がそれを取り戻した」
ベルントが牛の鼻面に手を伸ばした。親牛が少し後ずさりしたが、ベルントは動かなかった。やがて親牛がベルントの手に鼻を押し付けた。
「……温かいな」
ベルントが小さく笑った。
その日の夕方、ゲルハルトが来た。牛の前で、しばらく言葉が出なかった。
「本当に捕まえてきたのか。信じられん」
「ゲルハルトが教えてくれた場所だ。礼を言う」
ゲルハルトが牛の周りを歩きながら、考え込んでいた。
「テッペイ、お前に伝えておくことがある」
「何だ」
「最近、ルーンハルトの名前が広がり始めている。わしが行商で回る村で、何度か聞かれた」
「聞かれた?」
「『ルーンハルトという村では、変わった食い物が作れるらしい。本当か』とな。ハルテンの市場でもマルタが評判を広めているようだ」
ユーリが横で聞いていた。
「それは良いことなのか」
ゲルハルトが首を傾げた。
「良いことでもあり、悪いことでもある。人が集まれば村は栄える。だが、噂が広がるということは、いずれ貴族の耳にも届く」
空気が少し変わった。貴族。この世界で食を支配している者たち。
「それと、もう一つ」
ゲルハルトが声を落とした。
「それと、もう一つ気になることがある。北のリンデンという村で、別の噂を聞いた。『ルーンハルトでは肉を食っているらしい』と」
俺は黙った。
「向こうの連中は気味悪がっていた。いよいよ食い物がなくなって、禁忌を犯すしかなくなったか、と。そう受け取っている」
肉を食っている村。この世界の常識では、それは繁栄ではなく落ちぶれた証だ。食うものがなくなった末の野蛮な行為だと思われている。
「だが、テッペイ。わしはこの村の実情を知っている。ルーンハルトは飢えて肉を食っているわけではない。お前は好きで食っている」
「……ああ」
「その二つの噂が混じった時に、何が起きるか。『繁栄している村で、しかも肉を食っている。あれは何だ?』と。いずれ、面倒な連中の耳にも届くかもしれん」
貴族。ゲルハルトは名前を出さなかった。だが、意味はわかった。
ゲルハルトが去った後、ベルントが俺の横に来た。
「聞いていた」
「ああ」
ベルントが子牛を見つめていた。子牛はミーナの手から草を食べている。ミーナが嬉しそうに笑っていた。
「ベルント。近隣の村から人が来るかもしれない。もし来たら、この村に住まわせるのはどうだ」
「……住まわせる、か」
「畑を広げるにも、水路を延ばすにも、人が足りない。このまま今の人数でやっていくには限界がある」
ベルントはしばらく黙っていた。鍛冶場からカン、カンと鉄を叩く音が聞こえてくる。
「人が増えれば問題も増える。食わせる口が増え、土地を分ける必要がある。揉め事も起きる。小さな村が壊れるのは、たいてい人が増えた時だ」
「わかっている」
「お前にはわからん。儂は六十年、この村で暮らしてきた。人が減るのも見てきたが、人が増えて揉めるのも見てきた」
厳しい声だった。だが、ベルントはそこで言葉を切って、子牛を撫でているミーナを見た。
「……だが、お前がこの村に来てから、変わったものが多い。水路も、畑も、蜂蜜も、この牛も。全部お前が持ってきたものだ」
「俺一人の力じゃない。ユーリもヘルマンもクラウスも」
「お前がいなければ始まらなかった。それは儂が一番わかっている」
ベルントが俺を見た。
「もし人が増えても、食わせていけるか」
「任せてくれ。肉屋は、客が多いほど腕が鳴る」
ベルントが小さく頷いた。
「わかった。村のみんなに話してみる。受け入れるかどうかは、村の全員で決めることだ。だが、儂は受け入れるつもりだ」
「ベルント」
「任せろ。村長の仕事だ」
ベルントが背を向けて歩き出した。六十年この村にいた男の背中は、小さいが、真っ直ぐだった。
夕暮れの空に、鍛冶場の煙が立ち上っていた。子牛がミーナに寄り添って眠り始めた。親牛がその横で静かに草を食んでいる。
この村は変わった。そして、もっと変わる。




