【第25話】鉄の音
ドルンに着いたのは二日目の昼過ぎだった。
前回と同じ街道を歩いてきたが、景色が違って見えた。前回は何とか鍛冶職人を見つけなければと焦っていた。今回は、荷物に壺を二つ抱えている。中身は蜂蜜酒。切り札だ。
ユーリが壺を一つ背負いながら言った。
「なあ、テッペイ。本当にこれで上手くいくのか」
「わからん」
「わからんって、お前な」
「だが、前回みたいに正面から頼み込んでも断られるだけだ。あの親方は腕に誇りがある。辺境の百姓にちょっと頭を下げられたくらいじゃ、作ってはくれないだろう」
「じゃあ、酒で釣ると」
「釣るんじゃない。味わってもらうんだ」
「同じだろ」
同じだ。だが、言い方は大事だ。精肉店の親父がよく言っていた。押し売りはするな、味見させろ。客は自分で旨いと思ったものしか買わない。
クラウスの親方の鍛冶場は、街の東端にあった。石造りの低い建物で、煙突から黒い煙が上がっている。入り口に「グスタフ鍛冶工房」と木の看板が掛かっていた。前回、ここで門前払いを食った。
中に入ると、金床を叩く音が響いていた。奥の炉の前に、でかい男が立っている。前回会ったグスタフ親方だ。歳は五十を過ぎたか、腕が丸太のように太い。額に深い皺が刻まれ、顎髭が胸まで伸びている。
クラウスが炉の横で火の番をしていた。俺たちに気づいて、顔が明るくなった。だが、親方の手前、声は出さなかった。
グスタフが振り返った。
「……お前か。辺境の」
「ご無沙汰しています」
「また包丁だの鉄板だの作れと言いに来たのか。言っただろう、わしは百姓の道具は」
「いえ。今日はお願いに来たんじゃありません」
グスタフが鉄槌を置いた。眉を上げている。
「そこのクラウスくんに聞きまして。親方は酒にこだわりがあると」
クラウスがびくっとした。グスタフがクラウスをじろりと睨んだ。
「……で?」
「俺たちの村で、新しい酒を作りました。まだ世に出回っていないものです。親方ほどの方に、味を評価していただけませんか」
グスタフの目が少し変わった。
「新しい酒だと?」
「蜂蜜から作った酒です」
「蜂蜜の酒? 聞いたことがない。甘い酒が旨いわけがあるか」
「まあまあ、一口だけ」
ユーリが荷物から壺を出して、木の杯に注いだ。琥珀色の液体が杯を満たした。蜂蜜の甘い香りが鍛冶場の鉄臭い空気に混じる。
グスタフは杯を受け取って、疑わしそうに匂いを嗅いだ。
「……甘いな」
「飲んでみてください」
グスタフが一口含んだ。
数秒、黙った。
もう一口飲んだ。
「……美味いな」
声のトーンが変わった。
「甘いが、甘ったるくない。後から酒の力が来る。これは……何だ。麦酒とも葡萄酒とも違う」
グスタフの声が大きくなっていた。目が輝いている。鍛冶の炉より熱い目だ。
「蜂蜜酒です。ミードと呼んでいます」
グスタフが杯を空にした。唇を舐めて、壺を見た。
「もう一杯」
ユーリが注いだ。グスタフは今度はゆっくり飲んだ。味を確かめるように、口の中で転がしている。二杯目を半分飲んだところで、グスタフが椅子を引っ張ってきてどかりと座った。仕事中に座ったのは初めてだろう。クラウスが目を丸くしていた。
「これは、お前が作ったのか」
「ええ。蜂蜜と水を混ぜて、果実の酵母で発酵させました。二度失敗して、三度目で」
「二度失敗した?」
「一度目は酢になりました」
グスタフが鼻で笑った。杯は、手放さなかった。
「三度目でこれか。腕は悪くない」
それは酒造りの腕じゃなく、試行錯誤の粘りを褒めているのだろう。鍛冶職人も同じだ。最初から完璧に打てる鉄はない。
「それと、酒に合うつまみも持ってきました」
俺は荷物から包みを出した。ラッケルを薄く切って揚げたポテトチップス。地辛を添えた野菜スティック。そしてもう一つ。失敗した蜂蜜酒が酢になった時に、卵と油で試作しておいたものだ。
「これは?」
グスタフが白い液体の入った小瓶を見た。
「マヨネーズです。卵と油と酢を混ぜて作った調味料です」
「卵と油?」
「野菜につけて食べてみてください」
グスタフが野菜スティックにマヨネーズをつけて口に入れた。
咀嚼が止まった。
「……何だこれは。酸味があるのに、まろやかだ。野菜がこんな味になるのか」
「酢のおかげです。実は、蜂蜜酒を失敗して酢になったやつが、この調味料の材料になりました」
「失敗作が材料?」
グスタフがポテトチップスに手を伸ばした。マヨネーズと地辛を両方つけて口に放り込み、蜂蜜酒で流し込んだ。
「……美味い。酒に合う。チップスとこの白いやつ、最高だ」
ユーリが得意げな顔をしている。自分が作ったわけでもないのに。
「もっとくれ。酒もつまみも」
「残念ながら、数に限りがありまして」
俺は壺を見せた。残りは半分もない。
「蜂蜜の量が少ないのと、それ以上に調理器具が足りないんです。マヨネーズを作るにも、卵を割って油と酢を混ぜる器具が要る。野菜を切る包丁も、芋を揚げるフライパンも」
「フライパン?」
「薄い鉄の皿に柄をつけたものです。油を敷いて食材を焼く。これがあれば、もっと色々な料理が作れる。酒に合うつまみも増やせます」
グスタフが腕を組んだ。
しばらく黙っていた。鍛冶場の炉がぱちぱちと音を立てている。クラウスが息を詰めて見守っていた。
「……その、フライパンとやら。図面はあるか」
「あります」
木の板に描いた図面を見せた。前回は見向きもされなかった、あの図面だ。
グスタフが図面をじっと見た。指で厚みの部分をなぞった。
「底の厚みが変わるのか。中心が厚くて、端が薄い」
「はい。中心に火が当たるので、熱が均一に回るようにです」
「……理にかなっている」
グスタフが図面を置いた。俺を見た。
「わしが作る」
「本当ですか」
「ただし、この酒を持ってこい。毎月、壺二つだ。それが条件だ」
「……えっ、代金は」
「いらん」
ユーリが目を丸くした。
「金には困っておらん。だが、旨い酒にはいつも困っている。この街の麦酒は薄くてかなわん。毎月壺二つ届けろ。それで好きなだけ注文しろ」
「……本気ですか」
「鍛冶師が嘘を言うか」
グスタフが杯を差し出した。
「で、残りの酒は?」
「もう一壺あります。今日の分です」
「出せ」
ユーリが二つ目の壺を開けた。グスタフは自分で注いで、一気に飲んだ。
「ふう。ここ十年で一番旨い酒だ」
クラウスが恐る恐る手を挙げた。
「親方、俺も一口……」
「お前は仕事中だ。駄目だ」
「えっ」
ユーリがクラウスに同情するように肩をすくめた。クラウスが泣きそうな顔をしている。
それから毎月、ユーリと二人でドルンに通った。壺二つの蜂蜜酒と、つまみを持って。
夏が過ぎ、秋に入った。その間に村では水路が完成し、鶏も増えた。魔獣の骨を撒いた畑のおかげで果樹の花が勢いよく咲き、蜂が集まるようになっていた。巣箱を三つ増やした。蜂蜜の量が倍になり、毎月壺二つの約束を守れるようになった。
グスタフは約束通り、フライパンを作ってくれた。最初の一枚は、俺が描いた図面より良い出来だった。底の厚みの変化が滑らかで、縁の立ち上がりもきれいだ。さすが三十年以上鍛冶を打ってきた男だ。
「ここの角を丸くした。油が溜まらないようにだ」
グスタフが自分から改良点を説明した。注文を受けただけでなく、使い道を考えて設計している。職人だ。
二回目の訪問で包丁を受け取った。刃渡り掌四つ分。背が厚く、刃先に向かって薄くなる。研ぐ前から、鉄の質が違うとわかった。
村に持ち帰って研いだ。砥石に水をかけながら、刃を当てる。角度は十五度。肉屋の基本だ。シャッ、シャッ、シャッ。研ぎ終えて、刃先を親指の腹に当てた。引っかかる。切れる。
鹿の腿肉をまな板代わりの木の板に置いた。包丁を握る。右手に重みが伝わった。人差し指と親指で峰を挟み、残りの三本で柄を包む。祖父に教わった持ち方だ。ぴたりと手に馴染んだ。
刃を肉に入れた。すっと入った。力はいらなかった。刃の重さだけで肉が切れた。断面がつるりと光っている。繊維が潰れていない。
手が震えた。
ナイフで切るのとは違う。一回の動作で刃が走り、肉がほどけるように離れる。この感覚を、ずっと忘れていなかった。三十年、肉を切り続けた手が覚えている。
一枚、もう一枚。薄切りにした肉が石の上に並んでいく。どれも同じ厚さだ。
ユーリが横で呟いた。
「全部同じ厚さだ。機械か、お前は」
機械じゃない。ただの肉屋のおっさんだ。でも、嬉しかった。店を畳んでから握れなかった包丁を、もう一度握れた。目の奥が熱くなった。
三回目には鉄鍋を頼んだ。四回目には、肉を挽く道具。俺がミンサーと呼んだものだ。図面を見たグスタフが「面白い構造だ」と言って、三日で作った。
毎回、新しいつまみを持っていった。マヨネーズを改良したもの、ポテトチップスの味付け違い、ドレッシングをかけた温野菜。グスタフは全部食べて、全部酒で流し込んだ。
「来月は何を持ってくる」
「鶏の卵焼きと、挽き肉で作った料理を」
「挽き肉? 肉だと?」
グスタフの顔が曇った。この世界の人間にとって、肉を食うのは野蛮な行為だ。グスタフも例外ではない。
「親方が作ってくれたミンサーで挽いた肉だ」
「……正気か。肉なんぞ食えるものなのか」
「今まで持ってきたもの、全部旨かったでしょう」
グスタフが黙った。腕を組んで、しばらく考え込んでいた。
「……お前が旨いと言うなら、食ってやる。だが、不味かったら承知せんぞ」
五回目の訪問の帰り道。街の出口で、クラウスが走ってきた。
「テッペイさん」
「どうした」
クラウスは息を切らしていた。仕事の途中で抜け出してきたらしい。革のエプロンをつけたままだ。
「あの……お願いがあります」
「何だ」
「俺を、ルーンハルトに連れていってもらえませんか」
ユーリが振り返った。俺も足を止めた。
「親方のところを辞めるのか」
「辞めるんじゃなくて……親方には話しました。テッペイさんの村で鍛冶をやりたいと」
「グスタフはなんて言った」
クラウスが少し笑った。
「好きにしろ、馬鹿弟子。ただし蜂蜜酒の納品が途絶えたら許さん、と」
ユーリが吹き出した。
「テッペイさんが作る料理を見ていて、思ったんです。俺が作った道具で、あんな料理ができる。親方の鍛冶場にいたら、鋤と蹄鉄と剣しか作れない。でもテッペイさんの村に行けば、誰も見たことがない道具を作れる」
クラウスの目が光っていた。前回、ドルンの鍛冶場の隅で控えめに興味を示していた男とは別人だった。
胸の奥が熱くなった。村に鍛冶職人がいる。それがどれだけ大きいことか。包丁も、フライパンも、鍋も、壊れたらすぐ直せる。新しい道具を思いついたら、すぐ作れる。肉屋にとって、道具を作ってくれる職人が隣にいるのは、何よりも心強い。
「来い。お前の腕が必要だ」
声が少し震えた。ユーリがクラウスの背中を叩いた。
「荷物をまとめてこい。今日中に出発するぞ」
「え、今日?」
「鉄は熱いうちに打て。鍛冶屋なら知ってるだろ」
クラウスが走って戻っていった。
俺はドルンの街並みを見上げた。半年前、ここで門前払いを食って悔しかった。あの時は力づくで頼もうとした。一人でなんとかしようとした。
結局、酒とつまみで道が開いた。人の胃袋を掴むのが一番早い。肉屋の親父が言ってたことは、異世界でも変わらなかった。




