第15話:試食販売
日の出とともに、市場が動き始めた。
商人たちが台を組み、天幕を張り、商品を並べていく。慣れた手つきだ。毎月三回、同じことを繰り返している連中の動きには無駄がない。
俺も台を組んだ。ゲルハルトの隣の区画だ。ドレッシングの瓶を並べ、パン用オイルを横に置き、調味料セットは奥に控える。
そして台の手前に、試食コーナーを作った。サラダ菜を小さく切って木の器に盛る。パンを薄切りにしてオイルをつける準備をする。ドレッシングの瓶を一本開けて、小さな匙を添えた。
ゲルハルトが覗き込んだ。
「テッペイ、何をしてるんだ」
「試食の準備だ」
「商品をタダで食わせるのか」
「投資だよ」
ゲルハルトは腕を組んで黙った。
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市が始まった。人が流れ込んでくる。
朝一番の客は主婦が多い。籠を腕に抱えて、野菜の台を見て回り、パンを買い、干した果物を物色する。
俺の台には誰も来ない。
当たり前だ。見たこともない瓶が並んでいるだけだ。看板もない。のぼりもない。知名度ゼロ。
それでも、声を出した。
「ドレッシング、味見いかがですか。野菜が別物になりますよ」
肉屋の声だ。「いらっしゃいませ」「今日のおすすめはバラ肉です」。三十年、毎日出していた店先の声。
反応はなかった。
一時間が過ぎた。誰も立ち止まらない。
声をかけても、客は足を速めて通り過ぎる。見知らぬいかついおっさんが、瓶を持って「食べてみろ」と言ってくる。そりゃ警戒する。日本でもキャッチセールスは嫌われる。ましてこの世界に試食販売の文化はない。
ゲルハルトが横から言った。
「言っただろう。普通に置いても誰も買わんと」
「わかってる。だが……」
焦っていた。試食させれば売れるという確信はある。だが、最初の一口を食わせるまでが難しい。精肉店でもそうだった。コロッケを揚げて店先に出しても、最初の一人が手を出すまでに三十分かかった。
一人だ。最初の一人さえ来てくれれば。
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その時だった。
「おい、おっさん。そこのやつ、食わしてくれるのかい」
声がした。台の前に若い男が立っている。フードを被って顔を隠しているが、体格に見覚えがある。
ユーリだった。
「お前……」
驚いた顔をする俺に、ユーリが目配せした。小さく首を振って、黙れという合図だ。
「へえ、ドレッシングっていうのかい。初めて聞くなあ。どんなもんだか食わしてくれよ」
声が大きい。わざとだ。周りに聞こえるように喋っている。
芝居か。こいつ、サクラをやるつもりだ。
俺は一瞬で理解した。そして、乗った。
「はい、どうぞ。うちの畑で採れた新鮮な野菜に、特製のドレッシングをかけたものです。一口どうぞ」
サラダ菜にドレッシングをたっぷりかけて、木の器に盛って差し出した。
ユーリが受け取って、口に入れた。
芝居の必要はなかった。ユーリの目が本気で丸くなった。村では食べ慣れているはずだが、こうして改めて市場の雑踏の中で食べると、印象が違うのかもしれない。
だが、ここからがユーリの芝居だった。
「うっ……う、うめえ!」
声が裏返った。
「何だこれは! 野菜がこんな味になるのか! 信じられん!」
大げさだった。めちゃくちゃ芝居くさかった。
両手を広げて天を仰ぐ。目を見開いて、何度も頷く。もう一口食べて、今度は膝を叩いた。
「この上にかかっているのは何だい!?」
声がでかい。広場の半分に聞こえている。
俺も負けじと声を張った。
「ドレッシングといいます! 油と酸味と香辛料を合わせた特製の味つけです! 新鮮な野菜にかけると、旨さが何倍にもなるんです!」
「そりゃすごい! 一本くれ! いくらだ!」
「一瓶、銀貨一枚です!」
ユーリが財布を出した。どこで金を手に入れたのかは知らない。銀貨一枚を台に置いて、瓶を受け取った。それを高々と掲げて、もう一度言った。
「皆さん、これは旨いですよ! 騙されたと思って食ってみな!」
芝居くさい。本当に芝居くさい。商店街のチラシ配りのバイトでも、ここまで大げさにはやらない。
だが、効いた。
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最初に寄ってきたのは、太った中年の女だった。
「何を大騒ぎしてるんだい。ちょっと食べてみようかね」
サラダ菜にドレッシングをかけて差し出した。女は恐る恐る口に入れて、二秒後に目を丸くした。
「……あんた、これ何? 野菜よね?」
「野菜です。ドレッシングをかけただけです」
「もう一口もらっていい?」
二口目で、女の顔が変わった。買い物モードの顔だ。精肉店で何千回も見てきた、あの顔。
「一瓶ちょうだい」
二本目が売れた。
その女のやりとりを見ていた客が、次に来た。試食した。黙った。買った。
三人目。四人目。五人目。匙が空になる速さだけが、どんどん上がっていく。
パンにオイルをつけて試食させると、「パンがこんなに旨くなるのか」と驚かれた。硬い黒パンしか知らない人間にとって、油と胡椒をつけたパンは別の食べ物だった。
昼を過ぎた頃には、台の前に人だかりができていた。
「何あれ」「野菜にかけるんだって」「試食させてくれるよ」「旨い、これ旨い」
試食用のサラダ菜が足りなくなった。パンも残り少ない。
ドレッシングは十瓶のうち九瓶が売れた。パン用オイルも四瓶売れた。調味料セットは三つ。
最後の一瓶を買ったのは、品の良い身なりの男だった。瓶を光にかざして中身を確認し、蓋を開けて匂いを嗅いでから、黙って銀貨を置いた。
午後の早い時間に、完売した。
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ゲルハルトが隣で目を丸くしていた。
「テッペイ。お前、何をやったんだ」
「肉屋の商売だよ。客の前で焼いて食わせる。一口で全部伝わる」
「だが、あの最初の男……」
ゲルハルトが目を細めた。
「あれはお前の仲間だろう。芝居が下手すぎて丸わかりだったぞ」
ユーリがフードを外して、照れくさそうに頭を掻いた。
「バレてたのか」
「バレてないと思ったのか」
俺はユーリの肩を叩いた。
「なんでここにいる。村にいたはずだろう」
「心配だったんだよ。テッペイが一人で街に行くって聞いて、万が一何かあったらと思って……こっそりついてきた」
「ベルントは知ってるのか」
「言ってない。多分怒られる」
「確実に怒られるな」
ユーリが苦笑した。
「でも来てよかっただろ。最初の一人がいなかったら、いつまでも売れなかったぞ」
反論できなかった。サクラは卑怯だが、効果は絶大だった。最初の一人が食べて「旨い」と言えば、次の客は来る。商売の鉄則だ。
売上を数えた。ドレッシングは十瓶のうち一本は試食用に開けたから、売れたのは九瓶で銀貨九枚。パン用オイル四瓶で四枚。調味料セット三つは銀貨三枚ずつで九枚。合計で銀貨二十二枚。
銀貨二十二枚。ユーリが日雇いでほぼ一ヶ月働いて稼ぐ金額だ。それが半日で。
「テッペイ」
ユーリが真面目な顔で言った。
「俺、毎月ここに来て芝居やるよ」
「もう少し演技力を磨いてからな」
ゲルハルトが鼻で笑った。
「芝居はともかく、商品は本物だ。味に嘘がないから、サクラが効いた。偽物を売る連中のサクラは、二度目がない。だが、これなら二度目がある」




