第14話:街道の騎士
街道は思ったより整備されていた。轍が二本、真っ直ぐ北へ。
歩きながら何度も空を見上げた。広い。三十年見てきた空は、パン屋の壁と電線で切り取られた長方形だった。
ゲルハルトの驢馬は歩くのが遅い。荷馬車の横を並んで歩きながら、俺はこの世界のことを聞いた。
「ゲルハルト、市場町ってのはどのくらいの大きさなんだ」
「ハルテンか。人口は五千ほどだ。辺境では一番大きな街で、月に三度市が立つ。近隣の村や街から商人や農民が集まってくる」
「五千か」
村の六十倍だ。想像がつかない。
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一日目の昼過ぎだった。
前方から蹄の音が近づいてきた。馬だ。それも、複数。
ゲルハルトが手綱を引いて、荷馬車を道の端に寄せた。
「寄れ、テッペイ。道を空けろ」
四頭の馬が、街道を北から走ってきた。乗っているのは鎧を着た男たち。銀色に光る胸当て。腰に剣。背筋が伸びた姿勢。明らかに、今まで見てきた村人とは違う人種だ。
騎士たちは俺たちの横を風のように通り過ぎた。こちらには目もくれない。驢馬と荷馬車など、視界にも入っていない様子だった。
「こんな辺境街道に貴族とは珍しいな」
ゲルハルトが小さく呟いた。
「貴族? あれが貴族なのか」
「正確には貴族の騎士だ。胸の紋章を見なかったか。鷹の紋章はバイエル家のものだ」
蹄の音が遠ざかっていく。砂埃だけが街道に残った。
「バイエル家ってのは」
「この辺りを治めている辺境伯だ。お前たちの村も、バイエル家の領地にある」
領地。つまり、あの連中が俺たちの上にいるわけだ。
「この国には貴族がいるのか」
ゲルハルトが横目で俺を見た。
「お前の国にはいないのか」
「……いや、まあ。形は違うが、似たようなものはある」
曖昧に答えた。日本にも昔は武士がいた。嘘ではない。
ゲルハルトは深く追及しなかった。
「グランツ王国には王都がある。王の下に七人の大貴族がいて、それぞれが領地を治めている」
「七人もいるのか」
「ああ。バイエル辺境伯は、その中で一番格が低い」
荷馬車が轍の溝を越えて揺れた。ゲルハルトが手綱を引き直す。
「だが、辺境を守る軍事力は持っている。魔物の侵入を食い止めているのは、あいつらだ」
「前線を任されてるわけだ」
「そういうことだ。だが、功績は評価されにくい。ずっと辺境に置かれたまま、昇格もしない。それでいて魔物との戦いで金は飛ぶ」
ゲルハルトが鼻で笑った。商人特有の、権力者を醒めた目で見る笑い方だ。
しばらく黙って歩いた。街道の両側に林が迫ってきた。木陰が涼しい。
「テッペイ。一つ覚えておけ」
ゲルハルトの声が低くなった。
「政治は貴族が仕切っている。大きな取引にも貴族の許可がいる。俺みたいな行商人が自由にやれるのは、辺境の小さな市場だけだ」
「つまり、貴族に逆らったら商売ができない」
「そういうことだ。市場町では目立つな。貴族の機嫌を損ねたら、商売の前に首が飛ぶ」
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二日目の夕方、丘を越えた先に街が見えた。
市場町ハルテン。
石造りの建物が並び、街を囲む低い城壁がある。門の前には荷馬車が何台も列を作っている。人の声が遠くまで響いている。
門をくぐった瞬間、匂いが変わった。
焼いたパンの匂い。蝋燭の煤。人の汗。馬糞。香辛料。全部が混ざった、雑多で濃厚な匂い。
懐かしかった。
商店街の匂いだ。黒田精肉店の前の通りも、こんな匂いがした。パン屋の焼きたての匂いと、魚屋の氷の匂いと、八百屋の土の匂い。人が集まって、物が動く場所の匂いだ。
門番に通行料を払って中に入った。ゲルハルトが顔パスで通してくれた。
「テッペイ、市場の広場はこっちだ。登録を済ませるぞ」
市場の管理所で出店の手続きをした。名前と出身地と商品の種類を登録する。出身地はゲルハルトが小声で教えてくれた、行商圏内の村の名前を書いた。ゲルハルトが保証人になってくれた。
「場所代は一区画で銅貨五枚だ」
銅貨五枚。ゲルハルトに託して売れたダンコルと調味料の代金から出す。先月の取引で得た銀貨が、こういう時に効いてくる。
広場を歩いて回った。石畳の大きな広場に、木の台や天幕が並んでいる。野菜を積んだ台。布を広げた商人。革細工を売る職人。焼いたパンを積み上げた女。日用品の店。薬を量り売りする男。
食い物の店が多い。だが全部「素材」だ。野菜そのもの、パンそのもの、干した果物。味をつけた加工品は一つもない。
調味料の店もない。塩を売る大きな店が一軒あるだけだ。
思い出した。ゲルハルトが村で言っていた。ダンコルは王都で貴族が金に糸目をつけずに買うと。銀貨十枚という額に驚いて、その時は「貴族」がどうとかいう話は頭に入っていなかった。あの時、この世界の仕組みをもっとちゃんと聞いておくべきだった。
つまり、香辛料や調味料は平民の手が届かない贅沢品なのだ。この市場にないのは当然だ。
だが、逆に言えば——
競合がいない。
精肉店時代、スーパーとの価格競争で負けた。同じ土俵で戦ったからだ。だが、ここには土俵自体がない。
「ゲルハルト、明日の市は何時からだ」
「日の出とともに始まる。夕暮れまでだ」
「わかった。準備がある」
宿に戻って、背負い籠を開けた。ドレッシング十瓶。パン用オイル五瓶。調味料セット五つ。そして、サラダ菜とパン。二日の道中で少し萎びたが、まだ食える。
木の器を二十個並べた。サラダ菜を小さく切って、すぐに盛れるように準備する。パンも薄切りにしておく。
明日だ。明日が勝負だ。
ゲルハルトが宿の部屋で帳簿をつけながら言った。
「テッペイ。正直に言うが、俺はお前の商品が市場で売れるとは思っていない。先月、仲買人に見せても誰も食いつかなかった。知らないものに金を出す人間は少ない」
「だからこその仕掛けだ」
「仕掛け?」
「明日になればわかる。それより、値段を決めたい。ドレッシング一瓶、いくらが妥当だ」
ゲルハルトが瓶を手に取って、中身を透かして見た。
「原材料がグリュンベーレの油とダンコルだろう。仕入れ値を考えれば、銀貨二枚でも安いくらいだ。だが、市場町の客は庶民が多い。銀貨二枚は日雇いの二日分だ。手が出にくい」
「銀貨一枚なら?」
「日雇いの一日分か。安くはない。だが、祭りの日に蜂蜜菓子を買う客はいる。贅沢品として成立する値段だ」
「じゃあ銀貨一枚だ。味がわかれば、安いと思ってもらえる」
ゲルハルトは首を傾げた。だが口は出さなかった。
この男は、結果を見るまで判断しない。商人としては正しい態度だ。
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その夜、宿の窓から街の灯りを眺めた。
蝋燭の明かりが点々と揺れている。人の声が遠くに聞こえる。酒場の笑い声だろうか。
商店街の夜を思い出した。閉店後の暗い通り。シャッターを下ろす音。隣のパン屋の親父と缶ビールを飲みながら、「明日はもっと客が来るかもな」と笑い合った夜。来なかったけど。
肉屋にできることは限られている。だが、客の前で旨いものを出すことだけは、誰にも負けない。
明日は客が来る。
——来させる。




