第12話:油と商人
ガルドと森に入った。狩りの帰り道だった。
いつもと違うルートを通った。ガルドが妙な方向に逸れたので、ついていった。
森の奥に、小さな丘があった。日当たりがいい。南向きの斜面に、見覚えのある木が群生していた。
「待て」
足を止めた。
灰緑色の細長い葉。ねじれた幹。そして枝にびっしりとついた、小さな楕円形の実。
オリーブだ。
いや、正確にはオリーブじゃないかもしれない。だが、形も色も葉の質感も、日本のスーパーで見たオリーブにそっくりだ。実を一つもいで潰してみた。油分がある。指がぬるぬるする。
心臓が跳ねた。
急いで村に戻って、ユーリを連れてきた。
「おい、この木、知ってるか」
「ああ、グリュンベーレだろ。渋くて食えない実がなる木だ。薪にもならないし、誰も使わない」
渋くて食えない。そりゃそうだ。オリーブも生のままでは渋くて食えない。だが搾れば油が取れる。
「ユーリ、この実を大量に集めてくれ」
「何に使うんだ」
「油を搾る」
「実から油が出るのか?」
出る。間違いなく出る。
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村に戻って、グリュンベーレの実を石で潰した。潰した実を布で包んで、板で挟んで、上から石を積んで圧搾する。原始的だが、オリーブオイルの搾り方と原理は同じだ。
黄金色の液体がじわじわと染み出してきた。
指で掬って舐めた。
青い風味のある、さわやかな油だ。苦味はあるが、不快じゃない。むしろフルーティーだ。
だが、量が取れない。一日がかりで絞っても、小瓶一本にも満たない。これでは商品にならない。
ヘルマンに相談した。
「もっと効率よく搾る方法はないか」
ヘルマンは腕を組んで考え込んだ。翌日、木製の搾り台を作ってきた。二枚の板を蝶番で繋いで、てこの原理で上から圧をかける仕組みだ。弩で使った留め具の応用まで仕込んである。この男は、課題を伝えるだけで最適な形を考えてくる。職人のセンスが段違いだ。
搾り台を使うと、三倍の速さで油が取れた。毎日少しずつ搾って瓶に溜めていく。
実の採取は一人でやるつもりだった。精肉店でも仕入れも仕込みも接客も帳簿も、全部自分でやった。背負い籠を担いで、丘まで往復して半日。翌日も同じことをした。三日目、さすがに腰が悲鳴を上げた。
四日目の朝、籠を担いで門を出ようとしたら、ユーリが立っていた。
「テッペイ、また一人で行くのか」
「ああ」
「俺も行く」
「いい。一人でやれる」
「一人じゃ効率が悪い。俺のほうが木に登るのは速い」
言い返せなかった。事実だからだ。
「……頼む」
その一言が、妙に重かった。精肉店では最後まで言えなかった言葉だ。人に頼むということが、こんなに難しいとは思わなかった。
三日かけて、背負い籠に山盛りの実を四回運んだ。ユーリが枝を揺すって実を落とし、俺が下で拾う。一人でやっていた時の三倍の速さだった。
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油が手に入った。次は商品開発だ。
赤酢とグリュンベーレの油を合わせてみた。塩を加えて、地辛をすりおろして混ぜる。
ドレッシングができた。
畑で育ったサラダ菜に近い葉物にかけて食べてみる。
旨い。
酸味と油のコクと辛味のバランスがいい。塩しか知らない世界に、この味を持ち込んだら。
次にパンを薄く切って、グリュンベーレの油をつけてみた。森胡椒と塩をひとふり。
これは黒田精肉店の隣のパン屋で出していたやつだ。オリーブオイルに塩と胡椒でパンを食べる。あのパン屋の親父が「イタリアじゃこれが基本なんだ」と言って、閉店後によく一緒に食べていた。
旨い。硬い黒パンでも、油をつければ全然違う。
頭の中で商品ラインナップが組み上がっていく。
ドレッシング。赤酢とグリュンベーレ油と塩と地辛。小瓶に詰めて売る。
パン用オイル。グリュンベーレ油に森胡椒と塩を混ぜたもの。
調味料セット。森胡椒、地辛、赤酢の小瓶。
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商品開発と並行して、村人に料理を教え始めた。
狙いは二つある。搾油やドレッシング作りを手伝える人間を増やすこと。そして、村の飯を旨くすること。俺がいない時でも、村人が自分で調理できるようにする。
広場に焚き火を起こして、村人を集めた。何も説明しない。黙って、畑のサラダ菜を皿に盛り、ドレッシングをかけて回した。
「食ってくれ」
それだけ言った。
ミーナの母親が一口食べて、目を見開いた。
「これ、野菜よね。嘘でしょう」
次にパン用オイル。黒パンを薄く切って、オイルをつけて、森胡椒をひとふり。
ベルントが一切れ手に取って、口に入れて、しばらく噛んで、それから俺を見た。
「テッペイ。このパンは、いつもと同じパンか」
「同じだ。味を変えたのは油と胡椒だけだ」
ベルントは二切れ目に手を伸ばした。この男が二切れ食べるのは珍しい。
一週間もすると、教えなくても村人が自分で料理をするようになった。スープを煮る婆さん。肉を焼くユーリ。ドレッシングを瓶に詰める女たち。
驚いたのは、村人が勝手に味付けを工夫し始めたことだ。ミーナの母親は、ドレッシングに干した薬草を混ぜて独自の風味を出していた。ユーリは肉を焼く時に地辛の量を変えて、辛さの違う焼肉を作り分けていた。
俺が教えたのは基本だけだ。そこから先は、村人が自分で考えた。
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商品も揃った。ドレッシング三種。パン用オイル二種。調味料セット。瓶はヘルマンが木を刳り抜いて作り、蓋は蜜蝋で密封した。
あとは、客だ。
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行商人がやって来たのは、ちょうど新月のゴブリンを退けた翌月のことだった。
荷馬車を一頭の驢馬に引かせて、北の街道からゆっくりと村に入ってくる。五十過ぎの痩せた男。顎髭を短く刈り込んで、目が鋭い。商人というより、元軍人のような雰囲気がある。
ゲルハルトという名前だった。月に一度、この村に寄ってくれる行商人だ。薬や塩、針や布といった必需品を荷馬車に積んで、辺境の村々を回っている。こんな貧しい村じゃ大した商いにならない。それでも寄ってくれるのは、ゲルハルトなりの義理だとベルントは言っていた。
村の金は、ユーリたち若い衆が定期的に街へ出て、工事や荷運びの日雇いで稼いでくる。その僅かな金で、ゲルハルトから塩や薬を買う。それがこの村の経済のすべてだった。
ゲルハルトの目が村を見渡した。商人の目だ。変化を見逃さない。
「ベルント、畑が青い。柵も新しくなっている。何があった」
「紹介しよう」
俺がゲルハルトの前に立った。
「黒田鉄平だ。よろしく。今日は買い物じゃなくて、売りたいものがある」
ゲルハルトの眉が上がった。
「売りたいもの? この村にそんなものがあるのか」
まず畑を案内した。ゲルハルトはカブの前でしばらく動きを止め、それから黒麦の穂を手に取って重さを確かめた。指先が、もう値段を数えていた。サラダ菜を一枚摘んで噛んだ。
「この野菜は旨い。水気があって、味が濃い。市場町でもこの品質は滅多にない」
俺の胸が弾んだ。だが、ゲルハルトは腕を組んで首を振った。
「だが、野菜は無理だ」
「なぜだ」
「輸送だ。この村から市場町まで、荷馬車で二日かかる。葉物は萎びる。根菜は重い。運ぶ手間と時間を考えたら、利益が出ない」
冷水を浴びせられた気分だった。だが、言われてみればその通りだ。黒田精肉店の仕入れも、鮮度と輸送コストとの戦いだった。
「わかった。野菜の輸送は後で考える。だが、別のものを見てくれ」
広場に案内した。焚き火の前に、商品を並べた木の台がある。ドレッシング三種、パン用オイル二種、調味料セット。
サラダ菜にドレッシングをかけて差し出した。ゲルハルトは一口食べて、手が止まった。
「……何だこれは」
「旨いだろう」
「旨い。だが、旨いだけじゃない」
ゲルハルトが瓶を持ち上げて、中身をもう一度嗅いだ。目が変わった。
「この油はグリュンベーレか。それはいい。だが、この香辛料。この辛味。この酸味」
森胡椒の小瓶を手に取って、蓋を開けた。匂いを嗅いで、顔色が変わった。
「おい。これは……ダンコルじゃないか。お前、これをどこで手に入れた」
ダンコル。俺が勝手に「森胡椒」と呼んでいたあの黒い実に、ちゃんとした名前があったのか。
「知ってるのか」
「知ってるも何も、これは市場町で高値で取引される香辛料だ。王都では貴族が金に糸目をつけずに買う。一瓶で銀貨十枚はする」
銀貨十枚。ユーリたちが街で一日汗を流して稼ぐ日雇いの賃金が銀貨一枚だと聞いている。この小瓶ひとつで、十日分の労働に相当するのか。
次に地辛を嗅いだ。赤酢を舐めた。ゲルハルトの目がどんどん鋭くなっていく。
「こっちも知ってる匂いだ。全部、深い森の産物じゃないか。だが、こんなものがなぜこの村にある。これらは魔物の住む森の奥にしか生えていない。採りに行けば魔物に襲われる。命懸けだ。だから高いんだ」
ゲルハルトが俺を見た。値踏みの目ではなく、商人が利益の匂いを嗅ぎつけた目だった。
「お前、どうやって採ってきた」
「ガルドと一緒に森を歩いて、見つけた」
「ガルド?」
俺は村の北側を指差した。畑の向こう、柵の近くで銀灰色の大きな影が寝そべっている。
ゲルハルトがその方向を見て、凍った。
「……銀狼。A級魔獣だ。なぜあんなものが村の中にいるんだ」
「俺の相棒だ。こいつがいるから、森の中でも魔物が近寄ってこない」
ベルントが横から口を添えた。
「心配するな、ゲルハルト。あの銀狼はこの村を守ってくれている。人は襲わん」
ゲルハルトは黙って、ガルドと俺とベルントを順に見た。
「なるほど。A級魔獣が護衛についているから、森の奥まで安全に入れる。だから誰も採れない香辛料を安定して採れる。そういうことか」
ゲルハルトが根掘り葉掘り聞いてきた。どのくらいの頻度で森に入れるのか。ダンコルはどれくらい採れるのか。他に何が採れるのか。保存はどうしているのか。
全部、商売の計算だ。
ガルドは尻尾で地面を叩いた。肉をくれという合図だ。お前は話を聞いていたのか、いなかったのか。
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値段の交渉は一時間かかった。ゲルハルトは手強い商人で、最初の提示額は俺が考えていた半分だった。
「他の行商人にも声をかけるつもりだ」
「他の行商人はこの村を通らん」
「今は通らないだけだ。この品が市場に出れば、買い付けに来る奴は出てくる」
ゲルハルトは俺をじっと見た。ハッタリだと思っただろう。実際、半分はハッタリだ。だが、肉屋は三十年、仕入れ先との値段交渉をやってきた。目を逸らしたほうが負けだ。
最終的に、ドレッシングと調味料の定期取引が成立した。月に一度、ゲルハルトが来る時に商品を引き取り、市場町で売る。代金は翌月の訪問時に支払い。
「量を増やせ。市場町には月に三度市が立つ」
「わかった」
ゲルハルトの荷馬車が街道を北へ去っていった。
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村に初めて「収入」が生まれようとしている。
ベルントに話した。
「ゲルハルトと取引が決まった。毎月、ドレッシングと調味料を売る」
ベルントは黙って聞いていた。それから、静かに言った。
「金が入れば、鉄の矢先が買える。弩の部品も」
「ああ。壁の材料も」
「テッペイ。この村で商売をやるのか」
「やる。肉屋の商売だ。客がいて、商品があって、金が動く。前の人生でやっていたことと同じだ」
ベルントはしばらく俺を見つめていた。
「あんたは肉屋だと言った。だが、やっていることは肉屋の範疇を超えている」
「肉屋だからこそだ。仕入れて、加工して、売る。素材を見極めて、旨いものを作って、客を喜ばせる。全部、精肉店でやっていたことの延長だ」
ベルントが小さく笑った。この男が笑ったのを見るのは、初めてかもしれない。
「なら、好きにやれ。この村のことは、俺が責任を持つ」
ガルドが横で寝転がっている。尻尾だけがゆっくり揺れている。
来月のゲルハルトが来るまでに、ドレッシングの在庫を二十瓶に増やす。調味料セットも十は揃えたい。搾油も軌道に乗せなければ。
やることが山ほどある。だが、一ヶ月前の「やることが増えた」とは質が違う。
あの時は途方に暮れていた。今は、楽しい。




