第八話 崩れる音
放課後の教室は、妙に静かだった。
昨日のことを、みんな少し引きずっている。
窓は開いているのに風がない。
机の上にはペンキ缶と黒マジック。床には切りっぱなしの段ボール。教室後ろの《沈黙病棟》だけが、やけに完成へ近づいていた。
「……これ、ここで合ってる?」
陽花が黒布を持ったまま聞く。
「たぶん」
蓮が答える。
その声が少し掠れていた。
瑠美音はカッターを動かす手を止める。
ノイズが近い。
前よりずっと。
『失敗する』
『また』
『見られてる』
『ちゃんとしないと』
細い感情が、ずっと蓮の周りで軋んでいる。
「朝倉」
陽太が椅子へ座ったまま言う。
「今日休めば」
「平気平気」
返事が早い。
蓮はそのまま笑おうとして、少しだけ失敗した。
「昨日ちょっとヤバかっただけだから」
「ちょっとではなかったでしょ」
陽花が小さく言う。
空気が少し止まる。
蓮は一瞬だけ黙って、それから苦笑いした。
「……悪い」
「謝んなくていいけど」
陽花は黒布を机へ置いた。
でもその声は、昨日までより少し慎重だった。
瑠美音は視線を落とす。
わかってしまう。
陽花も怖がってる。
みんな少しずつ、蓮を気にしている。
その空気を、蓮自身も感じ取っていた。
◇
作業が進むにつれて、教室の空気は少しずつ重くなっていった。
誰かがガムテープを剥がす音。
机を引く音。
廊下の笑い声。
全部が妙に響く。
瑠美音は小さく眉を寄せた。
頭が痛い。
ノイズが多い。
「白峰さん?」
陽花が顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「……まぁ」
その時。
ガタン、と大きな音がした。
全員が振り返る。
蓮がペンキ缶を倒していた。
黒いペンキが床へ広がる。
「あ……」
蓮が固まる。
数秒、誰も動かなかった。
『また』
『最悪』
『やった』
『迷惑』
ノイズが急に尖る。
「大丈夫大丈夫、拭けば済むし」
陽花が慌てて雑巾を探す。
でも蓮は動かなかった。
ペンキを見たまま、呼吸だけが浅くなっていく。
「朝倉」
陽太が立ち上がる。
その瞬間。
びり、と窓ガラスが鳴った。
空気が張る。
教室の奥で、誰かが息を呑んだ。
『うるさい』
『見んな』
『静かにして』
ノイズが溢れる。
ペンキ缶が小さく震えた。
「朝倉?」
陽花の声が強張る。
蓮は俯いたまま、震える手で頭を押さえていた。
「……ごめ」
声が掠れる。
次の瞬間。
「静かにしてくれ」
低い声だった。
その瞬間。
教室中の窓が、一斉にびり、と鳴った。
机が揺れる。
電気が明滅する。
ペンキ缶が倒れて転がった。
誰かが小さく悲鳴を上げた。
空気そのものが軋んでいる。
「っ、朝倉!」
陽花が後ずさる。
顔が青い。
蓮自身も、自分で何をしたのかわかったらしい。
息が乱れている。
『止まれ』
『嫌だ』
『違う』
『壊れる』
ノイズが暴れていた。
「朝倉!」
陽太が前へ出る。
低い声。
でも今回は、すぐ静まらない。
窓ガラスがまだ震えている。
教室の空気も重いまま。
瑠美音は息を呑む。
止まってない。
陽太の“静けさ”でも、完全には。
「こっち見ろ」
陽太が蓮の肩を掴む。
「呼吸」
短い声。
蓮は苦しそうに息を吸った。
数秒。
長い沈黙。
それから少しずつ、窓の震えが止まっていく。
電気の明滅も収まる。
教室が静かになる。
でも。
誰もすぐには動けなかった。
◇
しばらくして、対策課が来た。
黒い制服。
低い声。
廊下の向こうで、九条が何か説明している声が聞こえる。
「今回は記録だけで済ませる」
対策課の男が静かに言った。
「だが、次は保証できない」
蓮は俯いたまま何も言わない。
陽花も黙っていた。
さっきまでの文化祭の空気は、もう残っていなかった。
◇
対策課が帰ったあと。
蓮は「少し休む」とだけ言って、先に教室を出ていった。
閉まった扉を、誰もすぐには見なかった。
片付けも途中のまま。
教室には、変な静けさだけが残っている。
「……甘いもの食べたくない?」
陽花がぽつりと言った。
無理やり明るくしようとしてる声だった。
陽太が小さく息を吐く。
「売店もう閉まってる」
「じゃあコンビニ」
「学園内しかないけど」
「それでもいいから」
陽花はそう言って、黒マジックへ蓋をした。
◇
学園内のコンビニは、夜になると人が少ない。
白い蛍光灯。
小さく流れている店内放送。
レジ横の肉まんケースから湯気が上がっている。
陽花はアイスの棚を開けたまま、
「なんかもう今日疲れた……」
と呟いた。
「それはそう」
陽太がカゴへ適当に飲み物を入れる。
瑠美音は温かい紅茶を手に取った。
店の中は静かだった。
でも。
静かすぎる。
いつも四人だった空気が、一人欠けただけで妙に広い。
「……朝倉、大丈夫かな」
陽花が小さく言う。
その言葉のあと、少し沈黙が落ちた。
「寝れば多少マシになるだろ」
陽太が言う。
いつも通りの声だった。
でも今日は少しだけ低い。
「……そうかな」
瑠美音は呟く。
自分でもわかっていた。
あれはもう、“疲れてる”だけじゃない。
陽花のスマホが震えた。
「あ」
画面を見る。
数秒、陽花が黙る。
「朝倉?」
陽太が聞く。
「……“悪い、今日は戻る”だって」
短いメッセージだった。
誰もすぐには返事を打たなかった。
コンビニの冷蔵ケースが低く唸っている。
遠くで、誰かが電子レンジを使う音がした。
◇
外へ出る。
夜の学園は広かった。
街みたいに灯りはあるのに、人の気配が少ない。
寮棟の窓だけがぽつぽつ光っている。
三人で並んで歩く。
でも、会話はほとんどなかった。
風が吹く。
校舎の窓が、遠くで小さく鳴った気がした。
瑠美音は足を止めかける。
暗い校舎を見る。
昼間までいた教室は、もう真っ暗だった。
なのに。
まだ何かが残っている気がする。
放課後が、少しずつ壊れていく。
そんな感じがした。




