第七話 互いの想い
第七話
《夜の教室》
消灯十分前。
女子寮の廊下は静かだった。
遠くの部屋からドライヤーの音が聞こえる。誰かの笑い声も、一瞬だけして消えた。
瑠美音は自販機の前で立ち止まる。
白い光が、夜の廊下をぼんやり照らしていた。
缶の紅茶を取り出す。
細い音を立てて、缶が落ちてきた。
今日のことを思い出す。
駅前。
暴走。
街灯の明滅。
頭を押さえていた男。
そして。
『落ち着いて』
陽太の声。
瑠美音は缶を持ったまま、小さく息を吐いた。
あの時だけ、静かだった。
周囲のノイズも。
頭の奥を掻き回すみたいな感情も。
全部、少し遠かった。
なんで。
そこだけが引っかかる。
瑠美音は自販機横の窓を見る。
ガラスの向こうは夜だった。
学園の敷地は広い。
寮棟の灯りがぽつぽつ見えて、その向こうに校舎の影がある。
まだいくつか教室の灯りが点いていた。
『怖い』
『また増えてる』
『次は』
遠くの誰かのノイズが、薄く流れてくる。
最近ずっとこんな感じだ。
静かな場所が減っている。
瑠美音は缶を握り直した。
「……なんであんな静かなんだろ」
小さく呟く。
答える人はいなかった。
◇
男子寮。
陽太の部屋はあまり片付いていなかった。
脱ぎっぱなしのパーカー。床へ転がったゲーム機。机の上には飲みかけのスポドリ。
ベッドへ寝転がったまま、陽太はぼんやり天井を見る。
眠くない。
外では風が鳴っている。
今日の暴走を思い出す。
最近多い。
前よりずっと。
しかも今日は、少し長かった。
静まるまで。
陽太は目を閉じる。
蓮の顔が浮かぶ。
最近ずっと危うい。
無理して笑ってるのもわかる。
でも、どう声を掛ければいいのかはわからない。
陽太は小さく息を吐いた。
そのまま、別の顔を思い出す。
駅前で。
人混みの向こうから、じっとこっちを見ていた瑠美音。
『……陽太がいるから』
雨の音まで思い出した。
陽太は片腕で目を隠す。
「……何なんだろ」
誰に言うでもなく呟く。
部屋のエアコンが、小さく音を立てていた。
◇
翌日の放課後。
文化祭準備で残った教室は、少し暑かった。
窓は開いているのに風が弱い。
ペンキの匂いと、湿った空気だけが残っている。
「絶対今日終わんなくない?」
陽花が机へ突っ伏した。
「まだ全然あるじゃん……」
「陽花が増やしたから」
瑠美音が黒布を切りながら言う。
「いやでも絶対雰囲気良くなるって」
「毎回言ってる」
教室の後ろでは、蓮が脚立へ上っていた。
天井近くへ黒布を貼っている。
「朝倉、それ斜め」
陽太が椅子へ座ったまま言う。
「え」
蓮が顔を上げる。
その瞬間、バランスが少し崩れた。
「危な」
陽花が声を上げる。
蓮は脚立を掴み直して、小さく笑った。
「……最近ほんと危ないな俺」
その声が妙に軽かった。
『また失敗』
『集中しろ』
『ちゃんと』
ノイズが細く流れる。
瑠美音は眉を寄せた。
最近、蓮のノイズが近い。
刺さるみたいに聞こえる。
「朝倉、一回休めば」
「大丈夫」
即答だった。
でも、その返事が少し早すぎた。
陽太は何も言わず蓮を見る。
教室の空気が少しだけ止まる。
その時。
びり、と窓ガラスが鳴った。
一瞬。
教室が静かになる。
蓮の手が止まった。
『うるさい』
『無理』
『静かにして』
ノイズが急に濃くなる。
机の上のペンキ缶が、小さく震えた。
「朝倉?」
陽花の声が強張る。
蓮は何か言おうとして、うまく息を吸えないみたいだった。
呼吸が浅い。
顔色も悪い。
まずい。
瑠美音が立ち上がる。
その瞬間。
教室の電気が、一瞬だけ明滅した。
ぱ、と白く光る。
誰かが息を呑む音。
「朝倉」
陽太が立ち上がる。
静かな声だった。
「こっち見ろ」
蓮がゆっくり顔を上げる。
窓ガラスがまた小さく鳴った。
でも。
前みたいにすぐ静まらない。
ノイズがまだ渦巻いている。
瑠美音は反射的に陽太を見る。
違う。
いつもより、静まるのが遅い。
蓮の呼吸はまだ浅い。
「……っ、ごめ」
「謝んなくていい」
陽太が低く言う。
「とりあえず呼吸しろ」
数秒。
重たい沈黙。
それからようやく、窓の震えが止まった。
教室が静かになる。
でも。
空気の奥に、まだ嫌な感じが残っていた。
誰もしばらく動かなかった。
外はもう夜だった。




