第五話 関係者以外立入禁止
放課後の教室は少し蒸し暑かった。
雨が降りそうで降らない中途半端な天気で、窓を開けていても空気があまり動かない。ペンキの匂いだけが教室に残っていた。
床には段ボールの切れ端。机の上には乾きかけの筆。誰かが飲み終わった炭酸の缶が、窓際で転がっている。
「これどこ置く?」
黒布を抱えたまま、陽花が言った。
「後ろでよくね」
陽太が椅子に座ったまま返す。
「絶対適当でしょ今の」
「だいたい合ってる」
「適当な人ってみんなそれ言うよね」
陽花はぶつぶつ言いながら、教室の後ろへ黒布を運んでいく。
その横で、朝倉蓮が段ボールへ文字を書いていた。
《関係者以外立入禁止》
黒マジックの先が途中で止まる。
「あ......」
少し口を開けて、朝倉は固まった。
「インク切れ?」
陽花が振り返る。
「いや、“禁”の字わかんなくなった」
一瞬、教室が静かになった。
次の瞬間、陽太が吹き出す。
「あっはは!それはやばいな、流石に」
込み上げた笑いを抑えるように、肩を震わせながらそう言った。
「大丈夫書けるって!たぶん」
「たぶん......」
蓮は苦笑いしながらスマホを取り出した。
でも、その手が少し止まる。
『なんで忘れる』
『最近ほんとダメだな』
『疲れてんのかな』
細いノイズが流れ込んできた。
瑠美音は黒布を切る手を止める。
最近、蓮のノイズが増えていた。
小さい失敗を気にする回数も、前より明らかに多い。
「朝倉」
「ん?」
瑠美音は言う。
「寝てないでしょ」
蓮は少し笑った。
「最近みんなそれ言うだよね」
「......実際、寝てないんだろ?」
さっきまでの笑っていた表情が少し崩れて、優しい微笑みを浮かべながら陽太が言う。
「まぁ……ちょっと」
「ちなみに、昨日は何時に寝たんだ?」
「昨日は三時くらい」
「やば、死ぬじゃん」
陽花が普通に引いていた。
蓮は苦笑いしながらも、もう一度文字を書き直す。
でも、“禁”をまた少し間違えた。
「あーもう……」
自分で言いながら、ぐしゃっと紙を丸める。
その音が妙に大きく聞こえた。
『ちゃんとしろ』
『また失敗』
『イライラする』
ノイズが少し尖る。
窓の外で風が鳴った。
◇
「そういえばさ」
陽花が机に腰掛けながら言う。
「今日また対策課いたよね」
「あー、正門のとこな」
陽太が頷く。
「最近毎日見る気がするんだよねー」
陽花はペンを指で回しながら続けた。
「二年でもまた暴走あったって聞いたし」
その瞬間、蓮の手が止まった。
本当に、一瞬だけ。
でも瑠美音は気づく。
『また』
『嫌だ』
『やめろ』
ノイズが揺れた。
瑠美音は視線を落とす。
蓮は最近、“暴走”って言葉に反応する。
前はこんなじゃなかった。
「白峰さん?」
陽花が顔を覗き込む。
「なに」
「最近、また聞こえすぎてる?」
質問というより確認みたいな言い方だった。
瑠美音は少し黙る。
「……まぁ」
「人多いから?」
「それもある」
頭の奥が重い。
教室全体の感情が落ち着かない。
文化祭前だからか、それとも暴走が増えているからか。
たぶん、両方だった。
その時。
ガタン、と大きな音がした。
蓮が脚立へぶつかった音だった。
「っ、わ」
脚立が傾く。
陽花が短く声を上げた。
瑠美音が立ち上がりかける。
でも、その前に陽太が動いていた。
「危な」
腕を掴んで支える。
脚立が元へ戻った。
蓮はそのまま数秒動かず、浅く息を吐いた。
「……ありがと」
「最近ほんと危ないぞ、お前」
陽太が手を離しながら言う。
蓮は無理に笑おうとして、
「いや、なんか今日はぼーっとしてて」
と言った。
でも、声が少し掠れていた。
『落ち着け』
『落ち着け』
『落ち着け』
ノイズが一気に増える。
びり、と窓ガラスが小さく鳴った。
一瞬、教室の空気が止まる。
陽花の顔が強張る。
蓮自身も気づいたらしい。
表情が、変わった。
「朝倉」
陽太の声が少し低くなる。
「呼吸」
短い一言。
でも、それだけで空気が少し静かになる。
蓮は苦しそうに息を吸った。
窓の震えが止まる。
誰もすぐには喋らなかった。
遠くで運動部の声だけが聞こえている。
蓮はしばらく俯いたまま動かなかった。
足元には、丸めた紙が転がっている。
瑠美音はそれを見る。
ぐしゃぐしゃになった《関係者以外立入禁止》。
黒い文字だけが、少し滲んでいた。




