第一話 放課後ノイズ
キィィィィン――――。
耳鳴りみたいな高音が、校舎全体を震わせていた。
夕暮れの廊下は赤く染まり、割れた窓ガラスが床へ散らばっている。空気が歪んでいた。熱とも違う、圧力とも違う、目に見えない何かが空間を押し潰している。
『怖い』
『助けて』
『嫌だ』
『死にたくない』
大量の感情が頭へ流れ込んできて、白峰瑠美音は反射的に顔をしかめた。
苦しい。
頭の奥が掻き回される。
それでも瑠美音は、逃げるより先に前を見た。
廊下の先で、一人の男子生徒が壁へ寄りかかっている。呼吸は荒く、制服のボタンは半分千切れていた。
「近づくな……!」
男子生徒の声と同時に、空気が弾ける。
ガンッ!!
廊下脇の掲示板が吹き飛んだ。
悲鳴が響く。
逃げ遅れていた女子生徒が座り込む。
「っ……!」
瑠美音が駆け出そうとした瞬間、その腕を陽太が掴んだ。
「待て」
「でも――」
「今行くと巻き込まれる」
陽太の声は驚くほど落ち着いていた。
その間にも男子生徒の周囲で空気が歪み続けている。
『うるさい』
『止まれ』
『消えろ』
『怖い』
感情が暴走していた。
制御を失った識能が、周囲を壊している。
瑠美音は小さく息を呑む。
知っていた。
こういう暴走は珍しくない。
でも最近、少し増えている。
校内でも、街でも、ニュースでも。
「誰か対策課呼べよ!!」
「もう来るって!」
「早く逃げろ!」
廊下は完全に混乱していた。
その時だった。
男子生徒の視線が、瑠美音を捉える。
一瞬。
目が合った。
『白峰』
『危ない』
『化け物』
その感情が流れ込んできた瞬間、瑠美音はほんの少しだけ動きを止めた。
――またそれか。
昔からそうだった。
助けようとしても、最後には怖がられる。
瑠美音が視線を伏せかけた、その瞬間。
「白峰」
陽太が前へ出る。
「行くぞ」
「……は?」
「止めるんだろ」
あまりにも自然な言い方だった。
まるで、“怖い”なんて感情が存在していないみたいに。
次の瞬間。
陽太の周囲から、音が消えた。
いや。
正確には、“ノイズ”が遠ざかった。
頭を掻き回していた感情のざわめきが、一瞬で薄れる。
瑠美音は目を見開いた。
男子生徒の暴走も弱まっている。
歪んでいた空気が、少しずつ静まっていく。
「何、それ……」
「さぁ」
陽太は軽い声で言う。
「俺もよくわかってない」
そう言いながら、陽太は暴走した男子生徒へ近づいていく。
空気の圧力が弱まる。
男子生徒の呼吸が少しずつ落ち着いていく。
「だ、大丈夫……だから」
陽太はゆっくり声を掛けた。
「落ち着け。誰もお前責めてねぇから」
「……う、るさい……」
「うん、うるさいな」
「頭……ぐちゃぐちゃで……」
「知ってる」
陽太は怒鳴らない。
無理に押さえつけもしない。
ただ、静かに立っていた。
その背中を見ながら、瑠美音は小さく息を呑む。
――静かだ。
こんなの、初めてだった。
誰かの近くにいて、苦しくない。
ノイズが遠い。
世界が静かだった。
その時、廊下の向こうから複数の足音が響く。
「全員離れろ!!」
黒いスーツ姿の男達が駆け込んできた。
異能対策課。
周囲の生徒達が一斉に道を開ける。
その後ろを、一人の男子生徒が歩いてきた。
整った制服。白い手袋。灰青色の瞳。
生徒会長、九条透。
九条は暴走した男子生徒を見る。そして次に、陽太と瑠美音へ視線を向けた。
一瞬だけ。
その目が鋭くなる。
「……御影、下がれ」
静かな声だった。
陽太は小さく肩を竦める。
「もう大丈夫そうだけど」
「判断するのは君じゃない」
「こわ」
「軽口を叩く余裕があるなら問題ないな」
九条は短く息を吐き、対策課員へ視線を向けた。
「拘束を」
男子生徒が小さく震える。
『嫌だ』
『怖い』
『閉じ込められる』
ノイズが流れ込んできて、瑠美音は小さく眉を寄せた。
その瞬間。
男子生徒が瑠美音を見る。
怯えた目だった。
『白峰がいる』
『危ない』
『怖い』
胸の奥が少しだけ痛む。
やっぱり、そうなる。
瑠美音が視線を逸らしかけた時だった。
「白峰」
陽太が隣で言う。
「帰るぞ」
「……は?」
「もう終わっただろ」
あまりにも普通の声だった。
まるで今の空気を気にしていないみたいに。
瑠美音は少しだけ黙る。
それから、小さく息を吐いた。
「陽太」
「ん?」
「変わってるって言われない?」
「よく言われる」
陽太が笑う。
その瞬間だけ、少し世界が静かになった気がした。
◇
翌日。
午後四時三十二分。
終礼のチャイムが鳴った瞬間、教室の空気がゆっくり“放課後”へ変わっていく。
椅子を引く音。笑い声。スマホの通知。
どこにでもある放課後。
けれど瑠美音は、窓際の席へ頬杖をつきながら、昨日のことを思い出していた。
――静かだった。
陽太の近く。
あの感覚だけが、まだ頭に残っている。
「白峰」
不意に声がする。
顔を上げると、教室後方で陽太がこちらを見ていた。
「今日、生徒会にプリント届けるんだけど」
「うん」
「一人だと面倒だから来て」
「嫌」
「即答」
教室で小さな笑いが起きる。
陽太は呆れたように笑った。
「じゃあ半分持って」
「それ余計面倒じゃない?」
「確かに」
また笑いが起きる。
その空気の中で、瑠美音は小さく目を細めた。
昨日までなら、こういう時間を鬱陶しいと思っていた。
でも今は少し違う。
放課後が、少しだけ静かだった。




