03_魅惑の王冠、アップルパイ
第3話です。
アップルパイにバニラアイスクリームの濃厚で甘い香りを添えて。
浴室から出てきたノワールは、屈辱に震えていた。
いい匂いのする石鹸で洗われ、ふわふわのタオルで頭をごしごしと拭かれた。水が嫌いなノワールにとって、それは拷問に等しい。しかも今は日向子のTシャツ一枚を纏っている。しかしそれが、ノワールの機嫌を最も逆撫でした。ノワールの宿敵である『魔法少女』のロゴが描かれているのだから。
「ワガハイの千年間のなかで、最大の屈辱である……ッ!」
「ノワ君かわいい! よく似合ってるねぇ。商品サンプルで貰ったやつだったけど、取っててよかった」
日向子はそういうと、ノワールの髪を梳かしながらドライヤーをかける。その優しい手つきに絆されそうになる身体を押さえ込み、ノワールはキャンキャンと吠えた。
「近寄るなと言っておる! 我が魔力が戻れば、ぬれた髪など一瞬で乾かせるのだっ!」
ぐうぅう……。
またしても、腹の虫が空気を読まずに鳴り響いた。
ドライヤーにも負けない音に、日向子はクスクス笑いながらも眉を下げる。こんなにも小さな子が、お腹を空かせていたなんて。
「さ、ドライヤーはおしまい。もうちょっとだけ、待っててね」
完全に髪が乾いたことを確認すると、日向子は足早にキッチンに向かった。そしてまだ僅かに熱が残る白い紙箱を取り出して、蓋を開ける。
そんな日向子の後ろ姿を、ノワールはふわふわのカーペットの上に座りながら、睨みつけていた。
(なんなのだ、あの人間め。ワガハイに対して恐れおののくどころか、あのような腑抜けた顔をしよって!)
ノワールは己が頬を膨らましている姿が、拗ねた幼子そのものであることに気付いていない。
(今に見ていろ。力が戻った暁には、貴様をワガハイのオヤツにしてやる!)
「お待たせしました。こちらはノワール様への献上品、焼きたてのアップルパイでございます」
日向子は恭しくそう言うと、丸テーブルの上にコトリと白い皿を置いた。
オーブンで軽く温め直されたパイ生地は、宝石のようにツヤツヤと黄金色に輝いている。その上には、冷たいバニラアイスが贅沢に添えられ、熱でゆっくりと溶け出していた。ノワールの目には、そのアップルパイの輝きが王座の冠のように見える。
「…………っ!」
立ち上るバターの濃厚な香りと、煮詰められたリンゴの甘酸っぱい匂い。これまで嗅いだことのない香りに、ノワールは戸惑うように赤い目を揺らした。
「な、なんなのだ、これは……」
「アップルパイって言うんだよ。あまーいリンゴをたくさん詰めた、おいしいお菓子。たべたことない?」
日向子の問いかけに、ノワールはふるふると首を横に振る。
「ワガハイはエクリプス団の団長なのだ。甘味など、食さぬ!」
「そうなの? 残念だなぁ……」
無理強するのは良くないと思い、日向子はアップルパイの皿を下げようとした。すると、ノワールの眉がへにょんと情けなく垂れる。
「ん?」
もう一度、皿をテーブルの上に戻すと、眉がひょこんと上がる。
(なにそれっ! かわいいっ! かわいすぎる!)
日向子は内心悶えながら、表情は平成を装った。伊達に八年間社会人生活を送っていたわけではないから、ポーカーフェイスはお手の物だ。
「あのね、ノワ君。このアップルパイ、たくさんあるから困ってたんだ。ノワ君に食べるのを手伝って欲しいんだけど……ダメかな?」
日向子はノワールの顔を覗き込み、おねがいのポーズを取る。
「ふ、ふん……これは毒見だ。これはあくまで、貴様の誠意を測るための毒見なのだからな! 勘違いをするでないぞっ!」
ノワールはおぼつかない手つきでフォークを握ると、バニラアイスが絡まったパイの端を切り取り、小さな口へと放り込んだ。
パリパリ、ザクッ……ザク……
小気味よい音が、静かな部屋に響く。一口、そしてもう一口と止まることなく、あっという間に六分の一のアップルパイが消えた。
「むぅッ!?」
ノワールの瞳が潤み、小さな肩が微かに震える。
口の中で弾けるパイ生地の香ばしさ。とろりと甘酸っぱいリンゴの果肉。そして、熱々のパイを優しく包み込む、冷たくてとろけるように甘いバニラアイス。
「どう、かな?」
日向子が覗き込むと、ノワールはただ呆然と空になった皿を見つめていた。
「ぐ……ぐぬぬぬぬ……」
これまで食べてきた、血の臭みがある硬い肉とは全く違う、やさしくて甘い柔らかな食べ物。未知のものに相対したノワールは、ただ放心するしかなかった。
「この世界には、こんなにうまいものがあったのか」
その切実な言葉に、今度は日向子が目を見開いた。このノワールという怪人の少年が、これまでどんな人生を歩んできたかのか分からない。それでも、きっととても辛い境遇だったことであることは推察できた。
気が付いた時には、日向子は再びノワールを抱きしめていた。
「これからは、たくさん食べていいんだよ。まだまだあるからね」
「は、はなせ! はなせ人間! こんなもので、ワガハイを懐柔できたとおもったら、大間違いだからなっ!」
「うんうん。もっと美味しいものを食べようねぇ」
「ち ・ が ・ うッ!!」
リスのように頬袋をパンパンに膨らませ、一生懸命に抵抗するノワール。
(だが、このままこの人間を転がして、魔力回復を待つのも悪くはないか)
「なぁ、人間……いや、ヒナコ」
急に名前を呼ばれて、日向子は腕の中のノワールを見る。ノワールは先程の強気な態度はどこへやら、赤い目に涙の膜を張って日向子を見上げていた。
「ワガハイ……じつは、行くところがないのだ。ヒナコ、ワガハイをこの家に置いてはくれまいか?」
まだ腕に収まるくらいの幼子に縋りつかれて、その手を振り払える大人はどれくらいだろう。すくなくとも、日向子にはできなかった。その小さな手を取って、かたい決意とともに抱きしめる。
「うんっ! いいんだよ、いつまでだってここに居ていいからね!」
そう高らかに宣言した日向子の胸元で、ノワールは静かにほくそ笑んだ。
(やはり人間とは愚かなり!このような手に簡単に引っかかるなど!……とはいえ)
「はなせっ! 貴様はくっつきすぎだっ!」
「えぇ〜? だって、ノワ君抱っこしたくなるんだもん」
「ノワ君と呼ぶなッ! ノワール様と呼べっ!」
「はぁーい」
とある春の日、冷たい雨の夜。
世界を滅ぼすはずだった最強の怪人と、バリバリキャリアウーマンの奇妙な同居生活がはじまったのである。
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