13_わずかな変化? とろけるチョコレート
「ただいまー。ほら、ノワ君もお靴脱ごうね」
「む、脱ぐのである」
アパートの重い扉を閉め、日向子はパンプスを脱いでノワールの靴を脱がせてあげた。ノワールも素直に従い、自分の靴のマジックテープを剥がした。
「はぁ……疲れたねぇ、ノワ君」
日向子はリビングに着くなりゴロンと横になった。ハンバーガーショップでの一幕は、思い返しても冷や汗が出る。スーツの男性に毅然と立ち向かったものの、疲れたものは疲れた。それでもお隣のサクラさんが泣き出しそうだったのを見て、放っておけなかった。
「フン。ヒナコはお節介が過ぎるのである」
ノワールはクマ耳帽子を脱ぎ捨てると、トコトコとリビングのソファへ向かい、短い腕を組んでドカリと座り込んだ。その緋色の瞳は、いつになく鋭く細められている。
(あの小娘……力が戻ればあの娘の正体を見破れたものを。やはり早く力を回復させねば)
一刻も早く魔力を蓄え、日向子を完全に手懐けて隠れ蓑としての性能を高めねば。
眉間に深いシワを寄せて難しい顔をするノワール。そんな彼の不機嫌な様子を見て、日向子はクスクスと笑みをこぼした。
「ごめんね、ノワ君。ハンバーガーショップでおもちゃが売り切れちゃって、まだ怒ってる?」
「ぬ、違うのである!」
ノワールは首を振って、日向子を心配するような眼差しで彼女を見上げる。ぷうと頬をふくらませて、不満げに言った。
「ヒナコ、おぬしはほとんど食うておらぬ。腹が減っているのではないか?」
ノワールにとっての最優先は魔力の回復だが、そのためには日向子の庇護が必要である。彼女が空腹で倒れてしまっては意味がない。
「大丈夫、とっておきがあるからね」
「とっておき? 食い物であるか?」
「そう! ノワ君にも食べてほしいな」
日向子が冷蔵庫から取り出したのは、近所の洋菓子店で奮発して買った、小さなリボンのついた四角い箱だった。
「……む? なんだそれは」
「この間約束したでしょ? はい、オープン!」
日向子が丁寧にリボンを解いて蓋を開けると、そこには綺麗に整列したサイコロ状の茶色い塊が並んでいた。
「チョコだよ。甘くておいしーいお菓子でね。ノワくんにも食べて欲しいなって」
「ほう……? これが美味な供物だというのか?」
「見た目に騙されちゃダメだよ。はい、あーん」
日向子はチョコをひとつ摘むと、ノワールの口元へと運んだ。ノワールはフンと鼻を鳴らし、パクリとその塊を口に含む。
直後、ノワールの動きがピタッと止まった。
「な……なんだこれはっ!」
舌の上に乗せた瞬間、体温だけでとろりと滑らかに溶けていく。
口いっぱいに広がるのは、今までに経験したことのないほど濃厚で、かつ上品なカカオの風味。そして、ほろ苦さの後から追いかけてくる、とろけるような甘み。
「ん、ふふ……」
あまりの衝撃に、魔王としての威厳はどこへやら、ノワールの緋色の瞳はキラキラと輝き、頬がこれ以上ないほどふにゃふにゃに緩んでしまった。
「おいしい、ノワ君?」
「うむ……! うますぎるのである、ヒナコ! 吾輩の知るどんな高級な供物よりも、濃厚で、優しくて。とにかく美味である!」
「よかったぁ。このお店のチョコがいちばん美味しいんだ。」
「ヒナコ、もう一個寄越すのである!」
ノワールは日向子の膝の上に移動して、短い足をパタパタとさせて催促する。日向子は嬉しそうに目を細め、次の一粒を口に入れてあげた。
夢中になって生チョコを頬張るノワール。しかし、一生懸命に食べるあまり、その小さな口の周りはチョコレートだらけになっていた。
「あらら。ノワ君ってば、お顔が大変なことになってるねぇ」
「む?」
「ちょっとじっとしててね。拭いてあげる」
日向子はティッシュを手に取ると、ノワールの前に膝をつき、彼のふっくらとした頬を優しく包み込んだ。そして、口元の汚れをトントンと丁寧に拭っていく。
「……っ」
至近距離で微笑む日向子の顔と、彼女の手のひらから伝わってくる、柔らかくて温かい体温。
(……日向子の手は、あたたかい)
ノワールはふと、胸の奥がトクンと跳ねるのを感じた。怪人として生まれ、常に奪い合いと恐怖の中でトップに君臨してきたノワールにとって、これほどまでに他者から無条件に愛されるという経験は初めてだった。
甘いチョコレートと、それ以上に甘く全肯定してくれる日向子の存在。いつしか彼女の存在はノワールにとって大きなものとなっていた。
「キレイになったね。ノワ君、もう満足した?」
「うむ、満足である」
頷いたノワールは、ひとつチョコレートを手に取り日向子の口元に差し出す。キョトンとした日向子にノワールは焦れたような声を出した。
「これはヒナコのものである。ヒナコは己を蔑ろにしすぎだ。もっと大切にせよ! おぬしはワガハイの忠実な僕にならねばならぬのだからな!」
表面上はなんとも傲慢な言葉だけれど、そこにはノワール本人の優しさが滲んでいる。日向子の頬はまたしても熱を持って、胸が切なくなる。
「ありがとう、ノワ君」
チョコレートの箱が空になった頃。日向子の温かい膝の上に座っていることにより、ノワールはゆったりとした眠気に襲われていた。日向子のそばに居るとなんだか気が抜けてしまうのだ。
「あら、おやすみモードかな?」
「ヒナコ……明日も、吾輩のそばにおれよ……。これは命令……である……」
消え入りそうな声でそう呟くと、ノワールは小さな寝息を立てて深い眠りに落ちていった。眠ったことを確認すると日向子は立ち上がって寝室に向かう。
「また明日ね、ノワ君」
日向子は優しく微笑み、彼の小さな額を撫でた。少し悩んだあと、その額に唇を寄せる。なんとなく気恥ずかしいけれど、これは母性だと言い張った。
(誰に言い訳してるんだか……)
日向子は自嘲気味に笑い、ノワールに布団をかける。そして彼を守るように、すぐ隣に体を横たえるのだった。
同時刻、静まり返ったアパートの向かい側。月明かりに照らされたビルの屋上に、二本の黒いツノを生やした女が、血の涙を流しながらハンカチをキリキリと噛み締めていた。
「わたくしの団長が……あんな女狐の膝の上で、お口の周りを拭ってもらって。腑抜けたお顔で眠られておいでだなんて……! なんて、なんて……!」
エクリプス団第一幹部、アルタミアが叫ぶ。
「羨ましい!!!!」
彼女は団長の危機を察して尾行していたが、目撃したのはあまりにも糖度の高すぎる男女だった。
「わたくしも小さな団長にチョコをあーんして差し上げたいっ! そしてお口を拭いて差し上げたいのにぃいいい!!」
夜の住宅街に、静かな、しかし凄まじい執念の混じった女幹部の癇癪が、ひっそりと響き渡るのだった。
「やはり、悠長なことをしていられない……早急に次の手を打たなければ……!」




