↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第一部『春を待たずに、君は征く。』  作者: 涼里
第一部 『春を待たずに、君は征く。』
PR
6/7

第五話 出征前夜

明治二十七年、九月。


戦争が始まってから、東京の空は妙によく晴れるようになった。


街には戦勝を祈る幟が翻り、新聞売りの声が朝から響いている。

人々は遠い戦地の地名を覚え、まだ見ぬ勝利を語った。

けれど榊原清継にとって、戦争とは地図の上に引かれる赤い線でも、新聞を賑わせる勇ましい見出しでもなかった。


久世千景の名前が、出征者名簿に載った。

ただ、それだけだった。


「中尉、そんなに睨まれては紙に穴が開きます」


執務室の扉を閉めた千景が、いつもの調子で笑った。


「……貴様は、なぜ平然としていられる」


「軍人ですから」


「それは答えになっていない」


千景は少し考え、机上の名簿へ視線を落とした。


「怖い顔をしたところで、命令は変わりません」


その声に、清継は言葉を失った。


千景は恐れていないのではない。恐れを見せることで、清継を苦しませたくないのだ。


そういう男だった。


「輸送任務だと聞いた」


「はい。物資と負傷者の搬送に関わるそうです」


「六月に指摘した経路の件は」


「修正されたようです。ただ、現地でどうなるかは……」


千景は言葉を濁した。

清継の脳裏に、黒田宗吾の薄い笑みがよぎる。


――覚えておきましょう。


あの言葉が、今になって耳の奥に蘇った。


*


夕刻、《花霞》を訪れると、八重が黙って酒を出した。


「今日はお二人とも、ひどいお顔」


「俺はいつも通りだ」


「ええ。だから困るんですよ」


八重は清継の前に小さな包みを置いた。


「久世さんに。お守り代わりの干菓子です」


千景が目を細める。


「ありがとうございます。帰ったら、またいただきに来ます」


「約束ですよ」


「はい」


あまりに簡単に交わされた約束だった。

清継は盃を持つ手に力を込めた。


八重が奥へ下がると、千景はそっと囁いた。


「……清継さん」


「ここでは呼ぶな」


「では、今夜だけ」


千景の笑顔が、少し揺れた。


「今夜だけ、あなたを独り占めさせてください」


*


清継の私室には、秋の虫の声が届いていた。


軍帽を置いた千景は、いつものように軍服の釦を外そうとして、途中で手を止めた。


「……清継さん」


「何だ」


「俺が帰らなかったら、どうしますか」


清継は即座に答えた。


「帰ってこい」


「命令ですか」


「ああ」


千景は笑った。


「困りましたね。戦場では、あなたの命令が届かないかもしれない」


「ならば、今ここで覚えておけ」


清継は千景の手首を掴んだ。


「生きて帰れ。何があっても」


千景はしばらく清継を見つめ、それから静かに頷いた。


「……努力します」


「努力では足りん」


「では、約束します」


清継はその言葉を信じたかった。


千景は嘘をつくのが上手い。

笑顔で悲しみを隠し、冗談で恐怖を包み、誰かを守るためなら自分の痛みを後回しにする。


それでも、この約束だけは信じたかった。


「千景」


清継は青年の頬を包んだ。


「愛している」


千景の瞳が揺れた。


これまで何度も抱き締め、唇を重ねてきた。それでも、清継がその言葉を口にしたのは初めてだった。


「……ずるいですよ」


千景の声が震える。


「そんなこと、今夜言わないでください」


「なぜだ」


「帰りたくなるでしょう」


清継は答えられなかった。

千景は微笑み、清継の胸に額を寄せた。


「俺も、愛しています」


その声は、ひどく小さかった。


「この国より、名誉より、あなたが大切です」


清継は彼を抱き締めた。


「ならば、帰ってこい」


「……はい」


千景の返事は、胸元でかすかに震えていた。


*


夜が更け、二人は軍服を脱いだ。


清継は千景の髪を梳き、額から頬へと口づけを落とした。千景は目を閉じ、清継の背に腕を回す。


「……もっと、近くに」


囁かれるまま抱き寄せると、千景は安堵したように息をついた。


互いの体温を確かめるたび、明日という言葉が遠ざかっていく。

清継は千景の手を取り、指を絡めた。


「痛くはないか」


「……大丈夫です」


千景は微笑んだ。


「あなたが、優しいから」


清継はその手の甲に口づけた。


夜の静寂の中、二人は何度も名前を呼び合った。

窓の外で風が木々を揺らしても、清継は千景を離さなかった。


千景もまた、清継の胸に頬を寄せ、眠りに落ちるまでその鼓動を聞いていた。


まるで、その音を覚えておけば、どれほど遠い戦場でも帰る場所を見失わずに済むと信じるように。


*


夜明け前、千景は一人で目を覚ました。


隣では清継が眠っている。

普段は厳しい眉間も、眠っているときだけは穏やかだった。


千景はその顔を見つめ、そっと微笑んだ。


「……ごめんなさい」


声には出さなかった。

軍服の内側から、桜の押し花を取り出す。

春に清継から返されたものだった。


千景は薄紙を開き、しばらく眺めたあと、再び丁寧に包んだ。


それから机に向かい、便箋を一枚取り出した。


『清継さんへ』


書き出して、手が止まる。


何を書けばいいのだろう。

必ず帰ると約束した。

愛しているとも告げた。


けれど、戦場で何が起こるかなど、誰にもわからない。


千景は筆を置いた。

そして便箋を折り畳み、軍服の内ポケットへしまった。


まだ、渡すべきではない。

そう思った。


*


出征の朝。


駅には軍人とその家族が溢れていた。

泣く者、笑う者、万歳を叫ぶ者。


その喧騒の中で、清継と千景は向かい合った。


「久世少尉」


「はい、榊原中尉」


二人は敬礼した。


ただの上官と部下。

それ以上でも、それ以下でもない。


清継は千景の襟元を整えた。


「……曲がっている」


千景が笑う。


「珍しいですね。いつもは俺が直すのに」


「黙れ」


清継は手を離した。

触れられるのは、ここまでだった。


「久世」


「はい」


「帰還を待つ」


千景は一瞬だけ目を伏せた。

それから、いつもの人懐こい笑顔を浮かべた。


「承知しました」


汽笛が鳴る。


千景は踵を返し、列車へ乗り込んだ。

窓越しに、もう一度だけ目が合った。


千景は唇を動かした。

声は届かない。

けれど清継には、何と言ったのかわかった。


――また、春に。


列車が動き出す。

清継はその姿が見えなくなるまで、敬礼を解かなかった。


この日、清継は初めて、軍人であることを後悔した。


そして千景が軍服の内側に隠した未完成の手紙は、やがて別の言葉で書き直されることになる。


『どうか、俺を探さないでください』


まだ誰も知らない未来へ向かって、列車は秋の光の中を走り去った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。