第五話 出征前夜
明治二十七年、九月。
戦争が始まってから、東京の空は妙によく晴れるようになった。
街には戦勝を祈る幟が翻り、新聞売りの声が朝から響いている。
人々は遠い戦地の地名を覚え、まだ見ぬ勝利を語った。
けれど榊原清継にとって、戦争とは地図の上に引かれる赤い線でも、新聞を賑わせる勇ましい見出しでもなかった。
久世千景の名前が、出征者名簿に載った。
ただ、それだけだった。
「中尉、そんなに睨まれては紙に穴が開きます」
執務室の扉を閉めた千景が、いつもの調子で笑った。
「……貴様は、なぜ平然としていられる」
「軍人ですから」
「それは答えになっていない」
千景は少し考え、机上の名簿へ視線を落とした。
「怖い顔をしたところで、命令は変わりません」
その声に、清継は言葉を失った。
千景は恐れていないのではない。恐れを見せることで、清継を苦しませたくないのだ。
そういう男だった。
「輸送任務だと聞いた」
「はい。物資と負傷者の搬送に関わるそうです」
「六月に指摘した経路の件は」
「修正されたようです。ただ、現地でどうなるかは……」
千景は言葉を濁した。
清継の脳裏に、黒田宗吾の薄い笑みがよぎる。
――覚えておきましょう。
あの言葉が、今になって耳の奥に蘇った。
*
夕刻、《花霞》を訪れると、八重が黙って酒を出した。
「今日はお二人とも、ひどいお顔」
「俺はいつも通りだ」
「ええ。だから困るんですよ」
八重は清継の前に小さな包みを置いた。
「久世さんに。お守り代わりの干菓子です」
千景が目を細める。
「ありがとうございます。帰ったら、またいただきに来ます」
「約束ですよ」
「はい」
あまりに簡単に交わされた約束だった。
清継は盃を持つ手に力を込めた。
八重が奥へ下がると、千景はそっと囁いた。
「……清継さん」
「ここでは呼ぶな」
「では、今夜だけ」
千景の笑顔が、少し揺れた。
「今夜だけ、あなたを独り占めさせてください」
*
清継の私室には、秋の虫の声が届いていた。
軍帽を置いた千景は、いつものように軍服の釦を外そうとして、途中で手を止めた。
「……清継さん」
「何だ」
「俺が帰らなかったら、どうしますか」
清継は即座に答えた。
「帰ってこい」
「命令ですか」
「ああ」
千景は笑った。
「困りましたね。戦場では、あなたの命令が届かないかもしれない」
「ならば、今ここで覚えておけ」
清継は千景の手首を掴んだ。
「生きて帰れ。何があっても」
千景はしばらく清継を見つめ、それから静かに頷いた。
「……努力します」
「努力では足りん」
「では、約束します」
清継はその言葉を信じたかった。
千景は嘘をつくのが上手い。
笑顔で悲しみを隠し、冗談で恐怖を包み、誰かを守るためなら自分の痛みを後回しにする。
それでも、この約束だけは信じたかった。
「千景」
清継は青年の頬を包んだ。
「愛している」
千景の瞳が揺れた。
これまで何度も抱き締め、唇を重ねてきた。それでも、清継がその言葉を口にしたのは初めてだった。
「……ずるいですよ」
千景の声が震える。
「そんなこと、今夜言わないでください」
「なぜだ」
「帰りたくなるでしょう」
清継は答えられなかった。
千景は微笑み、清継の胸に額を寄せた。
「俺も、愛しています」
その声は、ひどく小さかった。
「この国より、名誉より、あなたが大切です」
清継は彼を抱き締めた。
「ならば、帰ってこい」
「……はい」
千景の返事は、胸元でかすかに震えていた。
*
夜が更け、二人は軍服を脱いだ。
清継は千景の髪を梳き、額から頬へと口づけを落とした。千景は目を閉じ、清継の背に腕を回す。
「……もっと、近くに」
囁かれるまま抱き寄せると、千景は安堵したように息をついた。
互いの体温を確かめるたび、明日という言葉が遠ざかっていく。
清継は千景の手を取り、指を絡めた。
「痛くはないか」
「……大丈夫です」
千景は微笑んだ。
「あなたが、優しいから」
清継はその手の甲に口づけた。
夜の静寂の中、二人は何度も名前を呼び合った。
窓の外で風が木々を揺らしても、清継は千景を離さなかった。
千景もまた、清継の胸に頬を寄せ、眠りに落ちるまでその鼓動を聞いていた。
まるで、その音を覚えておけば、どれほど遠い戦場でも帰る場所を見失わずに済むと信じるように。
*
夜明け前、千景は一人で目を覚ました。
隣では清継が眠っている。
普段は厳しい眉間も、眠っているときだけは穏やかだった。
千景はその顔を見つめ、そっと微笑んだ。
「……ごめんなさい」
声には出さなかった。
軍服の内側から、桜の押し花を取り出す。
春に清継から返されたものだった。
千景は薄紙を開き、しばらく眺めたあと、再び丁寧に包んだ。
それから机に向かい、便箋を一枚取り出した。
『清継さんへ』
書き出して、手が止まる。
何を書けばいいのだろう。
必ず帰ると約束した。
愛しているとも告げた。
けれど、戦場で何が起こるかなど、誰にもわからない。
千景は筆を置いた。
そして便箋を折り畳み、軍服の内ポケットへしまった。
まだ、渡すべきではない。
そう思った。
*
出征の朝。
駅には軍人とその家族が溢れていた。
泣く者、笑う者、万歳を叫ぶ者。
その喧騒の中で、清継と千景は向かい合った。
「久世少尉」
「はい、榊原中尉」
二人は敬礼した。
ただの上官と部下。
それ以上でも、それ以下でもない。
清継は千景の襟元を整えた。
「……曲がっている」
千景が笑う。
「珍しいですね。いつもは俺が直すのに」
「黙れ」
清継は手を離した。
触れられるのは、ここまでだった。
「久世」
「はい」
「帰還を待つ」
千景は一瞬だけ目を伏せた。
それから、いつもの人懐こい笑顔を浮かべた。
「承知しました」
汽笛が鳴る。
千景は踵を返し、列車へ乗り込んだ。
窓越しに、もう一度だけ目が合った。
千景は唇を動かした。
声は届かない。
けれど清継には、何と言ったのかわかった。
――また、春に。
列車が動き出す。
清継はその姿が見えなくなるまで、敬礼を解かなかった。
この日、清継は初めて、軍人であることを後悔した。
そして千景が軍服の内側に隠した未完成の手紙は、やがて別の言葉で書き直されることになる。
『どうか、俺を探さないでください』
まだ誰も知らない未来へ向かって、列車は秋の光の中を走り去った。




