第四話 君と生きる国が欲しかった
明治二十七年、六月。
桜が散っても、榊原清継の春は終わらなかった。
むしろ、困ったことに始まってしまったらしい。
「中尉。襟章が曲がっています」
久世千景が、執務室で書類を受け取りながら囁いた。
「曲がっていない」
「いいえ。少しだけ」
千景は当然のように手を伸ばし、清継の襟元に触れた。
細い指が軍服の布を整える。その仕草があまりに自然で、清継は咎める言葉を失った。
「……勤務中だぞ」
「存じております」
「ならば慎め」
「では、勤務後ならよろしいんですね」
清継が睨むと、千景は涼しい顔で敬礼した。
あの夜から三か月。
二人は、誰にも知られぬ恋人になっていた。
昼は中尉と少尉。夜は清継と千景。
それだけのことが、時折ひどく恐ろしくなる。
軍服の釦を外せば、国家への忠誠まで脱ぎ捨てられるわけではない。
翌朝には再び、互いを階級で呼ばなければならないのだから。
*
六月の終わり、清継は姉の文に呼び出された。
「縁談が来ています」
茶を注ぎながら、文は何気ない口調で告げた。
「お相手は子爵家のご令嬢。お父上も乗り気ですって」
「断ってください」
「まだ写真も見せていないのに?」
「必要ありません」
文は弟の顔をしばらく眺めた。
「……大切な方がいるのね」
清継の指が止まる。
「姉上」
「名前は聞かないわ」
文は静かに微笑んだ。
「ただ、ひとつだけ。守りたい人ができたのなら、その人の人生まで勝手に決めてはいけませんよ」
清継は答えられなかった。
その言葉が、なぜか胸に残った。
*
夕刻、軍の会議室には張り詰めた空気が漂っていた。
朝鮮半島をめぐる情勢は日に日に緊迫し、部隊には動員に備えた準備が命じられている。
千景は配布された資料に目を通し、眉を寄せた。
「中尉。こちらの輸送計画ですが」
「何だ」
「負傷者の搬送経路が不十分です。戦闘が長引けば、物資の輸送と重なります」
清継は資料を覗き込んだ。
確かに、千景の指摘は正しかった。
「上申する」
「よろしいんですか」
「正しい意見を退ける理由はない」
千景は少し驚き、それから嬉しそうに笑った。
「中尉、変わりましたね」
「貴様がうるさいからだ」
「光栄です」
そのとき、会議室の扉が開いた。
「榊原中尉」
現れたのは、軍の情報関係の任務に就く黒田宗吾だった。
端正な顔に感情のない微笑を浮かべ、黒田は資料を一瞥する。
「久世少尉。会津のご出身でしたな」
「はい」
「なるほど。古い時代の傷を持つ家の者ほど、新しい国家への忠誠を証明したがる」
千景の笑顔が消えた。
清継は静かに立ち上がる。
「黒田殿。その発言は、職務と関係がありません」
「おや。部下思いですな」
「部下の出自を論じるより、輸送計画の不備をご確認いただきたい」
黒田は一瞬だけ目を細めた。
「……覚えておきましょう」
その言葉は、褒め言葉には聞こえなかった。
*
その夜、千景は清継の私室を訪れた。
「今日は、ありがとうございました」
「礼を言われることではない」
「それでも、嬉しかったんです」
千景は軍帽を置き、清継の隣に腰を下ろした。
「祖父は、最後まで明治という時代を嫌いきれませんでした」
「……そうか」
「新しい世にならなければ、俺は軍人になれなかったかもしれない。けれど、新しい世になったから失ったものもある」
千景は清継を見上げた。
「清継さんは、この国がお好きですか」
清継はしばらく考えた。
「好きかどうかで仕えるものではない」
「軍人らしいお答えですね」
「お前は違うのか」
「俺は……」
千景は微笑んだ。
「あなたと生きられる国なら、好きになれると思います」
清継の胸が痛んだ。
あまりにも無防備な告白だった。
「千景」
名前を呼ぶと、青年は静かに目を閉じた。
清継はその頬に触れ、唇を重ねる。
最初は短く、次第に深く。
千景の指が清継の軍服を掴んだ。
「……清継さん」
「嫌なら言え」
「嫌なわけ、ないでしょう」
千景は困ったように笑った。
「あなたに触れられるたび、明日が来なければいいと思ってしまう」
清継は彼を抱き締めた。
「明日は来る」
「ええ」
「だから、明日も会えばいい」
千景は目を見開き、それから泣きそうに笑った。
「……それ、約束ですか」
「ああ」
清継は額を寄せた。
「何度でも約束する」
千景は自分から口づけた。
火鉢の炭が静かに爆ぜる。
重ねた唇の熱も、衣擦れの音も、互いの名前を呼ぶ声も、閉ざされた部屋の外へは届かない。
やがて二人は軍服を脱ぎ、薄闇の中で抱き合った。
清継は千景の背に腕を回し、彼が小さく息を震わせるたび、確かめるように口づける。
千景は清継の肩に額を預けた。
「……俺、怖いんです」
「何がだ」
「あなたを失うことが」
清継はその髪を撫でた。
「俺もだ」
初めて口にした弱さだった。
千景は顔を上げる。
「清継さんも?」
「ああ」
清継は彼の手を握った。
「お前がいなくなることが、怖い」
千景はしばらく黙り、それから清継の胸に顔を埋めた。
「……それなら、俺たち、同じですね」
その夜、二人は何度も互いを抱き締めた。
まるで、触れている間だけは未来を失わずに済むと信じるように。
*
翌朝、清継のもとへ一通の公文書が届いた。
動員準備に関する命令だった。
日付は六月三十日。
清継は書類を読み終え、窓の外を見た。
庭では、桜の葉が青々と茂っている。
春はもう終わっていた。
背後で千景が目を覚ます。
「……清継さん?」
清継は振り返り、微笑んだ。
「何でもない」
嘘だった。
千景はその嘘に気づいたのだろう。
けれど、何も聞かなかった。
ただ、清継の手を握った。
その温もりがひどく愛おしかった。
明治二十七年七月二十五日、豊島沖海戦。
八月一日、日本と清国は宣戦を布告する。
戦争が始まる。
二人が愛した国は、二人を引き裂く国へと姿を変えようとしていた。
そして清継は、まだ知らなかった。
あの六月の夜に交わした「明日も会う」という約束が、やがて自分を十九年間縛り続けることになるなど。




