第三話 軍服を脱いだ夜
明治二十七年、三月。
春は、まだ来なかった。
東京の街路には冬の名残が沈み、夕暮れの風は軍服の襟元から容赦なく入り込んだ。
けれど、榊原清継が春を嫌う理由は、寒さでも花でもない。
春になれば、返さなければならないものがあった。
軍服の内ポケットに忍ばせた、桜の押し花。
『春になったら、返していただきます』
あの雪の夜から三か月。久世千景は一度も、その約束を口にしなかった。
「中尉、また難しいお顔ですね」
訓練場から戻った千景が、書類を抱えて笑う。
柔らかな黒髪には風に運ばれた砂埃が残り、琥珀色の瞳だけが、いつもと変わらず澄んでいた。
「貴様の報告書に誤字が三つある」
「二つでは?」
「今ので四つだ」
「口頭の発言まで数えるのは横暴です」
清継は眉間を押さえた。
相変わらず、減らず口だけは達者な男だった。
だが、以前とは違うこともある。
千景は清継の私室を訪ねなくなった。
二人きりになるとわずかに距離を取るようになった。
あの夜、唇が触れる寸前に手を離したのは自分だ。
千景が何を期待していたのかも、その期待をどう裏切ったのかも、清継にはわかっていた。
それでも上官としての立場を考えれば、正しい判断だったはずだ。
正しいはずなのに、胸が痛む。
*
その晩、《花霞》には珍しく客が少なかった。
女将の八重は清継を見るなり、意味ありげに笑った。
「今日はお一人?」
「いつも一人だ」
「あら。心までお一人とは限らないでしょう」
「……酒を頼む」
「はいはい」
八重が奥へ引っ込むと、入れ違いに引き戸が開いた。
「こんばんは。……あ」
千景だった。
互いに目が合う。
千景は一瞬だけ迷い、それからいつもの笑顔を浮かべた。
「奇遇ですね、中尉」
「三度目だな」
「運命でしょうか」
「偶然だ」
「即答は傷つきます」
そう言いながらも、千景は以前のように隣へ座らなかった。
一席空けて腰を下ろす。
たったそれだけの距離が、清継には妙に遠かった。
「……久世」
「はい」
「こちらへ来い」
千景が目を瞬かせた。
「命令ですか」
「違う」
清継は盃を置いた。
「頼んでいる」
千景はしばらく黙っていたが、やがて静かに隣へ移った。
その肩が触れた瞬間、清継はようやく息をつけた気がした。
「中尉は、ずるい方ですね」
「何がだ」
「俺が断れないことを、よくご存じだ」
千景の笑顔は柔らかかった。
けれど、その奥にある寂しさを、清継はもう見過ごせなかった。
*
帰り道、二人は言葉少なに歩いた。
雨は降っていない。
傘も必要ない。
清継は、あの春の夜よりも千景を遠く感じていた。
「千景」
呼び止めると、青年の足が止まった。
「……はい」
「この前の夜のことだ」
千景の表情が、わずかに強張る。
「忘れてください」
「まだ何も言っていない」
「わかっています」
千景は笑った。
「だから、言わないでください」
清継は息を呑んだ。
千景は俯き、軍服の袖を握り締める。
「俺は、あの夜を後悔していません。けれど、中尉に後悔させたくないんです」
街灯の淡い光が、その横顔を照らしていた。
「あなたが俺に優しくしてくださったことまで、間違いだったと思われたくない」
清継は手を伸ばした。
今度は、躊躇わなかった。
「間違いではない」
千景が顔を上げる。
「俺が間違えたのは、お前に触れたことではない。触れたかった理由から逃げたことだ」
清継は千景の手を取った。
冷えた指先が、掌の中で小さく震える。
「……清継さん」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
「もう一度、そう呼んでくれ」
「清継さん」
今度は清継から、唇を重ねた。
短く、確かな口づけだった。
離れると、千景は泣きそうな顔で笑っていた。
「……本当に、ずるい」
「知っている」
「俺、もう待たなくてもいいんですか」
清継は答える代わりに、もう一度その手を握った。
*
清継の私室は、驚くほど整然としていた。
千景は外套を脱ぎながら、少しだけ笑った。
「中尉らしいお部屋ですね」
「何も面白いものはないぞ」
「ありますよ」
千景が振り返る。
「あなたがいる」
清継は返事に困った。
千景はそんな彼を見つめ、静かに近づいた。
「……触れても、いいですか」
「お前はいつも、妙なところで律儀だな」
「大切なことなので」
清継は千景の手を取り、自分の頬へ導いた。
「いい」
千景の指が、そっと肌をなぞる。
その慎重さが愛おしかった。
清継は千景を抱き寄せ、額に、瞼に、そして唇に口づけた。
千景はそのたびに目を閉じ、確かめるように清継の背へ腕を回す。
「……清継さん」
「何だ」
「明日になったら、また中尉と少尉に戻るんですよね」
「ああ」
「では、今夜だけは」
千景は軍服の襟元に指をかけた。
「ただの男同士で、いさせてください」
清継はその手に自分の手を重ねた。
金色の釦が一つ、また一つと外されていく。
軍服を脱いだ千景は、思っていたよりも華奢だった。
けれど、その肩には訓練で鍛えた確かな強さがあり、清継が触れると、わずかに息を震わせた。
「寒いか」
「……いいえ」
千景は微笑んだ。
「あなたの手が、温かいだけです」
清継は灯りを落とした。
薄闇の中、二人は何度も名前を呼び合った。
互いの鼓動を確かめるように抱き締め、言葉にできなかった三か月を、ゆっくり埋めていく。
夜が更けても、千景は清継の手を離さなかった。
*
翌朝、千景は清継の腕の中で目を覚ました。
障子の向こうには、淡い朝日が差している。
「……清継さん」
「起きたか」
「夢じゃなかったんですね」
「夢なら、俺は随分と不埒な上官だな」
千景が笑った。
その笑顔を見て、清継はようやく気づいた。
自分は、この男の笑顔を守りたいのだ。
国家でも、家名でも、軍人としての名誉でもない。
ただ、久世千景という一人の男を。
「千景」
「はい」
清継は軍服の内ポケットから、小さな薄紙を取り出した。
桜の押し花。
「返す」
千景は驚いたように目を見開き、それから嬉しそうに笑った。
「まだ春には少し早いですよ」
「構わん」
清継は千景の手に、それを握らせた。
「次の春も、その次も、お前に返せばいい」
千景はしばらく押し花を見つめていた。
やがて、ひどく静かな声で言った。
「……約束ですよ」
「ああ」
清継は頷いた。
「約束だ」
その年の七月、日清戦争が始まる。
二人が交わした約束は、まだ誰にも知られていなかった。
そして、千景がその桜を清継に預け直す日が来ることも。
春は、ようやく訪れようとしていた。




