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第一部『春を待たずに、君は征く。』  作者: 涼里
第一部 『春を待たずに、君は征く。』
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第二話 雪の日に、名前を呼んだ

明治二十六年、十二月。


東京に初雪が降った朝、久世千景のもとへ一通の電報が届いた。


祖父危篤、至急帰郷セヨ。

それを読んだ千景は、いつもと変わらず笑った。


「困りましたね。祖父は昔から、俺の都合というものを考えない人で」


冗談にしては、声が少し乾いていた。


榊原清継は電報を受け取り、必要な手続きを進めた。

休暇の許可が下りるまで、千景は一度も催促しなかった。ただ、執務室の窓に積もり始めた雪を、時折じっと見つめていた。


「久世」


「はい」


「帰郷の支度をしろ。残務はこちらで引き受ける」


「ですが、中尉のお仕事が」


「上官の命令だ」


千景は目を伏せ、やがて小さく笑った。


「……中尉は、命令という言葉がお好きですね」


「便利だからな」


「優しさを隠すのに?」


清継が睨むと、千景はようやく普段の笑顔を取り戻した。


その日の夕刻、千景は会津へ発った。


*


千景の祖父の死を知らせる電報が届いたのは、それから四日後だった。


清継は報告を受けても、しばらく何も言えなかった。


久世千景という男を、まだ半年余りしか知らない。

それでも、彼が祖父の話をするときだけ、笑顔の奥に別の表情を隠すことは知っていた。


あの春、料理屋《花霞》で聞いた言葉を思い出す。


――お前は誰を守るために、その軍服を着るのか。


千景は、答えを見つけられただろうか。


「清継さん」


姉の文が訪ねてきたのは、その晩だった。


「またそんな顔をして。父上の葬儀以来ね」


「姉上には関係ありません」


「そう言うところが、父上にそっくり」


文は持参した包みを卓上に置いた。中には、清継の好物だった干菓子が入っている。


「大切な人が悲しんでいるなら、会いに行けばいいのよ」


清継は顔を上げた。


「……誰の話です」


「さあ?」


文は微笑んだ。


「あなた、昔から隠し事が下手だから」


*


千景が東京へ戻ったのは、七日後だった。


頬が少し痩せていた。


軍服は相変わらず整っていたが、目の下には薄い影があり、笑うまでにほんの一拍の間があった。


「ご迷惑をおかけしました」


「構わん」


「祖父も喜んでいました。最後まで俺の軍服を褒めてくれまして」


千景は胸元に触れた。

そこには、いつもの桜の押し花が収められているはずだった。


「……最後に、何か言われたのか」


清継が尋ねると、千景の指が止まった。


「いいえ」


短い返事だった。


清継はそれ以上聞かなかった。

その沈黙を、千景がどう受け取ったのかはわからない。


ただ、その日の夕方、千景は訓練場に一人残っていた。

雪の積もった地面に、軍靴の跡が幾重にも刻まれている。


「久世」


振り向いた千景は、驚いたように目を見開いた。


「中尉。まだお帰りでは」


「それはこちらの台詞だ」


「少し、身体を動かしたくて」


千景の手は赤くなっていた。

寒さのためだけではない。何度も木銃を握り直したのだろう、掌の皮が擦り剥けている。


清継は眉を寄せた。


「もう十分だ。戻れ」


「……もう少しだけ」


「命令だ」


千景は笑おうとした。

けれど、失敗した。


「中尉」


その声は、ひどく幼かった。


「俺、間に合わなかったんです」


清継は黙っていた。


「祖父が死ぬ前に、帰れなかった」


雪が二人の肩に降り積もる。


「最後に会ったとき、喧嘩をしたんです。軍人になったことを後悔していないかと聞かれて、俺は……そんなことを聞くなと怒ってしまった」


千景は俯いた。


「本当は、少し怖かっただけなのに」


その肩が震えた。

清継は手を伸ばしかけ、躊躇った。


上官が部下にかけるべき言葉なら、いくらでも知っている。


励まし。慰労。叱咤。


だが、今この青年に必要な言葉を、清継はひとつも知らなかった。


「……千景」


名前が、自然に零れた。

千景が顔を上げる。

清継自身も驚いていた。


これまで一度も、そう呼んだことはなかった。


「泣いていい」


その言葉に、千景の表情が歪んだ。


「……命令ですか」


「ああ」


清継は、今度こそ手を伸ばした。

冷え切った頬に触れると、千景は目を閉じた。


「命令だ」


次の瞬間、千景が清継の胸に額を押しつけた。

声を殺して泣く青年を、清継は抱き締めた。


軍服の厚い布越しにも、彼の身体が震えているのがわかった。

清継はその背をゆっくり撫でた。


まるで、壊れやすいものを扱うように。


*


雪が弱まった頃、清継は千景を自宅へ連れ帰った。


濡れた外套を脱がせ、火鉢の前に座らせる。千景は恐縮していたが、抵抗する気力もないらしかった。


「中尉は、誰にでもこんなに親切なんですか」


「お前は以前も似たようなことを聞いたな」


「気になるので」


清継は温めた茶を差し出した。


「……誰にでもではない」


千景は湯呑みを受け取ったまま、動かなくなった。

火鉢の炭が、小さく爆ぜる。


「それは、期待してもいいという意味ですか」


冗談めかした問いだった。

けれど、その目は少しも笑っていなかった。


清継は答えられない。

代わりに、千景の頬に残っていた涙の跡を親指で拭った。


千景の呼吸が止まる。


近かった。


吐息が触れそうなほど。


「……清継さん」


初めて呼ばれた名前が、胸の奥に沈んだ。


清継は千景の顎に指を添えた。

千景は逃げなかった。

むしろ、ほんの少しだけ顔を寄せた。


唇が触れる寸前、清継は手を離した。


「……すまない」


千景はしばらく黙っていた。

やがて、いつものように笑った。


「謝らないでください」


その笑顔が、今夜いちばん痛ましかった。


「俺、待つのは得意ですから」


清継は何も言えなかった。

ただ、千景が帰るまで火鉢の炭を絶やさなかった。


*


翌朝、清継は机の上に小さな薄紙が置かれていることに気づいた。


桜の押し花だった。

傍らには、千景の字で一言だけ。


『預かっていてください。春になったら、返していただきます』


清継はしばらくそれを見つめ、やがて軍服の内ポケットへしまった。


春になれば、返せる。


そのときは、昨夜言えなかったことも伝えられるだろう。

そう思った。


けれど、その桜が千景の手に戻ることは、二度となかった。


窓の外では、雪が静かに降り続いていた。


春はまだ、遠かった。


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