↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第一部『春を待たずに、君は征く。』  作者: 涼里
第一部 『春を待たずに、君は征く。』
PR
2/7

第一話 軍服の下の、古い傷

明治二十六年、東京。


春というものは、平等に訪れるらしい。


華族の屋敷にも、貧民窟の軒先にも、かつて敵同士だった者たちの墓にも、桜は分け隔てなく降り積もる。


けれど榊原清継は、春が嫌いだった。

散り際を美しいと褒めそやす、その無責任さが気に食わない。


「榊原中尉。新任の少尉が着任しました」


執務室に響いた声に、清継は書類から顔を上げた。


扉の前に立っていたのは、まだ少年の面影を残す青年だった。

柔らかな黒髪に琥珀色の瞳。軍服は寸分の隙もなく整えられているのに、口元には場違いなほど人懐こい笑みが浮かんでいる。


「久世千景少尉です。本日付で着任いたしました」


「榊原清継だ。ここでは階級と規律がすべてだと思え」


「承知しております」


「ならば、その笑みは何だ」


「生まれつきです」


清継の眉が動いた。


「……ふざけているのか」


「いいえ。母にもよく叱られますが、直らないもので」


廊下で誰かが咳き込んだ。

清継は無言で人事書類に視線を落とす。


久世千景。二十二歳。福島県出身。士官学校卒業。成績優秀。射撃、地図判読ともに良好。


そして、家族欄の末尾。

旧会津藩士の家系。


清継の指が止まった。


「……会津か」


「はい」


千景の笑みが、ほんのわずかに薄くなる。


「何か問題でも」


「いや」


清継は書類を閉じた。


「ここでは出自に意味はない。お前は帝国陸軍の少尉だ」


「そうですね」


その返答が、妙に静かだった。


「軍服を着れば、皆同じですから」


清継は初めて、青年の笑顔がひどく上手な嘘であることに気づいた。


*


久世千景という男は、実に厄介だった。


仕事はできる。命令にも従う。兵たちへの態度も分け隔てがなく、着任から三日で古参の下士官にまで名前を覚えられていた。


問題は、余計なことを考える点にある。


「なぜ、この経路を使うのですか」


訓練計画を前に、千景が尋ねた。


「規定だからだ」


「ですが、雨が降れば南側の道はぬかるみます。負傷者の搬送を想定するなら、北側のほうが」


「少尉」


清継の声が低くなる。


「命令には従え」


「はい。ですが、命令の理由を理解しておけば、想定外の事態にも対応できます」


正論だった。

だからこそ腹立たしい。


「貴様は口が減らんな」


「よく言われます」


「誰にだ」


「母と、祖父に」


そのとき、千景の胸元から小さな紙片が落ちた。

清継が拾い上げると、それは古びた桜の押し花を挟んだ薄紙だった。


「……これは」


千景の表情が変わった。


「お返しください」


初めて聞く、硬い声だった。


清継は黙って差し出す。千景は受け取ると、折り目を確かめるように指先でなぞった。


「祖父から貰ったものです」


「そうか」


「会津の桜なんですよ」


千景は微笑んだ。


「祖父は、春になると決まって言うんです。桜は嫌いだ、と」


清継は答えられなかった。

父も、同じことを言っていたからだ。


*


その夜、清継は料理屋《花霞》にいた。

女将の八重が燗酒を置き、呆れたように笑う。


「また難しいお顔をなさって。軍のお偉いさんは、そんなに眉間へ皺を寄せなきゃいけないんですか」


「放っておいてくれ」


「はいはい。そういえば、今日は可愛らしい軍人さんがいらしてね」


嫌な予感がした。


「榊原中尉をご存じかって。ずいぶん熱心にお尋ねでしたよ」


「……久世か」


「まあ、お知り合い?」


「部下だ」


「へえ。あの子、あなたとは正反対ねえ」


八重は楽しそうに笑った。


「でも、少し似てるわ」


「どこが」


「笑うのが下手なところ」


清継が反論する前に、引き戸が開いた。


「こんばんは。あれ、榊原中尉」


噂をすれば何とやら。

千景は清継を見つけるなり、ぱっと顔を明るくした。


「奇遇ですね」


「貴様、俺を探していたのではないのか」


「おや。ばれました?」


悪びれもしない。

千景は八重に酒を頼み、当然のように隣へ腰を下ろした。


近い。

肩が触れそうな距離だった。


「何の用だ」


「謝罪を」


「何について」


「昼間の態度です。祖父の話になると、どうも余裕がなくなりまして」


千景は盃を両手で包んだ。


「祖父は昔、会津で戦いました。負けた側です」


清継は黙って聞いていた。


「でも、祖父は新しい世を憎んでばかりいたわけじゃありません。俺が軍人になると言ったときも、反対しませんでした」


「立派な方だな」


「ええ。ただ、一度だけ聞かれました」


千景が顔を上げる。


「お前は誰を守るために、その軍服を着るのか、と」


店の奥で、時計が鳴った。


「……それで、何と答えた」


「まだ答えていません」


千景は困ったように笑う。


「答えを探しに来たんです。ここへ」


清継は盃を置いた。


この男は危うい。


規律に従いながら、その内側にあるものを疑う。

誰かを守るためなら、自分の身を危険に晒すことさえ躊躇わないだろう。


軍人としては、あまりにも優しすぎる。


「久世」


「はい」


「軍人がすべてを守れると思うな」


千景はしばらく清継を見つめていた。


「……中尉は、何かを守れなかったんですか」


清継の手が止まる。

誰にも触れられたことのない傷を、見知らぬ指でなぞられたようだった。


「口を慎め」


「申し訳ありません」


千景は素直に頭を下げた。


けれど、その目には恐れではなく、ひどく静かな悲しみがあった。


*


帰り道、雨が降り始めた。

千景は傘を持っていなかった。


「入れ」


清継が傘を差し出すと、千景は目を丸くした。


「よろしいんですか」


「風邪を引かれて勤務に支障が出ては困る」


「中尉はお優しいですね」


「違う」


「では、そういうことにしておきます」


千景が笑う。

狭い傘の下で、二人の肩が触れた。


清継は離れようとしたが、千景が濡れぬよう傘を傾けると、今度は自分の肩が雨に晒された。


「中尉」


「何だ」


「肩、濡れてますよ」


「構わん」


「俺は構います」


千景はそう言って、清継の袖をそっと引いた。


軍服越しに伝わる指先の熱が、妙に鮮明だった。


清継はその手を振り払えなかった。


「……久世」


「はい」


「お前は、誰にでもそうなのか」


「何がです?」


「……いや」


千景は少し考え、それから悪戯っぽく笑った。


「中尉にだけ、ということにしておきましょうか」


清継は返事をしなかった。


雨音が二人の沈黙を包んでいた。


別れ際、千景が振り返る。


「榊原中尉」


「何だ」


「春は、お好きですか」


唐突な問いだった。

清継は、桜の押し花を思い出す。


「嫌いだ」


千景は少しだけ寂しそうに笑った。


「……俺もです」


それきり青年は雨の向こうへ消えた。


清継はしばらく、その背中を見送っていた。


後年、彼は幾度となくこの夜を思い出すことになる。


なぜ、あのとき引き止めなかったのか。

なぜ、もう一度名前を呼ばなかったのか。


けれど、まだ二十四歳だった清継は知らない。


いつか自分が、この男のいない春を、十九度も数えることになるなど。


そして千景もまた、知らなかった。

自分が最後に書く手紙の宛名が、この不器用な上官の名前になることを。


――明治二十六年、春。


二人の恋は、まだ始まってさえいなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。