第一話 軍服の下の、古い傷
明治二十六年、東京。
春というものは、平等に訪れるらしい。
華族の屋敷にも、貧民窟の軒先にも、かつて敵同士だった者たちの墓にも、桜は分け隔てなく降り積もる。
けれど榊原清継は、春が嫌いだった。
散り際を美しいと褒めそやす、その無責任さが気に食わない。
「榊原中尉。新任の少尉が着任しました」
執務室に響いた声に、清継は書類から顔を上げた。
扉の前に立っていたのは、まだ少年の面影を残す青年だった。
柔らかな黒髪に琥珀色の瞳。軍服は寸分の隙もなく整えられているのに、口元には場違いなほど人懐こい笑みが浮かんでいる。
「久世千景少尉です。本日付で着任いたしました」
「榊原清継だ。ここでは階級と規律がすべてだと思え」
「承知しております」
「ならば、その笑みは何だ」
「生まれつきです」
清継の眉が動いた。
「……ふざけているのか」
「いいえ。母にもよく叱られますが、直らないもので」
廊下で誰かが咳き込んだ。
清継は無言で人事書類に視線を落とす。
久世千景。二十二歳。福島県出身。士官学校卒業。成績優秀。射撃、地図判読ともに良好。
そして、家族欄の末尾。
旧会津藩士の家系。
清継の指が止まった。
「……会津か」
「はい」
千景の笑みが、ほんのわずかに薄くなる。
「何か問題でも」
「いや」
清継は書類を閉じた。
「ここでは出自に意味はない。お前は帝国陸軍の少尉だ」
「そうですね」
その返答が、妙に静かだった。
「軍服を着れば、皆同じですから」
清継は初めて、青年の笑顔がひどく上手な嘘であることに気づいた。
*
久世千景という男は、実に厄介だった。
仕事はできる。命令にも従う。兵たちへの態度も分け隔てがなく、着任から三日で古参の下士官にまで名前を覚えられていた。
問題は、余計なことを考える点にある。
「なぜ、この経路を使うのですか」
訓練計画を前に、千景が尋ねた。
「規定だからだ」
「ですが、雨が降れば南側の道はぬかるみます。負傷者の搬送を想定するなら、北側のほうが」
「少尉」
清継の声が低くなる。
「命令には従え」
「はい。ですが、命令の理由を理解しておけば、想定外の事態にも対応できます」
正論だった。
だからこそ腹立たしい。
「貴様は口が減らんな」
「よく言われます」
「誰にだ」
「母と、祖父に」
そのとき、千景の胸元から小さな紙片が落ちた。
清継が拾い上げると、それは古びた桜の押し花を挟んだ薄紙だった。
「……これは」
千景の表情が変わった。
「お返しください」
初めて聞く、硬い声だった。
清継は黙って差し出す。千景は受け取ると、折り目を確かめるように指先でなぞった。
「祖父から貰ったものです」
「そうか」
「会津の桜なんですよ」
千景は微笑んだ。
「祖父は、春になると決まって言うんです。桜は嫌いだ、と」
清継は答えられなかった。
父も、同じことを言っていたからだ。
*
その夜、清継は料理屋《花霞》にいた。
女将の八重が燗酒を置き、呆れたように笑う。
「また難しいお顔をなさって。軍のお偉いさんは、そんなに眉間へ皺を寄せなきゃいけないんですか」
「放っておいてくれ」
「はいはい。そういえば、今日は可愛らしい軍人さんがいらしてね」
嫌な予感がした。
「榊原中尉をご存じかって。ずいぶん熱心にお尋ねでしたよ」
「……久世か」
「まあ、お知り合い?」
「部下だ」
「へえ。あの子、あなたとは正反対ねえ」
八重は楽しそうに笑った。
「でも、少し似てるわ」
「どこが」
「笑うのが下手なところ」
清継が反論する前に、引き戸が開いた。
「こんばんは。あれ、榊原中尉」
噂をすれば何とやら。
千景は清継を見つけるなり、ぱっと顔を明るくした。
「奇遇ですね」
「貴様、俺を探していたのではないのか」
「おや。ばれました?」
悪びれもしない。
千景は八重に酒を頼み、当然のように隣へ腰を下ろした。
近い。
肩が触れそうな距離だった。
「何の用だ」
「謝罪を」
「何について」
「昼間の態度です。祖父の話になると、どうも余裕がなくなりまして」
千景は盃を両手で包んだ。
「祖父は昔、会津で戦いました。負けた側です」
清継は黙って聞いていた。
「でも、祖父は新しい世を憎んでばかりいたわけじゃありません。俺が軍人になると言ったときも、反対しませんでした」
「立派な方だな」
「ええ。ただ、一度だけ聞かれました」
千景が顔を上げる。
「お前は誰を守るために、その軍服を着るのか、と」
店の奥で、時計が鳴った。
「……それで、何と答えた」
「まだ答えていません」
千景は困ったように笑う。
「答えを探しに来たんです。ここへ」
清継は盃を置いた。
この男は危うい。
規律に従いながら、その内側にあるものを疑う。
誰かを守るためなら、自分の身を危険に晒すことさえ躊躇わないだろう。
軍人としては、あまりにも優しすぎる。
「久世」
「はい」
「軍人がすべてを守れると思うな」
千景はしばらく清継を見つめていた。
「……中尉は、何かを守れなかったんですか」
清継の手が止まる。
誰にも触れられたことのない傷を、見知らぬ指でなぞられたようだった。
「口を慎め」
「申し訳ありません」
千景は素直に頭を下げた。
けれど、その目には恐れではなく、ひどく静かな悲しみがあった。
*
帰り道、雨が降り始めた。
千景は傘を持っていなかった。
「入れ」
清継が傘を差し出すと、千景は目を丸くした。
「よろしいんですか」
「風邪を引かれて勤務に支障が出ては困る」
「中尉はお優しいですね」
「違う」
「では、そういうことにしておきます」
千景が笑う。
狭い傘の下で、二人の肩が触れた。
清継は離れようとしたが、千景が濡れぬよう傘を傾けると、今度は自分の肩が雨に晒された。
「中尉」
「何だ」
「肩、濡れてますよ」
「構わん」
「俺は構います」
千景はそう言って、清継の袖をそっと引いた。
軍服越しに伝わる指先の熱が、妙に鮮明だった。
清継はその手を振り払えなかった。
「……久世」
「はい」
「お前は、誰にでもそうなのか」
「何がです?」
「……いや」
千景は少し考え、それから悪戯っぽく笑った。
「中尉にだけ、ということにしておきましょうか」
清継は返事をしなかった。
雨音が二人の沈黙を包んでいた。
別れ際、千景が振り返る。
「榊原中尉」
「何だ」
「春は、お好きですか」
唐突な問いだった。
清継は、桜の押し花を思い出す。
「嫌いだ」
千景は少しだけ寂しそうに笑った。
「……俺もです」
それきり青年は雨の向こうへ消えた。
清継はしばらく、その背中を見送っていた。
後年、彼は幾度となくこの夜を思い出すことになる。
なぜ、あのとき引き止めなかったのか。
なぜ、もう一度名前を呼ばなかったのか。
けれど、まだ二十四歳だった清継は知らない。
いつか自分が、この男のいない春を、十九度も数えることになるなど。
そして千景もまた、知らなかった。
自分が最後に書く手紙の宛名が、この不器用な上官の名前になることを。
――明治二十六年、春。
二人の恋は、まだ始まってさえいなかった。




