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第一部『春を待たずに、君は征く。』  作者: 涼里
第一部 『春を待たずに、君は征く。』
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第六話 春を待たずに、君は征く

明治二十八年、二月。


久世千景が戦死したという知らせは、雪の日に届いた。


榊原清継は、その朝も普段と変わらず執務室にいた。


机上には軍務報告書が積まれ、窓の外では細かな雪が降っている。

千景が出征してから五か月。清継は彼のいない日々を、書類の枚数と届いた手紙の数で測るようになっていた。


十一通。


最後の手紙には、こうあった。


『清継さん。こちらの冬は骨身に沁みます。あなたの小言が恋しいなどと書けば、帰国後に叱られるでしょうか』


清継は、その一文を何度も読み返した。


「……馬鹿者」


叱るに決まっている。


帰ってきたら、まず無事を確かめ、それから嫌というほど説教してやるつもりだった。


扉が叩かれたのは、そのときだった。


「榊原中尉。久世少尉に関する報告が」


差し出された書類には、見慣れた名前があった。


久世千景。


戦死。


清継は、その二文字を理解できなかった。


「……詳細は」


「輸送任務中、敵襲を受けたとのことです。遺体の確認は困難だったようで」


「確認できていないのか」


「はい。ただ、現地からの報告では」


「確認できていないのなら、戦死と断定するな」


声が、思いのほか鋭く響いた。

部下が息を呑む。


清継はゆっくり書類を置いた。


「……すまない。下がってくれ」


扉が閉まる。

静寂が戻った。


清継は机の引き出しを開け、千景から届いた手紙を取り出した。


『また、春に』


出征の日、声にならなかった言葉。

清継は便箋を握り締めた。


「……命令しただろう」


帰ってこい、と。あれほど何度も。


「千景……」


名前を呼んでも、返事はなかった。


*


その日の夕刻、清継は《花霞》を訪れた。


八重は何も聞かなかった。

ただ、いつもの席に燗酒を置き、静かに頭を下げた。


「久世さんのこと、聞きました」


清継は盃を見つめた。


「……あいつは、約束を破る男ではない」


「ええ」


「必ず帰ると言った」


「ええ」


「俺は……」


そこで言葉が途切れた。

八重は黙っていた。


清継は酒を飲もうとして、できなかった。

千景が隣にいない。


いつもなら勝手に座り、くだらない冗談を言い、清継の眉間の皺を数える男がもう、どこにもいない。


「……八重さん」


「はい」


「俺は、あいつに何もしてやれなかった」


八重は首を振らなかった。

慰めもしなかった。


ただ、静かに答えた。


「でも、あの子は幸せそうでしたよ」


清継は顔を上げた。


「出征前夜、ここで笑っていたでしょう。あんな顔、私は初めて見ました」


八重は目を伏せた。


「人は、幸せだったからこそ、死ぬのが怖くなるんでしょうね」


清継は、ようやく盃を置いた。


*


三日後、清継のもとに一人の軍医が訪れた。


篠塚宗一郎。

戦地から一時帰還したという若い軍医は、疲れた顔で敬礼した。


「久世少尉の件で、お話があります」


清継は椅子を勧めた。


「遺体は」


「……確認されていません」


「では、なぜ戦死と」


宗一郎は答えなかった。

代わりに、一枚の記録を差し出した。


そこには、千景の所属していた輸送隊の移動経路が記されている。


「久世少尉は、最後の報告地点で負傷者の搬送を指揮していました」


清継の目が細くなる。


「搬送経路が変更されている」


「はい」


「誰の命令だ」


宗一郎は一瞬、躊躇った。


「……黒田宗吾殿です」


清継の脳裏に、六月の会議室が蘇る。


――覚えておきましょう。


あの薄い笑み。

清継は記録を握り締めた。


「久世は、命令に従ったのか」


「それは……」


宗一郎は視線を落とした。


「私には、わかりません」


その答えは、嘘ではなかった。

けれど、すべてでもなかった。


*


夜、清継は一人で千景の部屋を訪れた。


遺品はまだ戻っていない。


机の上には、出征前に置いていった古い書物が一冊。

その間から、薄紙が落ちた。


桜の押し花だった。


清継は息を呑んだ。

春に返した、あの桜。


千景は出征前、同じ花から一片を分け、ここへ残していたのだ。


薄紙の裏には、小さな文字があった。


『春になったら、また返してください』


清継はその場に膝をついた。


「……千景」


喉の奥が焼けるように痛んだ。


「お前は、いつも……」


約束ばかり残していく。

守れるはずのない約束を。


清継は押し花を胸に抱き、初めて声を殺して泣いた。


*


翌朝、一通の手紙が届いた。


差出人の名はない。

封筒には、戦地から転送されたことを示す印が残っていた。


清継は不審に思いながら封を切った。

中には、見慣れた筆跡の便箋が一枚。


『清継さんへ』


千景の字だった。


震える指で、続きを読む。


『この手紙を読む頃、あなたはきっと怒っているでしょう。約束を破ったと、叱っているでしょうね』


清継の呼吸が止まった。


『でも、どうか許してください。俺は、あなたに生きていてほしい』


そして、最後の一文。


『どうか、俺を探さないでください』


清継は便箋を裏返した。

日付があった。


明治二十八年二月十七日。


千景の戦死が報告された、その翌日だった。


「……馬鹿な」


清継は立ち上がった。

窓の外では、雪が降り続いている。


「生きている……?」


そう呟いた瞬間、胸の奥で何かが動いた。


希望だった。

同時に、恐怖でもあった。


なぜ、千景は自分を探すなと書いたのか。

なぜ、死んだはずの男が手紙を書けたのか。


そして、誰がこの手紙を届けたのか。


清継は机の上に、死亡報告書と手紙を並べた。

二つの日付を見比べる。


そのとき、あることに気づいた。


死亡報告書には、千景の遺体を確認した者の署名がなかった。


清継は静かに目を閉じた。

そして、もう一度だけ手紙を読んだ。


『どうか、俺を探さないでください』


「……断る」


声は、驚くほど冷静だった。


「俺は、お前の上官だ」


清継は軍服の襟を正した。


「命令違反をした部下を、放っておけるか」


窓の向こうで、雪が風に舞い上がった。


春は、まだ遠い。

けれど清継は、初めてその春を待つことをやめた。


久世千景は、本当に死んだのか。

それとも、死んだことにされたのか。


答えを知る者たちは、まだ誰も口を開かない。


ただ一人、遠い戦地で負傷した若い兵士が、病床で繰り返し同じ名を呼んでいた。


「……久世少尉」


藤堂朔。


二十五歳。

彼は、千景が最後に生きていた場所を知っていた。


そして、その場所で何が起きたのかも。


――第一部・完。


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