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抱き合え、幾百万よ(下巻)

## 第二部 NHKホール


### 第十三章 波紋


 あの夜――鳴りやまない拍手の、真ん中で、俺は、確かに、最高の瞬間の中に、いた。


 なのに。


 その、津波みたいな拍手を、全身で浴びながら、俺の胸の、いちばん奥に、小さな、小さな棘が、ちくりと、刺さったのだ。


 この拍手は、なんの拍手だ?


 "あんなに下手だった素人が、こんなに頑張って、感動的だ"――そういう、拍手じゃ、ないか?


 俺たちの音楽そのものが、すごかったんじゃない。俺たちの、"物語"が、すごかっただけなんじゃないか。同情と、驚きと、健気さへの、拍手。……"感動的な、素人"。その檻の中の、拍手。


 二千人を、満席にした。最後まで、演奏した。詩織は、手を止めなかった。誓いは、全部、叶えた。……なのに、なんで、こんな棘が、刺さるんだろう。俺は、まだ、その棘の、正体を、知らなかった。


 大貝ホールの解体は、本番の一週間後に、始まった。


 本番から二週間後、俺は、その前に立っていた。フェンスの向こうで、重機のアームが、あの箱の壁を、少しずつ、崩していた。四十年、二千人ぶんの静けさをためこんでいた建物が、外側から、一枚ずつ、剥がされていく。あの夜、満席の熱で震えた天井は、もう、半分、空だった。


 変な気分だった。約束は、全部、果たしたはずなのに――胸の棘は、二週間たっても、抜けないままだった。


「須賀くん」


 声に振り返ると、詩織が立っていた。息が、少し、上がっていた。走ってきたらしい。


「学校で、大騒ぎになってるよ。……桃井さんが、探してた」


「なんかあったのか?」


 詩織は、スマホの画面を、俺に見せた。


 動画サイトだった。タイトルは、《楽譜が読めない高校生たちの、最後のブラームス》。再生回数の数字を見て、俺は、目を疑った。


 三百万回を、超えていた。


「……は?」


「見学会に来ていた人が、本番も撮って、上げたみたいで」詩織は、困ったような、けれど、少し嬉しそうな顔をしていた。「コメント、すごいの。……泣いた、とか。勇気をもらった、とか」


 俺は、その、途方もない数字を、しばらく、見つめていた。


 三百万人。あの日、二千人だった俺たちの音が、三百万人に、届いていた。


 なのに、俺の胸の棘は、なぜか、その数字を見て、もっと、深く、刺さった。


 その夜、部室に、一本の電話が、かかってきた。


 埃をかぶった、あの黒い電話。桃井が取って、二言、三言、話して、それから、受話器を手で押さえて、俺を見た。その顔が、これまで見たことないくらい、真っ白だった。


「……律。あんた宛て」桃井の声が、震えていた。「N響の、事務局から」


「エヌ、きょう?」


「NHK交響楽団」白瀬が、めずらしく、素っ頓狂な声を上げた。「……日本で、いちばん有名な、オーケストラですけど」


 俺は、受話器を、受け取った。


 電話の向こうの、落ち着いた男の声は、桐生、と名乗った。桐生玄。……その名前は、音楽をまるで知らない俺でも、どこかで聞いたことがあった。テレビの、正月の番組。世界を回る、日本人指揮者。いわゆる、マエストロ、というやつだ。


「君たちの演奏を、見たよ」


 桐生さんの声は、静かだった。感情が、うまく読めなかった。


「単刀直入に言おう。プロの世界ではな、ホールの日付というのは、二年も前に決まる。私は、再来年の春――一年と四か月後の、NHKホールに、特別演奏会の枠を、一つ、持っている。日付だけが決まっていて、中身は、まだ白紙だ。……何を懸けるべきか、ずっと、探していた」


 受話器の向こうで、間が、あった。


「曲は――ベートーヴェンの、交響曲第九番。それを、その枠で、やる」


 第九。


 俺の頭の中で、累の声が、鳴った。巨人。ベートーヴェン。歓喜の歌。詩織の声も、鳴った。いつか、本物の、歓喜の歌を。


「その第九を」桐生さんは、続けた。「君たちの、あのやり方で――やってみないか」


 俺は、受話器を握ったまま、何秒か、言葉を、失った。


 NHKホール。第九。マエストロ。……あまりに、現実感が、なかった。


「……なんで、俺たちなんですか」俺は、やっと、それだけ聞いた。「本物のオーケストラが、いるのに」


 電話の向こうで、桐生さんが、ふっと、笑ったのが、分かった。


「いい質問だ」低い声だった。「その答えは、稽古場で、話そう。……ああ、それと、須賀くん。一つだけ、先に言っておく」


「はい」


「あの動画の、二千人の拍手。……あれに、少し、酔っているんじゃないか?」


 俺の、胸の棘が、ずきりと、疼いた。


「あれは、いい演奏だった。感動的だった。……だが、"感動的"と"素晴らしい"は、違う」桐生さんの声が、初めて、少しだけ、鋭くなった。「君たちが本物になれるかどうかは、ここから、決まる。……逃げないなら、来なさい」


 電話が、切れた。


 俺は、しばらく、受話器を、握っていた。


 ――酔っているんじゃないか。


 その一言が、俺の棘の、いちばん痛いところを、正確に、突いていた。あの人は、電話越しに、一度も演奏を生で聴いていないのに、俺が何にもやもやしているのか、たった一言で、言い当てた。さすが、本物、ということなんだろう。


「……律?」桃井が、恐る恐る、聞いた。「なんて?」


 俺は、部室を、見回した。


 鬼頭が、壁にもたれて、腕を組んでいた。累が、目を、きらきらさせていた。海老名が、卵の顔で、じっと待っていた。白瀬が、眼鏡を押し上げた。鯨井が、なぜかもう、シャツに手をかけていた。春名が、不安そうに、俺を見ていた。詩織が、まっすぐ、俺を見ていた。


 俺は、大きく、息を吸った。


「……第九、やらないか。NHKホールで」


 部室が、爆発する――かと思った。


 だが、みんなの反応は、意外なほど、静かだった。


「……マジで、言ってる?」鯨井が、めずらしく、真顔だった。「NHKホールって、あれだろ。テレビでやってる、すげえとこだろ。……俺たちが? 素人が?」


「三千八百席、あります」白瀬が、静かに言った。「大貝ホールの、ほぼ二倍です。しかも第九は、四十五分じゃ、終わりません。……七十分。それを、一音のミスも許されない、僕たちの奏法で、通すんです」


 部室の空気が、一気に、重くなった。


 大貝ホールとは、桁が、違う。相手は、日本一のオーケストラの、舞台。曲は、あの、巨人が、耳を失いながら書いた、最高傑作。


「……それに」詩織が、ぽつりと言った。うつむいていた。「第九には、合唱が要る。それに――ソリストも、大編成のオーケストラも。あれは、ブラームス以上に、"完璧な合奏"を要求する曲なの。わたしたちの、穴だらけのやり方で、あの曲を汚したら」


 彼女は、そこで、言葉を、切った。


 ――巨人を、汚したら。


 誰も、口を、利かなかった。俺の棘とは、別の種類の、怖さが、部室に、満ちていた。大貝ホールは、俺たちの、地元の、思い出の箱だった。でも、NHKホールは、違う。あそこは、本物たちの、聖域だ。


 その、重い沈黙を、破ったのは――鬼頭だった。


「上等じゃねえか」


 金髪を、かき上げて、にやりと笑った。


「巨人だろ? ベートーヴェンだろ? ドイツの、いちばんでかい奴だろ?」鬼頭は、スティックを、くるりと回した。「俺の、いちばん好きなメタルも、あいつらの国の音だ。拳を突き上げて、腹の底から、うおおって叫ぶ、あの感じ。……"歓喜の歌"ってのは、あれと、同じなんだろ? なあ、累」


「あら」累が、目を丸くした。それから、うっとりと、微笑んだ。「……ええ。そのとおりですわ、鬼頭さん。第九の第四楽章は、人類全部で、拳を突き上げる歌。あなたのメタルの、ご先祖さまですのよ」


「なら、やる理由しか、ねえだろ」鬼頭は、大太鼓を、どん、と一発、鳴らした。「怖いなら、身体に叩き込むまでやる。それだけだ。……ブラームスのときと、同じさ」


 その一発で、重かった空気が、ほんの少し、揺れた。


 春名の、小さく畳んでいた背中が、伸びた。「……わたしも、やりたい、です」蚊の鳴くような、けれど、まっすぐな声だった。「あの、歓喜の歌を。ホールのいちばん後ろまで、届く、歌で」


 白瀬が、電卓を、ぱちりと閉じた。「……本番が、再来年の春なら」眼鏡の奥で、目を、細めた。「三年の共通テストも、二次試験も、その前に、終わっています。両立の、問題は――ありません。全部、成功させます。いつも、言っているとおりに」


 鯨井が、シャツを脱いだ。「よし、やる! 意味はよく分かんねえけど、なんか、やる!」


 海老名が、ノートパソコンを、開いた。「三千八百席の残響を、計算し直します。……大貝ホールより、天井が、高い。一音の、伸び方が、変わります。面白い」


 桃井が、深い、深い、溜め息をついた。「……はいはい。分かった。書類、また、地獄なんでしょ。どうせ」


 俺は、みんなの顔を、見回した。


 怖い。桁違いに、怖い。でも――みんなの目の、いちばん奥に、あの、大貝ホールの日と、同じ火が、灯っていた。


 俺は、詩織を、見た。詩織だけが、まだ、うつむいていた。あの、手が止まる恐怖を、いちばん知っている彼女が、いちばん大きな舞台を前に、いちばん、怯えていた。


 でも、彼女は、やがて、顔を上げた。そして、少しだけ、震える声で、言った。


「……いつか、って、言ったけど」


 俺を、まっすぐ、見た。


「その"いつか"が、こんなに早く来るなんて、思ってなかった。……でも」


 彼女の、指が、膝の上で、ぎゅっと、握られた。それから、ゆっくり、ほどけた。


「やる。わたしの、この震える手で。……あの巨人に、こんなわたしたちで、挑む」


 その週のうちに、部室で、恒例の"授業"が開かれた。教材は、ベートーヴェン、交響曲第九番。教えるのは、ブラームスのときと同じ、詩織、白瀬、春名の三人だ。


「まず、数字から」白瀬が、ノートを開いた。「全体で、約七十分。ブラームスより、二十五分、長い。楽章は四つ。第四楽章には、独唱と、合唱が入ります。……ここまでで、質問は」


「長え」と鯨井。


「感想です、それは」


「第一楽章は……"無"から、始まるの」詩織が、ピアノの前で、静かに言った。「空っぽの、震えだけが、ずっと、鳴っていて。何の曲かも、まだ、分からない。そこから――雷が落ちてくるみたいに、主題が、叩きつけられる。宇宙が生まれる瞬間を、音にしたみたいだ、って、よく言われてる」


「第二楽章は、たぶん、鬼頭くんが、いちばん喜びます」と白瀬。「嵐みたいに疾走するスケルツォで……ティンパニが、ほとんど、主役です。楽章の途中で、太鼓が、たった一人で、オーケストラ全員に、殴り込みをかけます」


「あ?」鬼頭が、目を見開いた。「二百年前のクラシックで、太鼓が、主役?」


「初演のとき、そこで拍手が起きた、という記録があります。二百年前の聴衆も、たぶん、あなたと同じ顔をしたんだと思います」


「第三楽章は……」春名が、そっと言った。「ベートーヴェンが書いた中で、いちばん、きれいな祈りだと、わたしは思います。ゆっくりで、静かで、終わらないでほしくなる……正直、ここで寝ちゃうお客さんも、います。でも、この長い静けさがあるから、最後の楽章が、爆発するんです」


「そして、第四楽章」詩織の声が、少し、変わった。「……変な楽章なの。冒頭で、低い弦が、まるで人間が喋るみたいに――第一楽章のテーマも、第二楽章のテーマも、第三楽章のテーマも、"違う。こんな音じゃない"って、順番に、突っぱねていく。自分で書いた音楽を、自分で、否定していくの」


「で、全部、断ったあとに、どうなるんだ?」


 詩織は、答える代わりに、鍵盤を、そっと、押した。


 あの旋律だった。たぶん、日本でいちばん、十二月に流れる、あの。


「――歓喜の主題が、いちばん低い、チェロとコントラバスから、ささやくみたいに、生まれてくるの。最初は、伴奏さえ、ついていない。裸の、旋律だけ。それが、一回りするたびに、仲間を増やして、大きくなっていって……最後には、楽器だけじゃ足りなくなって、人の声が、加わる。交響曲に人の声を入れるなんて、当時、誰もやったことが、なかったのに」


「……つまり」海老名が、ぼそりと言った。「一人の小さな歌に、一人、また一人と、乗っかっていって、最後は、全員で歌う。……僕たちの奏法と、同じ構造ですね」


 部室が、静かになった。……本当だ。誰も、言い返せなかった。二百年前の巨人は、でかい銅像なんかじゃなくて、なんだか急に、俺たちの側の人間みたいに、思えた。


「最後に、一つだけ。初演の晩のお話を、してもよろしくて?」


 累が、日傘の先を、床に、こつん、と突いた。語り部の、声だった。


「一八二四年、ウィーン。初演の舞台の上には、ベートーヴェン本人も、立っていましたの。もう、耳は、ほとんど、聞こえていないのに。……演奏が終わって、客席が、割れるような大喝采になっても、彼には、それが、聞こえなかった。楽譜を見つめたまま、背中の嵐に、気づかなかったんですのよ。見かねた歌手の一人が、彼の袖を引いて、そっと、客席のほうへ、振り向かせた。――そこで初めて、彼は、見たんですの。音のない、嵐みたいな、満場の拍手を」


 部室の、誰も、口をきかなかった。


 ――音を、失くした男が、書いた、歓喜の歌。


 俺の頭の中で、いつかの立花さんの声が、遠く、重なった。二百年も前に、だんだん耳が聞こえなくなっていく男が書いた曲でな――あの日、誰もいないホールで、詩織が弾いていた"悲愴"。あれを書いた男の、最後の交響曲に、俺たちは、これから、挑むのだ。


 こうして、俺たちの、ベートーヴェンが、始まった。


 巨人の、足音が、鳴るほうへ。


 ――だが、このときの俺たちは、まだ、知らなかった。


 いちばん最初に俺たちを打ちのめすのが、冷笑でも、重圧でも、あの巨人でもなく――"良かれと思って差し伸べられた、プロの手"だということを。



### 第十四章 四月の音


 春が来て、俺たちは、三年生になった。


 例の動画のせいで、花森高校管弦楽部は、いまや校内でいちばん有名な部活になっていた。新入生歓迎の時期、部室の前には、見物の一年生が、ぽつぽつと立つようになった。もっとも、大半は「あの動画の人たちだ」と写真を撮って、帰っていくだけだったけれど。


 そんな四月の、最初の週に、あの二人は来た。


 一人目は、まっすぐ、部室のドアを開けて、入ってきた。


 小柄な、一年生の女子だった。短い髪。物怖じというものを知らない、まっすぐな目。彼女は、部室をぐるりと見回して、俺の前に立ち、口を開いた。


「入部希望です。蓮見響。打楽器を、やりたいです」


 その声は、どこか、不思議な響き方をする声だった。はっきりしているのに、抑揚が、少し、平らな。しゃべりながら、両手が、言葉に合わせて、小さく、動いていた。


「お、おう。ようこそ」


「先に、言っておきます」彼女は、自分の耳を、指差した。「わたしの耳は、ほとんど、聞こえません」


 部室が、静まり返った。


 ――ああ、なるほど、と、俺は納得した。聾唖者独特の、手話を交えた話し方だったんだ。


「生まれつきです。補聴器をつけて、ようやく、大きい音の"気配"が分かるくらい。人の話は、唇を読みます。だから、こっちを向いて、ゆっくり話してもらえると、助かります」響は、事務連絡みたいに、すらすらと言った。たぶん、人生で何百回も、繰り返してきた説明なんだろう。


「……で、ここからが、本題です」


 彼女は、息を吸った。


「十一月十六日。大貝ホールの、最後の夜。わたし、客席に、いました」


 俺は、目を見開いた。


「祖母に、連れられて。……正直、期待してませんでした。コンサートなんて、わたしには、関係のない場所だから。音楽は、聞こえる人だけのものだから。ずっと、そう思って、生きてきたので」響の目が、少しだけ、揺れた。「でも、あの夜。あなたたちの音が、鳴った瞬間――床が、震えたんです」


 床が、震えた。


「椅子の背もたれも、胸の真ん中も、震えました。特に、大太鼓と、チューバと、いちばん低い音たち。あれは、耳じゃなくて、体に、来ました。わたし、生まれて初めて、音楽の中に、"入れた"んです」響は、まっすぐ俺を見た。「あの夜から、ずっと考えてました。聞こえないわたしにも、あの震えの、一枚に、なれますか。……音楽は、聞こえる人だけの、ものですか」


 誰も、すぐには、答えられなかった。


 できるのか? 俺には、分からなかった。拍が聞こえないのに、一音を、置けるのか? 正直、無理だと思う気持ちが、半分。でも――「音楽は聞こえる人だけのものですか」と聞かれて、「はい」と答える資格は、楽譜も読めずにオーケストラをやってる俺たちには、どこにもなかった。


「……無理だな」


 と言ったのは、海老名だった。おい、と俺が止める前に、海老名は続けた。


「今のままでは、です。拍の情報が、彼女に届く経路がない。……つまり、経路を、作ればいい」


 卵の顔に、うっすらと、血が通っていた。……こいつ、このパターン、二回目だぞ。


「音は、空気の振動です。そして、床の振動でもある。彼女は現に、大貝ホールで、床から音楽を"聴いた"」海老名は、猛烈な速さでノートパソコンを叩き始めた。「鬼頭さんの大太鼓の足元に、板を一枚。そこから床材を伝わる振動を、彼女の立ち位置まで、殺さずに導く。補助に、光のメトロノーム。試作します。三日ください」


 三日後、部室の床に、海老名お手製の、細長い木の板が敷かれた。鬼頭が大太鼓を、ドン、と打つと、その振動が、板を伝って、離れた場所に立つ響の足の裏に、届く仕組みだった。


 響は、裸足で、その板の上に立った。鬼頭が、四つ、打った。


「――分かります」響の顔が、ぱっと、輝いた。「分かる。来てます。足から、リズムが、来てます!」


 こうして、十人目が、決まった。教育係は、成り行き上、鬼頭になった。


「言っとくけどな」鬼頭は、ぶっきらぼうに、響の手を取って、自分の大太鼓の胴に、押し当てた。そして、一発、打った。「俺のリズムは、耳で聴くもんじゃねえ。腹で食らうもんだ。……お前は最初から、正しい聴き方を、してるんだよ」


 響が、目を丸くして、それから、笑った。校内でいちばん怖がられている金髪の不良は、その日から、いちばん面倒見のいい師匠になった。


 二人目は、その翌週に来た。というか、廊下から、聞こえてきた。


「アアーー、ミダレガミィ〜〜♪」


 美空ひばりだった。物凄い声量の。


 ドアが、ばーん、と開いた。ひょろりと背の高い一年生の男子が、立っていた。彫りの深い顔、明るい栗色の髪、青みがかった目。そいつは、部室を見回して、にっと笑った。


「ハロー。キミたちが、例の、クレイジーなオーケストラ?」


「……誰だ」


「九条カール。一年。パパがドイツ人、ママが日本人。先月まで、ドイツにいた」カールは、勝手に部室に入ってきて、勝手に椅子に座った。「動画、観たヨ。ひどい演奏だった! ホントにひどかった! ……で、なんで、オレ、三回も泣いたんだろうネ? 意味わかんない。文句を言いに来た」


「文句を言いに来たのか」


「そう。あと、入部しに来た」


「どっちだよ」


 話を聞くと、こうだった。ドイツで、音楽一家に生まれた。物心つく前からバイオリンを持たされ、毎日何時間も練習させられ、コンクールに出され続けた。「クラシックはネ、オレにとって、宿題なんだヨ。皿洗いと同じ。世界でいちばん、退屈なもの」。日本に来て、いちばん感動したのは、演歌だという。「ひばりサン、ヤバい。あの"こぶし"、バッハより複雑だヨ」


「で、そんなにクラシックが嫌いなのに、なんで、うちに?」


「だから、文句を言いに来たんだって」カールは、心外そうに、眉を上げた。「キミたちの、あのブラームス。下手クソだった。音程も、リズムも、ばらばら。オレが六歳のときのほうが、上手い。……なのに、聴いてたら、涙が出た。ありえない。オレは、完璧な演奏を、何百回も聴いて育ったのに、一回も泣いたことないのに。あんな、ボロボロの演奏で泣くなんて、オレの十六年間への、侮辱だヨ」


 カールは、そこで、急に、真顔になった。


「……ネエ。なんで、オレ、泣いたと思う?」


 それは、文句というより、本物の、質問だった。答えを知りたくて、海を渡ってきた人間の目だった。


「知らねえよ」と、鬼頭が言った。「知りたきゃ、中に入って、確かめろ」


「……それ、勧誘?」


「勧誘だ」と、俺が言った。


 カールは、しばらく俺たちを見て、それから、部屋の隅の、バイオリンケースに、目を留めた。長いこと、黙っていた。やがて、観念したみたいに、息を吐いた。


「……オレ、バイオリン、弾けるヨ。めちゃくちゃ弾ける。十年、毎日やらされたからネ。大キライだけど」肩をすくめた。「でも、条件がある。オレがやるのは、クラシックじゃない。キミたちの、その、ステンドグラス? っていう、変なやつ。……あれなら、やってもいい。あれは、たぶん、宿題じゃないから」


 こうして、十一人目が決まった。弦に、白瀬に次ぐ二本目の"本物の芯"が、入った。しかも、こっちの芯は、うるさかった。


 三人目は、四月の終わりに来た。……いや、正確には、四月のあいだ、ずっと来ていた。


 部室の窓の外から、毎日、違う角度で中を覗いていく一年生が、いたのだ。ある日は鉄棒にぶら下がりながら。ある日は友達と喋りながら。ある日は、一人で、じっと。海老名が「観測十二日目です」と律儀に報告した頃、そいつは、ようやく、ドアから入ってきた。


「なー、ずっと気になってたんだけど」挨拶より先に、質問だった。「なんで、あの金髪の人の太鼓だけ、ぜったい、ずれないの? あと、床の板、あれ何? あと、ゴスロリの人は、なんで、ゴスロリなの?」


「多いよ。質問が」


 早瀬翔、一年。聞けば、入学して一か月で、陸上部と、サッカー部と、卓球部を、もう辞めていた。


「飽きたっていうか、怒られてばっかりで。……俺、ADHDってやつなんだよね」翔は、隠すでもなく、開き直るでもなく、天気の話みたいに言った。「先生とか親は、"集中力がない"って言うんだけどさ。あれ、違うんだよな。集中力が、ないんじゃなくて――全部に、集中しちゃうんだよ。教室にいると、先生の声と、窓の外の雲と、前の席の奴の貧乏ゆすりが、ぜんぶ、同じ音量で入ってくる。で、その中のいちばん面白いやつに、勝手に、体が行っちゃう」


「なるほど。で、今、いちばん面白いのが、うちだった、と」


「そう!」


 とりあえず、見学させてみて――驚いた。


 翔は、じっとしていられない。椅子に座って三分で足が揺れ、五分で立ち上がり、十分後には部室の後ろを、うろうろ歩き回っていた。……のに、その日の通し練習が終わった瞬間、こう言ったのだ。


「ねえ。三列目の、右から二番目の人、二回目の通しの、真ん中へんで、一回、ずれたよ。あと、トランペットの人、後半、ちょっとだけ音が細くなった。疲れると、背中が丸くなるんだね。あと、鈴の人。二回、鳴らし損ねて、鳴らしたフリ、してた」


 部室が、ざわっとした。鳴らしたフリをしていた鈴担当の一年が、真っ赤になった。海老名が、録音を巻き戻して、検証した。――全部、当たっていた。


「……君、歩き回りながら、全部、聞いてたのか」


「聞いてたっていうか、勝手に、入ってくるの。ぜんぶ」翔は、きょとんとしていた。「だって、四十人いたら、四十個、音がするじゃん」


 四十個の音が、ぜんぶ同じ音量で入ってくる耳。教室では地獄でしかなかったその耳は、一人が一音を預かるこの部室では――誰も持っていない、レーダーだった。


 こうして、十二人目が決まった。担当は、トライアングル、シンバル、タンバリン、鈴、その他、小物打楽器ぜんぶ。一か所にじっとしていなくていい、部室でいちばん忙しい持ち場だ。あわせて、リハーサルの"穴の見張り番"という、うちの奏法にとって、たぶん、いちばんありがたい役職が、新設された。


 ただし、翔には、この部でいちばん過酷な敵がいた。――待ち時間だ。自分の出番まで、何分も、じっとしている、あれ。三日目に、翔が正直に「死ぬ」と言ったので、海老名が、翔の紙切れに、"待ちのあいだの仕事"を書き足した。次に鳴るパートを目で追うこと。春名の背中の丸まり具合を見ること。鈴の一年を、見張ること。……つまり、待ち時間の全部が、レーダーの勤務時間になった。


「暇じゃなければ、俺、最強だから」と、本人は言った。


 カールの入部で、もう一つ、思いがけない扉が開いた。


 ある日の練習後、累が、第九の合唱の話をしていて、例の言葉を、口にしたときだった。「ザイト・ウムシュルンゲン、ミリオーネン――」


「あー! それそれ!」カールが、跳ねるように立ち上がった。「キミたち、その言葉の意味、ちゃんと知ってる? 発音じゃなくて、意味!」


「歓喜の……なんとか、ですわよね」


「違う! いや、違わないけど、そうじゃない!」カールは、もどかしそうに、頭をかきむしった。それから、部室の真ん中に立って、両腕を、思いきり、広げた。


「Seid umschlungen, Millionen! ――"抱き合え、幾百万の人々よ!"だヨ。命令形! シラーのおっさんが、二百年前に、書いたの。会ったこともない、世界中の、何百万人に向かって――全員、抱き合え! って、命令してるの!」


 カールは、腕を広げたまま、俺たちを見回した。


「クレイジーだろ? 会ったこともない奴と、抱き合えって。でもネ、ベートーヴェンは、そのクレイジーな詩に、人生の最後に、全部賭けたんだヨ。耳が聞こえない、友達も少ない、気難しくて、孤独で、しょっちゅう引っ越しばっかりしてた、あのおっさんが――最後に書いたのが、"みんな、抱き合え"。……オレ、ドイツでこの話を習ったとき、先生に言ったんだ。『それ、いちばん抱き合えなかった人の、歌ですよネ』って。怒られたけど、今でも、そう思ってる」


 部室が、静かになった。


 いちばん、抱き合えなかった人の、歌。


 響が、カールの唇を、じっと読んでいた。それから、ぽつりと言った。「……いちばん、音楽に入れてもらえなかったわたしが、その曲を、やるんだ」


「そうだヨ」カールが、にっと笑った。「最高だろ?」


 俺は、この三人が来た春を、たぶん、一生、忘れないと思う。


 そこからの一年を、全部書いていたら、それだけで本が一冊できてしまう。だから、駆け足で言う。


 詩織が、七十分の第九を、俺たち用の"特別製"に書き直すのに、三か月かかった。膨大な一音たちを、増えた仲間たち全員に配り終えるのに、また三か月。響は、足の裏と、光と、鬼頭の合図で、自分の一音を置けるようになり、カールは、「宿題じゃない」バイオリンを、生まれて初めて、楽しそうに弾いた。翔のレーダーは、秋までに、崩壊の芽を九回、事前に摘んだ(海老名調べ)。夏の終わりに、第四楽章が、初めて最後まで繋がった。秋には、第一楽章から第三楽章までが、どうにか、形になった。白瀬は契約どおり、火・木・土の九十分だけ現れて、模試のA判定を守り続けた。


 でも――どこかで、俺たちは、頭打ちだった。


 繋がる。鳴る。泣く奴もいる。……なのに、桐生さんに送る稽古の録画への返信は、いつも、短かった。


 『まだ、遠い』。


 何が、足りないのか。誰にも、分からないまま――十二月に、入った。


 二学期の、終業式の日だった。俺のスマホに、桐生さんから、電話があった。


「須賀くん。最新の録画を、観た」


「……はい」


「率直に言う。頭打ちだ。君たちのやり方だけでは、ここから先へは、行けない」


 分かっていたことでも、この人の声で言われると、腹の底が、冷えた。……でも、桐生さんの用件は、それだけじゃ、なかった。


「そこで、提案だ。冬休み、東京に、出てこられるか。うちのリハーサル室を、押さえてある。……私と、一緒に、稽古をしよう。本腰を入れて、な」


「えっ。……いいんですか」


「いいも何も、私は、本番で君たちと同じ舞台に立つ指揮者だ。当然のことを、するだけだ」電話の向こうで、かすかに、笑った気配がした。「宿は、こちらで手配する。合宿だ。……来るか、来ないか」


「行きます」


 考えるより先に、口が、動いていた。


 部室に戻って報告すると、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。鯨井は「東京!」と吠え、累は「N響のリハーサル室……聖地ですわ」と扇子を取り落とし、翔は「電車? 何線? 何分?」と質問を七個、続けた。


 カールだけが、「ふーん」と、少しだけ、顔を曇らせた。


「……プロの稽古場、ネェ。オレ、ああいう場所の匂い、よく知ってるんだよな」


 あのときの、カールの顔の意味を、俺たちは、すぐに、思い知ることになる。


 高校生活最後の冬は、そうして、東京から、始まった。



### 第十五章 完璧


 三年生の、冬休み。約束どおり、俺たちは、東京にいた。


 桐生さんが用意してくれた、リハーサル室。大貝ホールの部室が十個は入りそうな、天井の高い、真っ白な部屋。壁一面が鏡で、そこに、場違いな俺たちが、ずらりと映っていた。


 ゴスロリの累。日焼けした鯨井(すでに半裸)。金髪パーマの鬼頭。海老名が東京まで担いできた振動板の上に、裸足で立つ響。「この匂い、知ってるヨ。防音室の匂いだ」と、入った瞬間から機嫌の悪いカール。初めての東京で、朝からレーダーが鳴りっぱなしの翔。そして、その俺たちの正面に――スーツ姿の、大人たちが、座っていた。


 N響の、団員さんたちだった。


 桐生さんの、最初の計画は、こうだった。「まず、私が指揮を執る。そして、要になるパートに、うちの首席奏者を、何人か、入れる」。素人だけでは、七十分の第九は、支えきれない。だから、プロの、確かな技術を、柱として、そこに、俺たちの一音を、貼りつけていく。


 理屈は、まっとうだった。プロが加われば、もっと、いい演奏になる。誰だって、そう思う。俺も、そう思った。


「では、第四楽章の、歓喜の主題から。……鬼頭くん、リズムを」


 桐生さんが、指揮棒を、構えた。


 鬼頭が、スティックで、四つ数えた。


 ――鳴った。


 最初の、数小節で、俺は、身体が、こわばるのを感じた。


 プロの音は、桁が、違った。コンサートマスターが弾く、たった一本の弦。その一音が、俺たちの三十人ぶんより、深くて、太くて、艶があった。チェロも、フルートも、ホルンも。プロが出す一音は、俺たちが一年半かけて出せるようになった一音とは、別の、生き物だった。


 美しかった。ぞっとするほど。


 ――だから、俺たちの音が、消えた。


 寄せ集めの三十人が、そのプロの音を聴いた瞬間、萎縮したのが、分かった。自分の一音を、置くのが、怖くなったのだ。こんなにすごい音の中に、俺の、へたくそな一音を、混ぜていいのか。汚すんじゃないか。……みんなが、そう思って、音を、小さく、小さく、引っ込めた。


 春名の背中が、丸まった。白瀬の弓が、迷った。累のチェロが、いつもの堂々とした断末魔を、失った。


 カールだけは、萎縮しなかった。代わりに、あいつのバイオリンは、完璧に、正確に――つまらなく、鳴った。あとで、本人が、吐き捨てるように言っていた。「この音、知ってるヨ。ドイツの、オレの音。宿題の音だヨ」。萎縮するどころか、あいつは、十年かけて逃げてきた場所に、一瞬で、引き戻されていた。


 そして、いちばん、まずいことが、起きた。


 鬼頭のリズムと、プロの音楽が、噛み合わなかった。


 プロは、生きた音楽をやる。ほんの少し、溜めて、ほんの少し、走って、呼吸で、フレーズを歌う。だが、俺たちのステンドグラス奏法は、鬼頭の、寸分の狂いもない、機械みたいに正確なリズムが、命綱だ。そのリズムがないと、三十人の一音は、噛み合わない。


 プロの"揺れる音楽"と、鬼頭の"揺れないリズム"が、真っ向から、ぶつかった。


 鬼頭が、プロに合わせて、リズムを、揺らそうとした。その瞬間、三十人の一音が、いっせいに、崩れた。かといって、鬼頭がリズムを守れば、今度は、プロの美しいフレーズが、ぶつ切りに、なった。


 その崩れの、いちばん深いところに、響がいた。響の一音は、床を伝う、鬼頭の正確な振動が、唯一の、命綱だ。そのリズムが揺れた瞬間、足の裏に届く暗号が、読めなくなった。響は、板の上で、音を置けないまま、立ち尽くした。……せっかく"入れた"音楽から、また、閉め出されて。


「――ストップ」


 桐生さんが、指揮棒を、下ろした。


 しん、と、なった。


 完璧なはずだった。プロが、いて。マエストロが、振って。なのに、鳴っているのは、これまでで、いちばん、ちぐはぐで――そして、いちばん、生気のない音だった。


 大貝ホールのときの、下手くそだけど、みんなで笑って鳴らした、あの音。あの、震えながらも、まっすぐだった音。……それが、どこにも、なかった。


 上手く、なっていた。なのに、死んでいた。


「もう一度」桐生さんが、静かに言った。「今度は、花森の諸君。プロの音を、よく、聴いて。合わせて」


 俺たちは、もう一度、やった。合わせようと、した。プロの、艶のある音に。プロの、揺れる呼吸に。


 合わせようとするほど、俺たちの音は、縮んで、消えて、いった。


 三回目の前に、桐生さんは、指揮棒を、俺に、差し出した。


「君が、振りなさい。君たちの、いつものやり方で。私は、見ている」


 俺は、指揮台に、立った。いつもどおり、腕を、振った。大貝ホールのときと、同じように。……でも、駄目だった。


 三回目。四回目。やるほどに、ひどくなった。俺たちは、いつのまにか、"自分の一音を置く"のを、やめていた。プロの、大きな音の陰に、隠れて、鳴っているのか、いないのか、分からない、幽霊みたいな音を、出していた。


 翔のレーダーだけが、その間も、正確だった。正確に、全員の音が縮んでいくのを、拾い続けていた。四回目のあと、翔が、小さな声で、言った。「……ねえ。みんな、どんどん、ちっちゃくなってく」。誰も、返事をしなかった。分かっていたからだ。分かっていて、どうにも、できなかったからだ。


 五回目の途中で、詩織の、ピアノが、止まった。


 俺は、ひやりとした。また、あの、手の震えか。


 だが、違った。詩織を、止めたのは、彼女自身の震えじゃ、なかった。


「あの」


 プロの、コンサートマスターの人が、遠慮がちに、けれど、はっきりと、言ったのだ。


「そのピアノは……第九には、ないパートですよね。ベートーヴェンの、原譜には」その人は、悪気なく、むしろ、親切のつもりで、言った。「第九に、ピアノを入れるのは、正直、邪道です。編成が、濁る。……失礼ですが、外したほうが、いい。せっかく、本物の第九を、やるんですから」


 詩織の、顔から、すうっと、色が引いた。


 彼女のピアノは、俺たちの、背骨だった。ブラームスも、第九も、本当はピアノなんて出てこない。でも、詩織のピアノが、和声の背骨を通して、ばらばらの一音を、繋ぎとめてくれるから、俺たちは、鳴れた。あれは、俺たちが、生き延びるための、命綱だった。


 なのに、"本物の第九"の前では、それは、"邪道"だった。


 詩織は、何も、言い返せなかった。膝の上で、両手を、ぎゅっと、握って、うつむいた。あの、大貝ホールの舞台で、止まった手のように。


 その日の稽古は、そこで、終わった。


 団員さんたちが、帰ったあと、桐生さんが、俺を、廊下に、呼んだ。


「須賀くん」


 窓の外は、東京の、冷たい夜景だった。桐生さんは、それを見ながら、静かに、言った。


「君は、指揮を、勉強したことは?」


「……ないです。楽譜も、読めません」


「だろうな」桐生さんは、俺を、振り返った。その目は、冷たくは、なかった。でも、容赦も、なかった。「はっきり言おう。今日、君は、一度も、指揮を、していない。腕を、振っていただけだ」


 俺は、何も、言えなかった。


「大貝ホールの映像を、見たよ。あれは、たしかに、感動的だった。子どもたちが、必死に、腕を振る君を、信じて、ついていく。……美しい。だが、それは、指揮じゃない。あれは、"求心力"だ。君の、人柄の、勝利だ」桐生さんは、続けた。「求心力だけで、大貝ホールの、二千人は、動かせた。だが――NHKホールの、あの音楽は、動かせない。君には、まだ、音楽を、指し示す力が、ない。何も、ないんだ」


 何も、ない。


 その一言が、俺の、いちばん柔らかいところに、刺さった。


 ――そうだ。俺には、何も、ない。楽器も弾けない。楽譜も読めない。指揮も、できない。俺が、この楽団に、差し出せるものなんて、最初から、何も、なかったんじゃないか。


 俺は、その夜、東京の、安いビジネスホテルの、天井を、ずっと、見ていた。


 みんなの部屋からは、いつもの、ばか騒ぎが、聞こえてこなかった。鯨井の、でかい笑い声も。累の、芝居がかった声も。カールの、脳天気な美空ひばりも。何も。


 みんな、分かって、しまったのだ。


 プロと、並んだ瞬間、俺たちの音が、どれだけ、ちっぽけで、頼りないものか。俺たちのステンドグラスなんて、本物の光の前では、ただの、汚れた、ガラスの、破片だったってことを。


 ――やっぱり、素人には、無理だったんだ。


 その考えが、初めて、俺たち全員の胸に、本物の重さで、居座った。


 ブラームスの夜に、あんなに、繋がったのに。あんなに、まとまったのに。ベートーヴェンには、まだ、指の一本も、届いていないのに――俺たちは、いちばん低いところに、たった一晩で、叩き落とされていた。


 巨人は、まだ、指一本、動かしていない。


 俺たちは、その足元にも、たどり着けずに、勝手に、転んでいた。



### 第十六章 空席


 花森に帰ってからも、東京で落とした何かは、拾えないままだった。


 年が明けても、部室の空気は、重かった。練習を再開しても、みんな、あの日のプロの音を、思い出してしまう。自分の一音を置くたびに、"こんなの、汚いだけじゃないか"という声が、頭のどこかで鳴る。音が、縮こまる。大貝ホールの前の、あの、地雷原のそろそろ歩きが、また、戻ってきていた。


 詩織は、いちばん、ひどかった。あの日から、ピアノに、ほとんど触らなくなった。「……邪道、なんだって。わたしのピアノ」と、一度だけ、ぽつりと言って、あとは、何も言わなくなった。


 春名の背中も、また、少しずつ、小さく、畳まれていった。


 ――そんな一月の、寒い放課後だった。


 白瀬圭が、部室に来て、鞄も下ろさずに、まっすぐ、俺の前に立った。


 いつもの、几帳面な顔。だけど、その目の下に、濃い隈があった。


「須賀くん。……報告と、相談が、あります」


 俺は、なんとなく、来るべきものが来た、と思った。


「共通テストが、来週です。二次試験は、二月の終わり」白瀬は、いつもの事務連絡みたいな声で、言った。でも、その声は、ほんの少し、震えていた。「医学部の、判定は、A判定を、保っています。……でも、ここからの一か月半は、僕の、人生で、いちばん大事な時間です」


「……分かってる」


「昨日、親と、話しました」白瀬は、うつむいた。「『音楽か、受験か、どっちかにしろ』と、言われました。……正論です。反論できませんでした」


 部室が、静かになった。みんなが、白瀬を、見ていた。


「僕、本番までは、いられません」白瀬は、はっきりと、言った。「二次試験が終わるまで――一か月半、この部を、離れます」


 鯨井が、「そんな」と、声を上げかけた。俺は、手で、制した。


 白瀬の担当は、弦の"芯"だ。本物の弦の音を出せる、たった一人。白瀬が抜けたら、その一音たちは、そのまま、空く。ステンドグラスの、いちばん大事な、何枚もの硝子が、ごっそり、抜ける。


「……でも」白瀬は、そこで、顔を上げた。少しだけ、泣きそうな顔だった。「一つだけ、聞いてください。……前に、言いましたよね。時間が減ると、残った一分一分が、怖くなる。怖いと、進む、って」


「……ああ。"非論理的ですが、事実です"、ってやつだろ」


「はい。あの、続きです」白瀬は、膝の上で、握った手を、見た。それから、まっすぐ、俺を見た。


「だから、これは、"音楽を諦めて、受験を取る"んじゃ、ないんです」その声は、震えていたけれど、まっすぐだった。「この部が、僕に、くれた集中力を――今度は、受験に、全部、注ぐんです。逃げるんじゃ、ない。……勝ちに、行くんです。両方、成功させるって、約束した、から」


 誰も、何も、言えなかった。


 俺は、しばらく考えて、それから、聞いた。


「白瀬くんの、席は」


「え?」


「白瀬くんの一音の、席。……戻ってきたとき、他の誰かが、埋めてたら、嫌だろ」


 白瀬の、目が、揺れた。


「埋めないよ、俺たちは」俺は、言った。自分でも、なんで、そう言い切れるのか、分からなかった。ただ、言わずには、いられなかった。「その席は、空けとく。一か月半、ずっと。白瀬くんの、色の硝子は、白瀬くんにしか、はめられない。……代わりは、いないんだ」


 ――代わりは、いない。


 鬼頭のときと、同じ言葉だった。でも、今度は、意味が、少し違った。あのときは、抜けた人間を、連れ戻すための言葉だった。今度は、抜ける人間を、"待つ"ための言葉だった。


 白瀬は、しばらく、俺を見て、それから、眼鏡を外して、袖で、乱暴に、目を拭いた。


「……ずるいです。須賀くんは、いつも」洟をすすった。「そんなふうに言われたら、絶対に、受かって、帰ってこなきゃ、いけなくなる」


「そのつもりで、言ってる」


「……はい」白瀬は、眼鏡を、かけ直した。学年一位の、いつもの顔に、戻っていた。「必ず、受かって、帰ってきます。空けておいた席が、無駄だった、なんてことには、絶対に、しません」


 白瀬圭は、深々と、頭を下げて、鞄を持ち直した。


 そして、ドアの手前で、一度だけ、足を止めた。振り返った視線が、部室の中を、まっすぐ、探して――詩織のところで、止まった。


「……遠野さん。ピアノ、錆びさせないで、くださいね」少しだけ、震える声だった。「帰ってきたら、いちばん最初に、合わせてもらいますから」


 それだけ言って、今度こそ、出ていった。詩織は、少し、きょとんとして、「……うん」と頷いた。累が、扇子の陰で、「切ないですわねえ」と、目を細めた。何がだよ。俺だけが、また、分かっていなかった。


 こうして、俺たちの楽団に、初めて、"空席"が、できた。


 次の日から、練習で、白瀬の一音たちが、ぽっかりと、抜けた。弦の芯が、ないと、音楽は、頼りなく、揺らいだ。


 三日目に、カールが、手を挙げた。


「ネエ。オレ、白瀬サンのパート、弾けるヨ。ぜんぶ。一週間くれたら、完璧に」


 嘘じゃなかった。カールなら、本当に、一週間で弾く。楽団の音のことだけを考えるなら、それが、正解だった。……でも。


「駄目だ」俺は、言った。「あれは、白瀬くんの一音だ。君には、君の一音がある」


 カールは、肩をすくめた。「ドイツならネ、椅子が空いたら、次の日には、もっと上手いのが座ってるヨ。プロの世界って、そういうものだから」それから、なぜか、にっと笑った。「……キミたち、ほんと、クレイジーだね。嫌いじゃないヨ、そういうの」


 空席は、埋めなかった。


 俺たちは、その、白瀬のいない穴を、抱えたまま、練習を、続けた。穴が空いているのが、はっきり、分かる。痛いくらい、分かる。……でも、その痛みは、悪いものじゃ、なかった。


 翔のレーダーは、律儀だった。練習が終わるたび、報告に来る。「今日も、白瀬さんのとこ、空いてたよ」。……知ってるよ。でも、その馬鹿正直な報告が、嫌いじゃなかった。あの穴が、ふさがったフリをしないで、ちゃんと、痛いままで、いてくれる気がした。


 その空席は、いつも、俺たちに、言っていた。


 ――誰か一人が、欠けたら、その音は、完成しない。だから、待て。だから、一人ひとりを、大事にしろ、と。


 ある夜、練習のあと、俺は、一人で、その空いた席を、見ていた。白瀬の、パイプ椅子。誰も座っていない、空っぽの席。


 そのとき、ふいに、東京の、あの日の光景が、頭に、蘇った。


 プロが、加わった、あの日。上手くなって、死んだ、あの音。


 ――あれ、なんで、死んだんだ?


 空いた席を、見ながら、俺は、初めて、その理由の、いちばん深いところに、手が、届きかけた。


 プロは、俺たちの、"足りないところ"を、埋めるために、来た。上手い音で、俺たちの、下手な音を、補うために。……でも、それは、この楽団が、いちばん、やっちゃいけないことだったんじゃ、ないか。


 白瀬の席を、誰かで埋めないのと、同じだ。俺たちの一音は、上手い誰かに、代わってもらった瞬間に、死ぬ。下手でも、震えていても、"その人の、一音"じゃなきゃ、意味がない。


 プロは、俺たちの席に、座っちゃ、いけなかったんだ。


 俺の中で、何かが、繋がりかけた。まだ、ぼんやりと。でも、確かに。


 その、繋がりかけた糸を、たぐり寄せてくれたのは――次の週、ひょっこり東京から会いに来た、あの、皺だらけの、年寄りだった。



### 第十七章 背骨


 立花さんは、次の週の、火曜日に、来た。


 わざわざ、東京から。バスと電車を乗り継いで、あの、皺だらけの顔で、ひょっこりと、花森高校の、墓場みたいな部室に、現れた。


 立花さんは、大貝ホールが取り壊されたあと、東京の、娘さん夫婦の家に、身を寄せていた。もっとも、隠居した、というわけでもないらしい。「ホールの空気を吸わんと、死んじまう」とか言って、近所の、小さな区民ホールの舞台係を、週に三日、手伝っているという。四十年、身体に染みついたものは、抜けないのだ。


「よう、坊主ども。辛気くさい顔、してんな」


 俺は、立花さんに、全部、話した。東京での、あの日のこと。プロが加わって、上手くなって、死んだ音のこと。詩織のピアノが、邪道だと言われたこと。桐生さんに、「君には、何もない」と、言われたこと。


 立花さんは、湯呑みの茶をすすりながら、黙って、最後まで、聞いていた。


「……なるほどな」


 聞き終えて、立花さんは、部室の隅を、見た。白瀬圭の、空いた、パイプ椅子を。


「あの席、なんで、空けてある?」


「白瀬くんの、席です」俺は言った。「受験で、離脱してるんで。……戻ってくるまで、埋めないって、決めたんです。あいつの一音は、あいつにしか、出せないから」


「ほう」立花さんの、目が、細くなった。「上手い奴を、代わりに座らせりゃ、いいじゃないか。そのほうが、"いい音"に、なるだろう」


「それは――」


 言いかけて、俺は、口を、つぐんだ。


 ……あ。


 頭の奥で、東京の、あの日の光景と、この、空いた椅子が、かちり、と、繋がった。


「立花さん」俺は、ゆっくり、言った。「……プロを、入れたのが、間違いだったんだ」


「なんでだ」


「白瀬くんの席を、上手い誰かで、埋めないのと、同じだ」俺の中で、ずっと、ぼんやりしていた糸が、一気に、はっきりと、形になった。「俺たちの音は、一人が、一つの、代わりのいない音を、命がけで置くから、鳴るんだ。……なのに、俺は、プロを呼んで、みんなの席に、"もっと上手い誰か"を、座らせようとした。それは――」


「一人ひとりに、"お前の代わりは、いる"って、言ったのと、同じだ」立花さんが、静かに、あとを、引き取った。


 俺は、頷いた。喉が、詰まった。


「あの日、みんなの音が、消えたのは、萎縮したからじゃない。……いや、萎縮した。でも、その奥で、たぶん、みんな、分かってたんだ。"ああ、俺、いなくても、いいんだ"って」


 三年前、旧・管弦楽部が、潰れた理由。一人抜け、二人抜け、気づいたら誰もいなくなった、あの理由。――自分は、いなくてもいい。代わりはいる。


 俺は、あの日、東京で、自分の手で、それを、もう一度、やろうとしていたのだ。


「立花さん」俺は、顔を上げた。「プロには、俺たちの席に、座ってもらっちゃ、駄目なんだ。演奏は――俺たちが、やらなきゃ、いけない。プロには、"上手くしてもらう"んじゃなくて、"上手くなるのを、手伝ってもらう"んだ。席の、外から」


 立花さんの、皺だらけの顔が、ゆっくりと、笑った。あの、いたずらを思いついた子どもみたいな、若い笑い方だった。


「わしが、東京から、はるばる、何しに来たと思う?」立花さんは、湯呑みを、置いた。「それを、律が、自分の口で言うのを、聞きに来たんだ。……もう、わしの出る幕は、ないな」



 俺たちは、もう一度、東京のNHKホールへ向かった。


 桐生さんのリハーサル室で、俺は、まっすぐ、あの人に、言った。


「桐生さん。お願いが、あります」


「言ってみなさい」


「本番、プロの奏者を、俺たちの中に、入れないでください」俺は、言った。声が、震えないように、腹に、力を入れた。「演奏は、俺たちだけで、やります。プロの人たちには――俺たちを、"引き上げる"のを、手伝ってほしいんです。一緒に弾くんじゃなくて、外から、鍛えてほしい。俺たちが、俺たちのまま、プロの耳に、耐えられるところまで」


 桐生さんは、しばらく、俺を、見ていた。


 それから、ふっと、笑った。


「……やっと、言ったか」


「え?」


「私が、なぜ、あんな、失敗するに決まっている実験を、わざわざ、やらせたと思う?」桐生さんは、指揮棒を、指で、もてあそんだ。「プロを入れれば、上手くなる。……そんなことは、私が、いちばん、よく知っている。プロだからな。だが、それをやったら、君たちの音楽は、死ぬ。それも、分かっていた」


 俺は、目を、見開いた。


「試したんだ。君たちが、"上手くなる"のと引き換えに、自分たちの音を、明け渡すのか。それとも――踏みとどまって、"これは違う"と、言えるのか」桐生さんの目が、初めて、少しだけ、優しくなった。「言えない楽団なら、しょせん、そこまでだった。NHKホールになんて、連れて行けん。……須賀くん。君は、言った。三週間、かかったがな」


 ――試されて、いたのだ。俺たちは。あの、絶望の一晩ごと。


 むかつく。むかつくけど、……かなわないな、と思った。この人は、本物だ。


「一つ、確認させてください」俺は、いちばん、大事なことを、聞いた。「詩織の――ピアノは」


 桐生さんが、ちらりと、詩織を見た。詩織の肩が、びくりと、跳ねた。


「第九に、ピアノは、ない。原譜には、一音も」桐生さんは、はっきりと、言った。「邪道だ、という奏者の意見は、正しい。……正統な第九を、やるなら、な」


 詩織が、うつむいた。


「だが」桐生さんは、続けた。「君たちは、正統な第九を、やるんじゃ、ないだろう」


 詩織が、顔を、上げた。


「君たちのピアノは、和声の、背骨だ。ばらばらの一音を、繋ぎとめる、命綱だ。……それを抜けと言うのは、"松葉杖を捨てて走れ"と言うのと、同じだ。正論だが、君たちを、殺す」桐生さんは、詩織を、まっすぐ見た。「遠野くん。君のピアノは、邪道じゃない。それは、"君たちの第九"の、背骨だ。……堂々と、弾きなさい。世界中の誰が、邪道だと言おうとも」


 詩織の、目から、ぼろっと、涙が、こぼれた。


 あの日、"邪道"の一言で、鍵盤から離れた手が――たった今、桐生さんの一言で、また、鍵盤に、戻った。


 その日から、稽古の中身が、変わった。


 プロの奏者たちは、演奏の席から、降りた。代わりに、俺たちの、周りに立って、コーチに、なった。コンサートマスターの人が、弦の寄せ集め連中を、手取り足取り、鍛えてくれた。カールは、途中から、教わる側というより、"通訳"に回っていた。プロの言葉を、素人の言葉に、訳す係だ。「今のはネ、"もっと歌え"ってことだヨ」。あんなに嫌っていたプロの現場の言葉が、ここでは、仲間のための、道具になっていた。打楽器のプロは、響の振動板を、しげしげと眺めて、「これ、うちにも、ほしいな」と、真顔で言って、海老名を、天井まで、舞い上がらせた。白瀬の受け持ちの一音たちだけは、誰にも、触らせなかった。あの席は、空けたまま、磨く。それが、俺たちの、条件だった。そして、あの、「ピアノは邪道」と言った人が、いちばん熱心に、詩織のピアノの、和音の置き方を、一緒に、考えてくれた。


 そして、俺には、桐生さんが、直接、ついた。


「腕を、振るな」桐生さんは、容赦が、なかった。「振るんじゃない。示すんだ。次に、どこが、鳴るのか。どんな、気持ちで、鳴らすのか。……君の身体が、全部、それを、語れ」


 楽譜も読めない俺に、桐生さんは、楽譜を読ませなかった。代わりに、この曲の、七十分の、物語を、丸ごと、俺の身体に、叩き込んだ。ここは、絶望。ここは、祈り。ここで、夜が明ける。ここで、全人類が、抱き合う。……俺は、それを、野球の、サインを覚えるみたいに、身体で、覚えた。


 地獄だった。毎日、へとへとに、なった。


 でも――怖くは、なかった。


 俺たちは、もう一度、俺たちの、やり方を、取り戻していた。空いた白瀬の席を、抱えたまま。詩織の、背骨のピアノを、まっすぐ、通して。


 巨人の、足音は、まだ、聞こえていた。


 でも、今度は、その足音に、ただ、怯えては、いなかった。


 ――震えながら、それでも、でかい相手に、挑む。


 累の、言葉を、俺は、思い出していた。俺たちは、やっと、その、スタートラインに、立ったのだ。



### 第十八章 声


 二月。俺たちの前に、二百人の、声が、現れた。


 N響の、合唱団。


 第九の、第四楽章――あの「歓喜の歌」を、歌う人たちだ。本番で、俺たちと、一緒に、舞台に立つ、唯一の、プロ。桐生さんが、そう決めた。奏者は席の外、でも、この合唱団だけは、共に、歌う。


 初めての、合同稽古。広いリハーサル室に、黒い服の合唱団が、ずらりと並んだ。二百人が、ただ立っているだけで、部屋の空気が、重く、みっしりと、満ちた。俺たちの、寄せ集めの三十人が、その前で、いつもの三倍、小さく見えた。


 累だけは、相変わらずのゴスロリ姿で、その黒ずくめの集団に、奇跡的に、溶け込んでいた。「同族の、匂いがしますわ」と、なぜか、嬉しそうだった。翔は、二百人を前に、目を、輝かせていた。「すっげえ。二百人いたら、二百個、声がするんだ」。レーダーは、今日も、絶好調らしい。


 合唱団を、まとめているのは、三宅さんという、白髪の、女性だった。何十年も、この舞台で、第九を歌ってきた、大ベテラン。彼女は、俺たちを、上から下まで、眺めて、静かに、言った。


「桐生先生から、話は、伺っています」その声は、丁寧だった。丁寧すぎて、逆に、冷たかった。「……正直に、申し上げます。わたくしたちは、第九を、四十年、歌ってまいりました。本物の、オーケストラと。……失礼ですが、"楽譜も読めない生徒さんの伴奏で歌う"のは、初めてです」


 伴奏。……その一言に、俺たちが積み上げてきた、この二年が、ちくりと、疼いた。


 でも、俺は、もう、萎縮しなかった。東京の、あの夜を、俺たちは、くぐり抜けていた。


「伴奏じゃ、ないです」俺は、言った。「一緒に、やるんです。……とりあえず、一回、聴いてください。それから、判断してもらえたら」


 三宅さんは、少しだけ、眉を上げて、それから、頷いた。「……ええ。そのつもりです」


 俺は、指揮台に、立った。


 鬼頭が、リズムを、刻む。詩織のピアノが、背骨を、通す。三十人の、ばらばらの一音が、貼りついていく。そして――第四楽章。歓喜の、主題。


 合唱団が、歌い出した。


 ――ぞくり、とした。


 二百人の、プロの声。それは、俺たちの三十人の音を、軽く、飲み込むくらい、圧倒的で、豊かで、美しかった。天井が、震えた。空気が、金色に、鳴った。


 響が、目を、見開いていた。二百人の声は、空気だけじゃなく、床を、椅子を、俺たちの胸を、震わせていた。あとで、響は、言った。「声って、あんなに、震えるんですね。……大太鼓と、同じでした」


 東京の、あの日だったら。俺たちは、この声に、飲まれて、萎縮して、音を、引っ込めていた。"こんなすごい声に、俺のへたくそな一音を、混ぜていいのか"と。


 でも――今日は、違った。


 俺は、みんなを、見た。みんなも、俺を、見た。そして、誰一人、音を、縮めなかった。


 春名の背中が、伸びた。二百人の声に、負けじと、彼女のトランペットが、歌を、立ち上げた。細い。二百人には、遠く及ばない。でも、まっすぐで、震えていて、命が、こもっていた。鯨井が、笑いながら、腹の底から、低音を、鳴らした。累のチェロが、堂々と、断末魔を、上げた。カールのバイオリンは、もう、宿題の音じゃなかった。響は、二百人の声が床ごと震わせる、その真ん中で、足の裏のリズムを、見失わなかった。三十人が、一人一人、代わりのいない自分の一音を、プロの声の中に、まっすぐ、置いた。


 消えなかった。


 俺たちの、ちっぽけな、下手くそな一音は――二百人のプロの声の中でも、確かに、消えずに、鳴っていた。ステンドグラスの、小さな色硝子が、大きな金色の光の中で、それでも、自分の色を、失わなかった。


 演奏が、終わった。


 しん、と、なった。


 合唱団の、二百人が、俺たちを、見ていた。さっきまでの、丁寧な、冷たい目が――少し、違う色に、なっていた。


 三宅さんが、口を、開いた。何か言おうとして、けれど、その声が、少し、震えて、うまく、出なかった。


 やがて、彼女は、言った。


「……あなたたちの音は」ゆっくりと。「下手です。ずれているし、痩せているし、穴だらけ。四十年、聴いてきた、どんな第九より、拙い」


 俺たちは、黙って、聞いていた。


「でも」三宅さんの、目が、潤んだ。「こんなに、一音、一音が、"こわい"演奏を、わたくし、初めて、聴きました。……あなたたち、一人ひとりが、その一音に、命を、賭けているのが、聞こえる。歌っていて、こちらの、背筋が、伸びました。……本物の、オーケストラでは、味わえない、感覚でした」


 三宅さんは、深く、頭を下げた。二百人の、プロが、それに、続いた。


「――ご一緒、させてください。この、第九に」


 その日から、二百の声と、三十の一音は、少しずつ、溶け合っていった。


 プロの声が、俺たちの、まだ下手くそな一音を、包んで、支えた。俺たちの、命がけの一音が、プロの、完璧な声に、"こわさ"を、分け与えた。三宅さんは、稽古のたびに、「もっと、こわく」と、自分の合唱団に、言うようになった。「あの子たちの、あの、必死の一音に、負けない声を」


 桐生さんは、その様子を、腕を組んで、見ていた。


 ある日の稽古の終わり、俺が、指揮台を降りると、桐生さんが、ぼそりと、言った。


「……須賀くん。今日の、第三楽章の、入り」


「はい」


「悪く、なかった」


 それだけ、だった。でも、あの、容赦のない人が、初めて、口にした、"悪くなかった"だった。俺は、その夜、一人で、こっそり、ガッツポーズを、した。


 稽古の合間に、俺のスマホが、震えた。白瀬圭からの、メッセージだった。


《共通テスト、目標点クリア。予定どおり、二次に進みます。そちらの、僕の席、まだ、空いていますか》


 俺は、返した。


《空いてる。埃だけ、たまってきた》


《掃除しておいてください。必ず、座りに帰ります》


 俺は、思わず、笑った。すると、続けて、もう一通、届いた。


《遠野さんに、伝言。――ピアノ、錆びさせないでください。帰ったら、約束どおり、いちばん最初に、合わせてもらいます》


「……自分で言えよ」


 思わず、口に出ていた。横から覗き込んでいた詩織が、その文面に、「……ふふ」と、小さく笑った。「"はい"って、返しといて」。俺の後ろで、累が、扇子の陰から「一途ですわねえ」と、つぶやいた。……何がだよ。


 春が、近づいていた。


 本番は、三月の、終わり。白瀬の、二次試験の、あと。


 俺たちは、まだ、一度も、第九を、頭から最後まで、通せていなかった。当たり前だ。いちばん大事な、弦の芯が、あの、空いた席に、まだ、帰ってきていないんだから。


 でも、俺は、もう、焦っていなかった。


 その席は、必ず、埋まる。埋まったとき、初めて、俺たちの、ステンドグラスは、全部の硝子が、揃う。


 ――そして、光が、射す。


 巨人の待つ、あの、三千八百席の、舞台で。



### 第十九章 歓喜


 二月の終わり。白瀬圭の、二次試験が、終わった。


 その翌日の、放課後。部室のドアが、いつもの几帳面な感じで、こんこん、とノックされた。


 入ってきたのは、白瀬だった。少し痩せて、目の下に、うっすら隈があって、でも――その目は、憑き物が落ちたみたいに、澄んでいた。


「ただいま、戻りました」


 誰も、しばらく、動けなかった。それから、鯨井が、いちばん最初に、うおおと叫んで、シャツを脱いだ。累が、黒い日傘を放り投げて、拍手した。春名が、ぼろぼろ泣いた。桃井が「おかえり」と、鼻声で言った。


 白瀬は、まっすぐ、部室の隅に、歩いていった。


 一か月半、ずっと、空けてあった、あのパイプ椅子。埃を、桃井が、毎日、几帳面に、払っていた席。


 白瀬は、そこに、そっと、座った。


「……埃、ないですね」


「掃除しとけって、言ったろ」俺は、言った。声が、少し、詰まった。


 空いていた席が、埋まった。


 その瞬間、俺たちの、ステンドグラスの、いちばん大事な、何枚もの硝子が、かちり、と、はまった。ようやく、全部の色が、揃った。


 それから、白瀬は、すっと立ち上がって、ピアノのほうへ、歩いていった。詩織の前で、几帳面に、背筋を伸ばす。


「遠野さん。……約束、覚えていますか」


「うん」詩織は、笑った。もう、鍵盤の蓋を、開けていた。「帰ってきたら、いちばん最初に、合わせる、でしょ」


 その瞬間、白瀬の顔が、見る間に、赤くなった。耳どころじゃ、なかった。あの、データと契約書の男が、意味もなく眼鏡を二回押し上げて、「……はい」とだけ、言った。……二次試験より、緊張してるんじゃないだろうか。


 累が、扇子の陰から、「……青春ですわねえ」と、つぶやいた。何がだよ。


 白瀬は、久しぶりに、バイオリンを、構えた。詩織のピアノと、二人きりの、ブラームスの、二楽章。一か月半、触っていなかったのに、その音は、前より、深くなっていた。「……不思議です」白瀬が、ぽつりと言った。「弾けない間、頭の中で、ずっと、鳴らしていたので。……たぶん、いちばん、練習になったのは、弾かなかった、この一か月半でした」


 そこから、本番までの、一か月。


 俺たちは、狂ったように、練習した。桐生さんに鍛えられ、プロのコーチに磨かれ、二百人の合唱と、溶け合って。詩織の、背骨のピアノを、まっすぐ通して。全員が、自分の一音に、震えながら、命を、乗せた。


 ――そして、三月の、終わり。


 その日が、来た。


 NHKホール。三千八百席。大貝ホールの、ほぼ二倍。天井は、はるかに高く、赤い座席が、見上げるほど、上まで、続いていた。


 楽屋で、俺たちは、震えていた。大貝ホールの、あの日の、比じゃなかった。ここは、本物の、聖域だ。日本一のオーケストラの、舞台。


 開演前、桐生さんが、楽屋に、来た。燕尾服じゃ、なかった。ふつうの、スーツだった。


「桐生さん、指揮は」


「私は、客席で、聴く」桐生さんは、静かに、言った。


 俺は、息を、呑んだ。


「この舞台に、私は、立たない。指揮台は――須賀くん、君のものだ」桐生さんは、俺を、まっすぐ見た。「三か月前、私は、君に言ったな。『君には、何もない』と。……あれは、間違いだった。訂正する」


「え」


「君には、"何もない"んじゃない。君は、"何も持たずに、全員を、信じさせる力"を、持っている。それは、私には、逆立ちしても、ない力だ」桐生さんは、初めて、はっきりと、笑った。「行きなさい。あの子たちを、君が、連れて行け。……私は、客席から、いちばん、うるさく、聴いてやる」


 舞台袖に、向かうと、見覚えのある、小柄な背中が、待っていた。


 黒い、作業服。皺だらけの顔。――立花さんだった。


「なんで、ここに」


「桐生に、頼んでな。今日だけ、袖に、入れてもらった」立花さんは、事もなげに、言った。「四十年、舞台ってのは、袖から観るもんだと、決めとるんだ」


 それから、立花さんは、俺の胸を、指で、こつん、と突いた。


「――今日は、途中で、やめないんだろう?」


 俺は、笑った。あの日、誰もいない大貝ホールで、初めてこの人にかけられた言葉と、同じ形の、言葉だった。


「はい。……最後まで、やります。観てて、ください」


「おう。特等席で、な」


 舞台に、出た。


 三千八百の、視線。目がくらむような、ライト。ざわめきが、少しずつ、引いていく。


 みんなが、それぞれの席に着く。詩織が、ピアノの前に。白瀬が、弦の芯の位置に。カールが、その隣に。鬼頭が、打楽器の後ろに――その横の、床の板の上に、裸足の響が。鯨井、累、海老名、桃井、春名、小物打楽器の森を守る翔、寄せ集めの仲間たち。そして、その後ろに、ずらりと、二百人の、黒い合唱団。三宅さんが、いちばん前で、俺に、小さく、頷いた。


 客席のいちばん後ろの、暗がりに、桐生さんが、腕を組んで、座っているのが、見えた気がした。


 俺は、指揮台に、立った。


 楽譜は、ない。あるのは、身体に、叩き込んだ、七十分の、物語だけ。


 俺は、鬼頭を、見た。鬼頭が、にやりと笑って、スティックを、構えた。


 ――ベートーヴェン、交響曲第九番、ニ短調。


 鳴った。


 第一楽章。宇宙が、生まれる前の、暗がりみたいな、低い、ざわめきから。ぽつり、ぽつりと、三十人の一音が、闇の中に、置かれていく。まだ、旋律にも、ならない、破片。でも、そこには、確かに、何かが、生まれようとしている、気配が、あった。


 穴は、空かなかった。……正確には、二度、空きかけて、二度とも、翔のレーダーが、目と指の合図で、隣の列を、引き戻した。


 白瀬の弦が、芯を張る。詩織のピアノが、背骨を通す。鬼頭のリズムが、狂いなく、全員を、束ねる。一か月半空いていた席が埋まったことで、俺たちの音は、初めて、完全な、一枚の絵に、なっていた。


 第二楽章の、疾走。あの、"太鼓が主役"のスケルツォ。その主役の一打を、鬼頭は、この日、隣の響に、譲っていた。


 響のティンパニが、雷みたいに、落ちる。足の裏で、光で、腹で、一年かけてリズムを食らい続けてきた一年生の、ためらいのない一打だった。音楽に、いちばん入れてもらえなかった子の一打が、いま、三千八百人の胸を、震わせていた。……ベートーヴェンさん、あんたの太鼓、聞こえない女の子が叩いてるぞ。文句、ないよな。


 第三楽章の、祈りみたいな、静けさ。春名のトランペットが、その静寂の中で、泣きそうなくらい、美しく、歌った。三千八百席の、いちばん後ろまで、その一音が、届いていくのが、分かった。


 そして――第四楽章。


 あの、歓喜の、主題が、来た。


 低弦が、そっと、その旋律を、つぶやく。それが、少しずつ、広がって、大きくなって、三十人の一音が、いっせいに、その歓喜に、集まっていく。


 俺は、腕を、振った。いや――示した。ここだ。ここで、鳴らせ。その一音を。代わりのいない、命がけの、その一音を。


 みんなが、俺の身体を、見ていた。信じて、置いていく。色のついた、光の欠片を。


 そして、独唱の、プロの声が、朗々と、響いた。「――おお、友よ、こんな音ではない!」


 合唱団の、二百人が、立ち上がった。


 歓喜の歌が、爆発した。


 二百人の、プロの声。素人たちの、命がけの一音。詩織の、邪道と呼ばれた、背骨のピアノ。カールの、もう宿題じゃなくなった、バイオリン。鬼頭の、メタルで鍛えた、鉄壁のリズム。春名の、三年間隠していた、歌。白瀬の、受験の日々を越えて帰ってきた、弦。累の、堂々とした断末魔。鯨井の、馬鹿みたいに、まっすぐな、低音。


 全部が、いっせいに、鳴った。


 三千八百席の、天井が、震えた。ステンドグラスの、全部の硝子が、光った。後ろから、まばゆい光が、射して――ばらばらだった俺たちが、たった一枚の、とてつもなく、でかい、絵に、なった。


 巨人の、足音は、もう、聞こえなかった。


 俺たちは、巨人の、足元じゃ、なかった。俺たちは、巨人の、真ん前に、立って――こんなわたしたちで、と震えていた詩織の手が、いま、この、歓喜の背骨を、鳴らしていた。


 その、うねりの、いちばん高いところで。


 俺は、指揮台の上で、腕を、天井に、突き上げて――叫んでいた。


「――抱き合え、幾百万よ!」


 『ザイト・ウムシュルンゲン、ミリオーネン』。カールが、初めて部室に来た日、両腕をいっぱいに広げて、教えてくれた、あの言葉。いちばん、抱き合えなかった男が、人生で最後の交響曲に書いた、最後の言葉。


 楽譜も読めない、ドイツ語なんて一文字も知らない、元・野球部のエースが、腹の底から、あの、鬼頭のメタルの、拳を突き上げる大合唱みたいに、その一言を、日本語で、叫んでいた。三千八百人に、二百人の合唱に、巨人に、そして、いつか、自分の音を、途中で諦めた、すべての人に、届けとばかりに。


 ――抱き合え。ばらばらの、幾百万よ。


 ああ、そうだ。生まれて初めて、俺は、その言葉の意味を、頭じゃなくて、身体の芯で、分かった気がした。俺たちみたいな、ばらばらの、欠けた者同士が――こうやって、一つに、なるための、歌なんだ。これは。


 ――そして、終わった。


 最後の和音が、三千八百席の、空気に、溶けて、消えた。


 一秒。二秒。三秒。四秒。


 ――三千八百人が、津波みたいに、立ち上がった。


 拍手が、割れた。大貝ホールの、二千人の、比じゃなかった。三千八百人が、総立ちで、床を踏み鳴らして、「ブラボー」を、叫んでいた。鳴りやまない。何分たっても、鳴りやまない。


 舞台の上で、俺たちは、また、ぼろぼろに、なっていた。


 でも――今度は、俺の胸に、あの、棘は、なかった。


 あの、大貝ホールの日に、俺を刺した棘。"感動的な素人"止まりじゃないか、という、あの棘。


 もう、どこにも、なかった。


 なぜなら、俺には、はっきり、分かったからだ。


 この拍手は、"下手な素人が頑張った"ことへの、同情じゃない。三千八百人は、いま、本物の、音楽に、震えている。プロの声でも、プロの技でもない。俺たちにしか、出せなかった、あの、命がけの一音の、集まりに。


 ――俺たちは、本物と、並んだんじゃ、なかった。


 俺たちは、本物に、俺たちにしか、差し出せない、一音を、差し出したんだ。


 客席の、いちばん後ろで。


 桐生さんが、立ち上がって、両手を、高く上げて、拍手していた。あの、容赦のない、本物のマエストロが。その顔が、くしゃくしゃに、なっていた。


 そして、舞台袖の、暗がりで。


 立花さんが、作業服のポケットに両手を突っ込んだまま、泣いているのか、笑っているのか、分からない顔で、こっちを見ていた。目が合うと、あの、皺だらけの顔のまま――親指だけを、ぐっと、立てた。


 俺は、その、三千八百人の、津波みたいな拍手の、真ん中で。


 もう二度と味わえないと思っていた、あの――マウンドの、真ん中の、感覚の、何百倍も、大きな場所に、確かに、立っていた。


 ――ちゃんと、鳴らして、終わらせた。


 途中で、投げ出した、俺の"最後の試合"を。いちばん歌うところで止まった、詩織のピアノを。声を失って消えた、あのホールを。……全部、いま、ここで、いちばん、でかい音で、鳴らして、終わらせた。


 鳴りやまない拍手の中で、俺は、涙が、止まらなかった。



### 終章 ずっと、鳴っている


 あの夜の演奏は、また、動画になって、広がった。


 今度の再生回数は、桁が、一つ、増えた。テレビが取材に来て、桃井が「うちの部を、面白おかしく撮るなら、帰ってください」と、几帳面に追い返したりした。だが、そういう騒ぎも、春の風みたいに、じきに、通り過ぎていった。


 残ったのは、俺たちだけだった。


 本番から、一週間後。少し遅い卒業式があって、俺たちは、卒業した。


 白瀬圭は、第一志望の、国立大学の、医学部に、受かった。合格発表の日、あいつは、部室に、まっすぐ来て、「両方、成功させる、と言いましたよね」と、いつもの几帳面な顔で、少しだけ、得意げに、言った。誰よりも先に、鯨井が号泣して、シャツを脱いだ。


 白瀬は、バイオリンを、続けるらしい。「医者になっても、火・木・土の、九十分だけは、死守します」と、宣言していた。……あいつなら、本当に、両方、やり遂げるんだろう。


 詩織は、音楽の道に、戻ることにした。


 四年前、この街の舞台で、途中で止まった手が――もう一度、動き出した。「まだ、本番でね、手が震えるんだ」と、詩織は言った。「たぶん、一生、震える。……でも、もう、逃げない。震えたまま、鳴らす。だって、うちの部で、それを、覚えたから」


 鬼頭は、卒業して、どこかへ、ふらりと消えた。と思ったら、東京の、ライブハウスで、ドラムを叩いているらしい。部室のロッカーには、使い込んだスティックが一組、残されていた。ケースに、油性ペンで、一言。《響へ。腹で食らえ》。累が、ときどき、こっそり観に行っては、「相変わらず、地獄みたいなツーバスでしたわ」と、うっとり報告してくる。


 春名は、音楽の先生を、目指すことにした。「今度は、わたしが、"また潰れそうな子"を、見つける番です」と、まっすぐな背中で、言った。


 鯨井は、水泳の推薦で、大学へ。相変わらず、脱いでいる。


 海老名と、桃井と、累は、二年。響と、カールと、翔は、一年。……つまり、この六人が、まだ、学校に、残る。


「部は、続けます」桃井が、卒業する俺たちに、書類の束を、突きつけた。ちゃんと、来年度の、部員募集の、企画書だった。「あんたたちが、めちゃくちゃにした、この変な部を。……ちゃんと、次に、繋ぎますから。心配しないで、いなくなってください」


 海老名が、こくりと、頷いた。「一人が、一音。……この理屈は、まだ、伸びます。次は、もっと、面白いことが、できる」


 累が、黒い日傘を、くるりと回した。「滅びの物語は、これで、おしまい。……次は、"始まりの物語"を、綴りますわ」


 ――俺たちのステンドグラスは、後輩たちに、受け継がれる。硝子は、これからも、増えていく。


 卒業式の、その日の、夕方。


 俺は、一人で、あの場所に、行った。


 大貝ホールの、跡地。


 フェンスの向こうは、まだ、平らな土のままだった。ここに、あの、二千席の、静けさの箱が、建っていた。俺が、詩織のピアノを聴いた場所。立花さんと、出会った場所。俺が、後先も考えずに、あの誓いを、口走った場所。


「――やっぱり、ここにいた」


 声に振り返ると、詩織が、立っていた。その目が、ちらりと、俺の胸元を見て、少しだけ、曇った。俺の制服の、第二ボタンは、なくなっていた。……さっき、鯨井が「記念にくれ!」と言って、勝手にむしっていったのだ。この誤解を解くのに、このあと、けっこう、かかった。


「須賀くん」詩織は、フェンスの、隣に、並んだ。夕方の風が、ふわりと、あの、シャンプーの爽やかな匂いを、運んできた。二年前の、あの階段の踊り場と、同じ匂いだった。「あのとき、聞きそびれてたこと、聞いても、いい?」


「ん?」


「大貝ホールで、わたしの、途中でやめたピアノを、聴いて。……なんで、あんなに、気になったの?」


 俺は、少し、考えた。それから、正直に、言った。


「……たぶん、俺と、同じだと思ったんだ」フェンスの、冷たい針金を、指で、なぞった。「途中で、やめた奴が、途中で、やめた場所に、戻ってきてた。……放っておけなかった。他人事に、思えなくて」


 詩織は、しばらく、黙っていた。それから、ぽつりと、言った。


「わたし、あのとき、"見つかっちゃった"って、思ったんだ」


「え?」


「誰にも、見られたくなかった、いちばん、みっともない、背中を。……あなたに、見られて。だから、あんなに、冷たくしたのに」詩織の、頬が、夕陽の色に、染まった。夕陽の、せいじゃ、ないかもしれない。「……なんで、あなたは、その背中を、綺麗だと思った、って言ったの?」


 俺は、詩織を、見た。


 あの日、誰もいないホールで、光の中で、凛と、背筋を伸ばして弾いていた、あの背中を、思い出した。


「綺麗だからだよ」


 俺が言うと、詩織は、真っ赤になって、俺の肩を、ぽかっと、殴った。痛かった。でも、その手は、震えていて、そして、少しも、逃げなかった。


 ……ちなみに、この一部始終を、フェンスの陰から、白瀬圭に、ばっちり、目撃されていたことを、俺は、あとで知った。


 あいつは、後日、詩織にだけ、こう言ったらしい。「……知っていました。ずっと、前から。僕の、勝ち目がないことも、含めて。全部、計算済みです」そして、少しだけ、泣いて、それから、いつもの顔で、「幸せに、しなさい。データとして、見届けます」と、言ったそうだ。……あいつも、あいつなりに、いちばん、みっともない背中を、まっすぐ、伸ばしたんだと思う。


 夕陽が、平らな土の上に、長い影を、落としていた。


 俺は、その、更地を、見ていた。


 もう、ホールは、ない。二千席の静けさも、シャンデリアも、緞帳も、全部、消えた。……でも、なくなって、初めて、分かることが、あった。


 俺は、ずっと、自分でも、分からなかったんだ。


 音楽なんて、何も知らない俺が、なんで、あの日、あんなことを、口走ったのか。なんで、この二年、あんなに、必死だったのか。その答えを、俺は、全部が終わった、今になって、やっと、分かった気がした。


 ――音楽が、やりたかったわけじゃ、なかった。


 そもそも、音楽なんて、何も、知らなかった。ただ、俺は、こんな終わり方が、嫌だったんだ。途中で、ぷつんと消えるんじゃなくて。でかい音を、鳴らして、満員の客の前で、ちゃんと、終わらせて、やりたかった。あのホールも。あの人も。……そして、たぶん、俺自身を。


 自分で、グラブを放り出したくせに。野手でなら、まだ立てる場所があると、言われていたくせに。俺は、あの、"最後の試合"ってやつを――まだ、どこかで、諦めきれて、いなかったんだ。


 だから、俺は、あの日、あそこを、満席にすると、誓った。


 そして、俺たちは、本当に、それを、やった。二千席の、静けさを、満席にして。三千八百席の、聖域を、震わせて。ばらばらの、欠けた者同士が、一人一音を、持ち寄って――抱き合え、幾百万よ、と、叫んだ。


 俺の"最後の試合"は、野球じゃ、なかった。


 でも、確かに、あれが、俺の、最高の、最後の試合だった。ちゃんと、鳴らして、ちゃんと、終わった、たった一度の、試合。


「須賀くん?」詩織が、俺の顔を、覗き込んだ。「……なに、泣いてるの?」


「泣いてない」


「泣いてる」


 俺は、笑って、目を、こすった。


 ホールは、もう、ない。


 でも、あの夜の、最後の一音は――いまも、俺たちの、一人ひとりの中で、消えずに、ずっと、鳴っている。


 たぶん、一生、鳴り続ける。


 ――代わりの、いない、たった一つの、俺たちの、音が。



(了)


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