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抱き合え、幾百万よ!(下巻)

作者:一色迅
最新エピソード掲載日:2026/07/26
満席の熱狂の裏で、律の胸には「あれは感動的な素人への同情ではなかったか」という棘が残っていた。ホール解体が進む中、本番の動画が三百万回再生され、N響のマエストロ・桐生から電話が来る。再来年の春、NHKホールに白紙の枠がある。そこでベートーヴェンの第九を、君たちのやり方で——。詩織は「わたしの、この震える手で挑む」と受け、一年四か月の挑戦が始まる。

三年生の春、新入生が三人加わる。生まれつき耳の聞こえない響は、大貝ホールの客席で「床の震え」として初めて音楽に入れた少女。振動板と鬼頭の特訓で、リズムを足の裏で食らう。ドイツ帰りのカールは、完璧な演奏で育ちながら彼らの下手な動画に泣いた理由を確かめに入部し、「抱き合え、幾百万よ」が"いちばん抱き合えなかった人の歌"だと教える。ADHDの翔は、全部の音が同じ音量で入ってくる耳を「穴の見張り番」というレーダーに変える。だが練習は頭打ちのまま、冬を迎える。

冬休みの東京合宿で、桐生はプロの奏者を混ぜる実験を行い、無残に失敗する。プロの音に全員が萎縮し、上手いのに死んだ音になり、詩織のピアノは「邪道」と断じられ、律は「君には、何もない」と突きつけられる。さらに白瀬が受験のため離脱。だが、誰にも埋めさせず空けたままのその席が答えをくれる。俺たちの音は、代わりのいない一音だから鳴る。プロを席に座らせてはいけない——。律の直訴はまさに桐生が試した答えだった。プロはコーチに回り、詩織のピアノは「君たちの第九の背骨」と認められ、律は七十分の物語を体に叩き込まれる。二月、二百人のN響合唱団が、彼らの命がけの一音に頭を下げて合流する。

三月末、合格した白瀬が帰還して全部の硝子が揃い、三千八百席のNHKホールへ。桐生は指揮台を律に譲り、舞台袖には立花。第二楽章のティンパニは聞こえない響が叩き、第四楽章の頂点で律は叫ぶ。「——抱き合え、幾百万よ!」。総立ちの拍手の中、棘は消えていた。彼らは本物と並んだのではなく、彼らにしか出せない一音を差し出したのだ。終章、卒業とそれぞれの進路、律と詩織の答え合わせを経て、あの夜の一音は今も全員の中で鳴り続けている。
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