「きっかけの作り方」
グラウンドの隅。
板橋は、何度目か分からない視線を向けていた。
その先には――
「はい、ドリンクです」
小さく頭を下げながら、選手たちにドリンクを配る由希の姿があった。
後輩マネージャー。
志保の一つ下で、真面目で、よく気がつく。
誰に対しても丁寧で、いつも一生懸命だ。
(……いいな)
そう思う。
けれど。
「……」
声をかけようとすると、途端に何を話せばいいのか分からなくなる。
練習のことなら、いくらでも話せる。
野球のことなら、困ることなんてない。
なのに、たった一言が出てこない。
「……はぁ」
板橋は、小さくため息をついた。
その様子を、少し離れた場所で寛人が見ていた。
「分かりやす……」
ぼそっと呟く。
隣にいた志保が、首を傾げた。
「何が?」
「いや、あいつ」
寛人が視線で板橋を示す。
志保はそちらに目を向け、しばらく様子を見てから――
「あー……」
すぐに察した。
「そういうことね」
「頼める?」
寛人が短く尋ねる。
志保は一瞬驚いたあと、くすっと笑った。
「いいよ」
少しだけ、悪戯っぽい笑みだった。
*
その日の練習も終盤に差しかかったころ。
「板橋君!」
志保が声をかけた。
「ん?」
「ちょっと守備練習、付き合ってもらっていい?」
「いいけど……」
板橋が答えると、志保はすぐに振り返った。
「由希、お願い」
「はいっ!」
その声に、板橋が顔を向ける。
由希がバットを持って立っていた。
「軽くノックを打つので、受けてもらってもいいですか?」
「……あ、ああ」
一瞬、戸惑う。
けれど、断る理由なんてない。
板橋はグラブをはめ直し、守備位置についた。
志保は二人の様子を確認すると、何食わぬ顔で言った。
「じゃあ、私は向こうに行くね」
「え?」
思わず声が出かけた。
(いや、ちょっと待て)
心の中で叫ぶ。
しかし、志保はすでに歩き出していた。
残されたのは――
板橋と、由希の二人。
「あ、あの……いきます!」
由希が少し緊張した様子でバットを構えた。
コツン。
緩いゴロが、板橋の正面へ転がってくる。
一歩前へ出て、捕球。
「……ナイス」
つい、口に出た。
「え?」
由希が顔を上げる。
「いや、いい打球だった。取りやすい」
「あ、ありがとうございます……!」
由希の頬が、ほんの少し赤くなった。
それを見て、板橋もなぜか落ち着かなくなる。
(……何を意識してんだ、俺は)
野球の練習だ。
いつもどおりやればいい。
そう自分に言い聞かせながら、グラブを構え直した。
「もう一本、お願いします!」
「お、おう」
今度は、少し強めの打球が飛んできた。
板橋は横へ一歩踏み出し、体を伸ばして捕球する。
流れるような動きだった。
「……いいな」
自然と、笑みがこぼれる。
「ちゃんとコース、打ち分けてるじゃん」
「いえ、まだ全然です……」
「いや、今の普通にいいぞ」
「本当ですか?」
「ああ。守りやすい」
その一言に、由希の表情がぱっと明るくなった。
「じゃあ、もう少し強くいきます!」
「おう、来い!」
さっきまでのぎこちなさが、少しずつ薄れていく。
打球を追い、捕って、言葉を交わす。
特別な話をしているわけじゃない。
ただ、一緒に練習をしているだけ。
それなのに、気づけば二人とも、最初よりずっと自然に笑っていた。
少し離れた場所で、その様子を見守る志保が小さく笑った。
「うまくいってるね」
隣の寛人が頷く。
「きっかけさえあれば、あとは自分たちで進めるもんさ」
「ほんと、よく見てるよね」
「別に」
寛人はそっけなく答えた。
視線は、グラウンドの二人に向けられたまま。
その口元だけが、ほんの少し緩んでいた。
夕方の風が、静かに吹き抜ける。
白球が転がり、誰かの笑い声が響く。
その片隅で――
小さな関係が、ひとつ動き出していた。




