「始まった夏」
夏の大会が、始まった。
蝉の声が、容赦なく降り注ぐ。
グラウンドには熱気がこもり、立っているだけでも体力が削られていく。
西北高校の初戦。
相手は、特別強くも弱くもない中堅校だった。
「初戦だからって、硬くなるなよ」
上林監督の声が、ベンチに響く。
「やることは変わらん。いつもどおりいけ」
試合は、静かな立ち上がりを見せた。
マウンドには、上田。
初回。
上田のストレートが、唸りを上げる。
――ズバン!
「ストライク!」
空振り三振。
続く打者も、三振に仕留めた。
(仕上がってるな)
寛人は、一塁から静かに試合を見つめていた。
以前のように、ただ力で押すだけじゃない。
左打者に対する配球。
内外の使い分け。
まだ甘いところはある。
それでも、確実に変わり始めていた。
(ちゃんと意識してる)
上田も、自分なりに考えている。
そのことが、寛人には少し嬉しかった。
二回。
一死。
左打者を迎えたところで、ベンチから声が飛ぶ。
「白石!」
投手交代。
(来たか)
寛人はファーストミットを外し、マウンドへ向かった。
すれ違いざま、上田が声をかける。
「抑えろよ」
どこか、試すような響きがあった。
「ああ」
寛人は短く返した。
上田は何か言いたげな顔をしたが、それ以上は口にせず、一塁の守備位置についた。
*
マウンドに立つ寛人。
打席には、左打者。
(抑える)
久保からサインが出る。
初球――外角。
寛人は腕を振った。
――シュッ。
外へ逃げるスライダー。
「ストライク!」
(よし)
二球目。
同じ腕の振りから、内角へのシュート。
――カンッ!
詰まった打球が、ファウルゾーンへ転がる。
追い込んだ。
三球目。
今度はスローボール。
打者のタイミングが崩れる。
――ブンッ!
「ストライク! バッターアウト!」
ベンチが沸いた。
「ナイス、白石!」
寛人は軽く手を上げて応えた。
(問題ない)
このレベルなら、まだ通用する。
プロの打者に比べれば、読みも対応も甘い。
球の軌道を見極める力も、狙い球を絞る判断も、まだ粗い。
今の自分の投球なら、十分に抑えられる。
試合は、そのまま進んだ。
左打者が打席に立つたび、寛人がマウンドへ向かう。
抑える。
また抑える。
相手打線は、寛人の投球を捉えられなかった。
(楽勝だな)
それが、正直な感想だった。
五回終了。
スコアは三対〇。
西北高校がリードしていた。
「いい感じだな。このままいけるぞ」
板橋が笑う。
寛人は返事をせず、グラウンドを見渡した。
上田が相手打線を力で押さえる。
自分が左打者を封じる。
久保が二人の持ち味を引き出す。
(繋がってる)
シンプルだが、機能していた。
今のところは。
そのときだった。
「……あれ?」
ベンチの誰かが声を上げた。
「なんか、向こう……」
相手ベンチを見ると、監督を中心に選手たちが円陣を組んでいた。
何かを確認するように話し合っている。
やがて、円陣が解けた。
選手たちが、それぞれの守備位置へ散っていく。
その途中、一人がこちらを見た。
いや、一人だけじゃない。
何人もの視線が、寛人に向けられていた。
(……気づいたか)
寛人は、わずかに目を細めた。
*
七回。
再び、左打者を迎える。
寛人がマウンドに上がった。
(同じでいい)
久保のサインに頷く。
初球、ストレート。
――カンッ!
ファウル。
だが。
(……タイミングが合ってる)
打者は、さっきまでとは違った。
二球目。
内角へのシュート。
――カンッ!
またファウル。
今度は、さっきより芯に近い。
(読まれてるな)
三球目。
スローボール。
寛人は腕を振った。
だが、打者はバットを出さない。
「ボール!」
(見送ったか)
四球目。
スライダー。
――カンッ!
乾いた打球音が響いた。
打球は内野を抜け、外野の前へ落ちる。
タイムリーヒット。
走者がホームへ返ってきた。
(やっぱりか)
寛人は、打球の行方を見つめた。
完全には通用しない。
一度見せた球は、相手に情報を与える。
軌道を覚えられ、タイミングを測られ、次の球を待たれる。
どれほど変則的な投球でも、見られ続ければ対応される。
(このままじゃ、抑えきれなくなる)
*
ベンチに戻る。
誰も寛人を責めなかった。
失点はしたが、まだ試合の主導権はこちらにある。
それでも、板橋が低い声で尋ねた。
「次、どうする?」
寛人は少しだけ考えた。
「変える」
「何を?」
「全部じゃない。配球も、見せ方も……少しずつ変える」
そう答えながら、頭の中では次の投球を組み立て始めていた。
(このままじゃ、終わる)
今日の試合は、勝てるだろう。
実際、その後も西北高校はリードを守りきった。
試合終了。
六対一。
西北高校、初戦突破。
歓声が上がり、選手たちが互いの健闘を称え合う。
「よし、まずは一勝だ!」
板橋が声を上げる。
上田も、少し満足そうに笑っていた。
寛人も、勝利を喜んでいないわけではなかった。
ただ――。
(次は、もっと早く対応される)
今日の相手は、まだ対応しきれなかった。
けれど、次の相手はどうだろう。
その次は。
さらに、その先は。
同じ球を投げ続けるだけでは、いつか必ず限界が来る。
寛人は、静かにマウンドを振り返った。
初戦は勝った。
だが、自分の中では、次の戦いがもう始まっていた。




