「不協和音」
二回戦当日。
試合前のブルペンで、上田は投球練習を続けていた。
一球。
また一球。
捕手のミットに、力強い音が響く。
――パシッ!
いつもどおりの投球。
そう思った、そのときだった。
「……ん?」
上田は、右手の指先に目を落とした。
爪のあたりに、わずかな違和感がある。
痛みというほどではない。
投げられないわけでもない。
ただ、ボールを離す瞬間、何かが引っかかるような感覚があった。
上田は指先を握り込んだ。
もう一度、ボールを握る。
(気のせいだ)
そう言い聞かせ、腕を振った。
――パシッ!
問題ない。
少なくとも、今は。
「……大丈夫だ」
誰に言うでもなく、呟いた。
寛人に借りを作りたくない。
前の試合では、寛人が左打者を抑えてくれた。
あいつがいなければ、もっと苦しい試合になっていたかもしれない。
だからこそ、今日は自分が投げる。
自分の力で、チームを勝たせる。
そう決めていた。
*
試合開始。
上田はマウンドに立った。
いつものように、捕手のサインを見る。
セットポジションから、腕を振る。
――ボール!
「……っ」
思ったところに投げられなかった。
もう一球。
今度こそ。
――ボール!
先頭打者に、フォアボール。
上田は小さく舌打ちした。
(何やってんだ、オレは)
続く打者にも、ボールが先行する。
指先が気になる。
ボールを握り直す。
指のかかりを確かめる。
だが、意識すればするほど、いつもの感覚が遠のいていく。
「……くそっ」
結局、二人目もフォアボール。
ノーアウト、一・二塁。
一塁を守る寛人が、マウンドを見つめた。
(上田……)
いつもなら、多少制球が乱れても力のある球で押し切る。
それが、今日の上田にはできていなかった。
次の打者。
打球は内野ゴロ。
西北の守備陣が動く。
併殺を狙う。
だが――。
送球がそれた。
捕球できず、ボールが転がる。
タイムリーエラー。
先制点が入った。
さらに、続く打者にも打たれる。
追加点。
スコアボードの数字が、少しずつ増えていった。
寛人は、たまらずマウンドへ向かおうとした。
「上田、俺が――」
「寛人!」
マウンドから、鋭い声が飛んだ。
「いいから一塁に帰れ!」
「でも……」
「オレが出したランナーだ! オレが投げるって言ってんだろ!」
上田の怒声が、グラウンドに響いた。
寛人は足を止めた。
上田の顔には、悔しさがにじんでいた。
怒っているのは、寛人に対してだけではない。
思うように投げられない自分自身に、腹を立てている。
それでも、寛人には頼りたくない。
少なくとも、今は。
寛人は何かを言いかけた。
だが、結局、言葉を飲み込んだ。
「……分かった」
そう答え、一塁へ戻る。
マウンドには、上田が残った。
*
上林監督も、すぐには動かなかった。
上田を信じているのか。
それとも、本人の意地を汲んでいるのか。
その表情からは、読み取れない。
ベンチでは、志保が心配そうに試合を見つめていた。
いつもの上田ではない。
投げるたびに指先を気にし、ボールを握り直している。
寛人がマウンドへ向かおうとするたび、上田はそれを拒んでいた。
(上田君……)
志保の胸に、小さな不安が広がる。
何かがおかしい。
けれど、今の自分には、二人の間に割って入ることもできなかった。
試合は、容赦なく進んでいく。
二回。
三回。
上田は何とかマウンドに立ち続けた。
だが、制球は戻らない。
フォアボールが重なる。
守備のミスも出る。
相手打線も、甘く入った球を逃さなかった。
一つの失点が、二つになり、三つになる。
気がつけば――。
五回表。
スコアボードには、七対〇の数字が並んでいた。
西北高校、七点のビハインド。
ベンチに重い空気が流れる。
このままでは、コールドゲームも避けられない。
上田はマウンドで、荒い息を吐いていた。
右手に目を落とす。
指先を、強く握り込む。
思うように投げられない。
チームを助けるどころか、自分が足を引っ張っている。
それでも――。
上田は顔を上げた。
「……まだだ」
かすれた声だった。
それでも、マウンドを降りるつもりはなかった。
一塁から、寛人がその姿を見つめていた。
(上田……)
助けたい。
このまま、一人で背負わせたくない。
だが、無理にマウンドへ行けば、上田の意地を踏みにじることになる。
どうすればいい。
寛人は、拳を握りしめた。
ベンチでは、志保も二人を見つめていた。
誰もが苦しい。
誰もが、何とかしたいと思っている。
それなのに、まだ誰も、次の一歩を踏み出せずにいた。
七対〇。
重い数字が、スコアボードに刻まれている。
このままでは終われない。
寛人は、もう一度マウンドを見た。
そして――。
西北高校のベンチには、まだ誰も口にできない予感が、静かに生まれ始めていた。




