「目を閉じたまま」
準決勝から、二日後。
病院の集中治療室。
その個室には、医療機器の電子音が静かに響いていた。
規則的に繰り返されるモニターの音。
白い天井。
消毒液の匂い。
そして。
ベッドの上で、寛人は眠るように横たわっていた。
口元には、人工呼吸器の管。
左腕には点滴のルートがつながれ、胸元には心電図の電極が貼られている。
ベッド脇のモニターには、心拍数や血中酸素飽和度などの数値が表示されていた。
いつも見せていた穏やかな笑顔は、そこにはない。
まるで、別人のようだった。
個室の外には、西北野球部の面々が集まっていた。
久保。
板橋。
上田。
志保。
由希。
誰も、うまく言葉を出せずにいた。
やがて、担当医が静かに口を開いた。
「頭部に強い衝撃を受けたことで、脳に損傷が確認されています」
誰もが、息を呑んだ。
「現在も意識は戻っていません。呼吸を補助するため、人工呼吸器を使用しています」
上田が、食い入るように医師を見つめる。
「……意識は、戻るんですか」
医師は、すぐには答えなかった。
「今の段階では、はっきりしたことは申し上げられません。検査結果や今後の経過を慎重に見ていく必要があります」
「……は?」
上田が、呆然とした声を漏らす。
「分かんねぇって、どういう意味だよ」
医師は、苦しそうに言葉を選んだ。
「脳の損傷は、時間の経過とともに状態が変化することがあります。今は集中治療を続けながら、容体を注意深く見守っているところです」
「なんとかしろよ!!」
上田が、医師に詰め寄った。
「あんた、医者だろ!!」
「こいつを助けろよ!!」
「上田!!」
板橋が、慌てて腕をつかむ。
上田は荒い息を吐きながら、拳を震わせていた。
医師に怒鳴ったところで、どうにもならない。
そんなことは、上田自身にも分かっていた。
それでも。
何もできない自分が、どうしようもなく腹立たしかった。
上田は、個室の中で眠る寛人を睨みつける。
「あの野郎……」
「こんなんでくたばったら、マジで勘弁しねぇぞ……」
吐き捨てるように言うと、上田は背を向け、歩き出した。
追いかけようとする板橋を、久保が静かに制する。
そして、そっと肩に手を置いた。
「……ほっといてやれ」
「上田も、あいつなりに心配してる」
久保は、個室の中へ視線を向けた。
「本当は、なんとかしてやりたいんだ」
板橋は、悔しそうに唇を噛んだ。
誰もが、そうだった。
何かしてやりたい。
もう一度、あいつの声を聞きたい。
なのに、今は何もできない。
重苦しい空気が、廊下に漂っていた。
そのとき。
頼子が、みんなに向かって頭を下げた。
「みんな、来てくれてありがとうね」
目元は、少し赤かった。
それでも、頼子は笑おうとしていた。
その姿を見て、志保の胸が締めつけられる。
本当は、頼子だって不安でたまらないはずなのに。
みんなを気遣い、気丈に振る舞っている。
志保は、何も言えずにうつむいた。
夕方。
個室の窓から見える空が、ゆっくりとオレンジ色に染まっていく。
頼子が、優しく声をかけた。
「みんな、もう遅いから帰りなさい」
「今日は本当にありがとう」
由希が、小さく頭を下げる。
板橋も、無言で帽子を取った。
久保は、最後にもう一度、寛人を見つめた。
「……また来るからな」
誰に聞かせるでもない、小さな声だった。
みんな、名残惜しそうに個室を離れていく。
だが。
志保だけは、動かなかった。
頼子が、少し驚いたように声をかける。
「志保ちゃん?」
志保は、寛人を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……私」
一度、言葉を切る。
それから、震えそうになる声を必死に抑えながら続けた。
「寛人が目を覚ますまで、ここにいたいです」
頼子は、少しだけ目を丸くした。
けれど、すぐに志保の気持ちを察したように、ふっと優しく笑った。
「……そっか」
「ありがとう」
そして、志保の肩にそっと手を置く。
「じゃあ、何かご飯を買ってくるね」
志保は、小さくうなずいた。
頼子が個室を出ていく。
静かに、扉が閉まった。
個室には。
寛人と、志保だけが残された。
規則的な電子音が、静寂の中に響いている。
志保は、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
ずっと、我慢していた。
みんなの前では、平気なふりをしていた。
頼子の前でも。
久保たちの前でも。
心配でたまらないのに、泣いてはいけないと思っていた。
自分まで取り乱したら、誰かをもっと悲しませてしまう気がしたから。
でも。
もう、限界だった。
志保は、震える手を伸ばし、寛人の手をそっと握った。
冷たかった。
その感触に触れた瞬間。
張り詰めていた感情が、音もなく崩れた。
志保の瞳から、涙がこぼれる。
一粒。
また一粒。
声を押し殺しながら、必死に泣くのをこらえる。
それでも、嗚咽が小さく漏れた。
「……やだよ」
握った手に、少しだけ力がこもる。
「寛人がいないの、やだよ……」
返事はない。
機械が、変わらず電子音を刻んでいる。
志保は、寛人の手をぎゅっと握りしめた。
「まだ、約束守ってないじゃん……」
「無理しないって、言ったのに……」
涙が、ぽたりとシーツに落ちた。
「ねぇ……」
志保は、寛人の顔を見つめる。
いつものように笑ってほしかった。
少し困ったような顔で、自分の名前を呼んでほしかった。
もう大丈夫だと、そう言ってほしかった。
「起きてよ……」
声は、かすれていた。
「……寛人」
その呼びかけに、答える声はない。
窓の外では、夕焼けがゆっくりと色を失い始めていた。
オレンジ色の光が、二人を静かに包んでいる。
志保は、寛人の手を離さなかった。
まるで、そうしていれば、彼が遠くへ行ってしまうことを防げるとでもいうように。
機械音だけが、静かな個室に響き続けていた。




