エピローグ「春風」
春。
西北高校野球部のグラウンドには、
乾いたノックの音が響いていた。
「ほら!!
足止めんな!!」
上田の怒号が飛ぶ。
外野では、
新入生たちが必死に白球を追っていた。
その姿を見ながら、
上田はノックバットを振る。
「そんなんじゃ、
夏一回戦で終わるぞ!!」
厳しい声。
だが。
どこか楽しそうだった。
グラウンドの反対側。
板橋が、
後輩へ守備位置を説明している。
「だから、
打球来る前に一歩目を――」
途中で言葉が止まる。
後ろから、
由希が小さく笑った。
「板橋先輩、
また難しい言い方してる」
「もっと簡単に言わないとダメですよ」
板橋が、
少し照れ臭そうに頭を掻く。
「……うるせぇな」
でも。
その顔は、
どこか柔らかかった。
ベンチ横。
白石寛人が、
一人でシャドーピッチングをしている。
左腕をゆっくり振る。
フォームは、
少し独特だった。
監督が、
腕を組みながら言う。
「だいぶ形になってきたな」
寛人は、
苦笑いする。
「でも、
まだ全然ですよ」
「あんまり覚えてないんです」
「夏の大会のこと」
「気づいたら、
病院だったんで」
監督は、
静かに頷いた。
試合中、
頭を強く打った影響。
医者も、
そう説明していた。
寛人自身も、
深く気にしてはいない。
ただ。
なぜか。
マウンドへ立つと、
少し懐かしい気持ちになる。
それが、
不思議だった。
その時。
監督が、
パンッと手を叩く。
「集合!!」
部員たちが、
集まってくる。
監督は、
どこか嬉しそうだった。
「今日は、
臨時コーチを紹介する」
「元プロ野球選手だ」
部員たちが、
ざわつく。
そして。
グラウンド入口から、
一人の青年が歩いてきた。
松葉杖をついている。
少し伸びた髪。
穏やかな目。
虹原隼人。
元横浜シーホースの投手。
その名前を聞いた瞬間。
志保は、
どこかで聞いた名前だと思った。
そして、
すぐに思い出す。
去年。
試合中に、
頭部へ打球を受けた事故。
命は助かった。
だが。
後遺症で、
足に麻痺が残り、
虹原隼人は引退した。
引退会見で。
記者から、
野球を失ったことについて聞かれた虹原は、
少しだけ笑って答えていた。
「……生きていられただけで十分です」
静かな声だった。
でも。
その言葉だけ、
志保はなぜか覚えていた。
部員たちが、
どよめく。
「マジかよ……」
「本物?」
虹原は、
困ったように笑った。
そして。
みんなを見渡す。
久保。
上田。
板橋。
志保。
由季
寛人。
そこにいるのは。
全部、
知っている顔だった。
夏の日。
泣いて、
笑って、
戦った仲間たち。
でも。
覚えているのは、
自分だけ。
胸の奥が、
少しだけ痛んだ。
それでも。
虹原は、
静かに笑う。
「……はじめまして」
「今日から、
少しだけ世話になる」
寛人が、
どこか不思議そうに虹原を見る。
松葉杖をついた青年。
初対面のはずだった。
なのに。
なぜか、
少し懐かしい感じがする。
どこかで、
会ったことがあるような。
そんな気がした。
だが。
思い出せない。
寛人は、
小さく首を傾げる。
その後。
虹原は、
グラウンドの端で腕を組みながら、
寛人の投球を見ていた。
寛人が、
ゆっくりセットポジションへ入る。
そして。
左腕を、
しならせるように振った。
ボールは、
ふわりと浮き上がるような軌道から、
ミットへ沈む。
「ナイスボール!!」
久保が、
嬉しそうに声を上げた。
虹原は、
目を細める。
フォームは、
まだ未完成。
球速も速くない。
それでも。
腕の振り。
タイミング。
打者の視界をずらす感覚。
あの夏、
自分が残したものが、
確かにそこにあった。
寛人は、
不思議そうに首を傾げる。
「なんか最近、
自然にこの投げ方になるんですよね」
「変ですかね」
虹原は、
少しだけ笑った。
「……いや」
「悪くないフォームだ」
その言葉に、
寛人は少し嬉しそうに笑う。
その時。
「志保先輩ー!
スコアブック取ってくださいー!」
由季が、
ボールケースを運びながら呼ぶ。
「はーい!」
走り出そうとした志保が、
ふと立ち止まる。
そして。
虹原を見る。
虹原も、
視線に気づく。
少しだけ、
沈黙。
志保が、
小さく笑った。
「……虹原さんって」
「なんか、
初めて会った気がしませんね」
虹原の目が、
わずかに揺れる。
だが。
すぐに、
いつものように笑った。
「そうか?」
「どこにでもいる、
普通のおっさんだろ」
志保が、
くすっと笑う。
「全然、
普通じゃないです」
「でも……」
そこで、
少し言葉を止める。
春風が、
志保の髪を揺らした。
「どこかで、
話したことある気がするんです」
虹原は、
何も答えなかった。
ただ。
グラウンドで、
投球練習をする寛人を見つめる。
その横顔は、
どこか少しだけ、
優しかった。
空を見上げる。
春の青空。
遠くで、
白球を追う声が響く。
長い夏は終わった。
それでも。
白球を追う日々は、
これからも続いていく。
虹原は、
小さく目を細める。
――いいチームだ。
胸の奥で、
静かにそう呟いた。
春風が、
グラウンドを優しく吹き抜けていった。
――完。




