第44話「野球の神」
――虹原。
――虹原隼人。
誰かが、
オレの名前を呼んでいる。
どこかで聞いた声。
意識が、
ぼんやり浮かび上がる。
真っ白な空間。
風の音だけが、
静かに響いていた。
「……ここじゃ、ここじゃ」
声のする方を見る。
岩の上に、
一人の老人が座っていた。
ボロボロの着物。
長い白髭。
そして。
どこかで見た顔。
「あんた……」
思い出す。
西北高校のベンチ。
誰にも気づかれず、
ずっと試合を見ていた老人。
老人は、
ニヤリと笑った。
「久方ぶりじゃな」
「元気にしとったか」
虹原は、
眉をひそめる。
「……どこだよ、ここ」
老人は、
楽しそうに笑った。
「まあまあ、
細かいことはよい」
「ここまでの戦い、
実にあっぱれじゃった」
「野球の神の審議会でも、
満場一致でお主のプロ野球復帰が可決された」
「おめでとう」
虹原は、
言葉を失う。
「……は?」
「プロ野球復帰?」
「何の話だ」
老人は、
当然のように答えた。
「だから、
おまえさんの体へ戻れるという話じゃ」
「またプロ野球選手として、プレーできる」
風が吹く。
虹原の胸が、
大きく揺れた。
プロ野球。
もう二度と、
戻れないと思っていた世界。
歓声。
マウンド。
あの景色。
また戻れる。
その喜びと同時に。
一つの疑問が、
浮かんだ。
「……オレが戻れるのはいい」
「でも」
「寛人はどうなる?」
老人の表情が、
少しだけ曇る。
「おまえさんは、自分のことだけ考えてりゃいい」
虹原は、
鋭く睨む。
「いいから教えろ」
老人は、
深くため息をついた。
そして。
言いづらそうに、
口を開く。
「……この少年はな」
「来年の甲子園予選前に、
病室で亡くなる」
虹原の目が、
見開かれる。
「……は?」
「そういうストーリーなんじゃ」
「野球の神の審議会でも、
もう決まっとる」
虹原の声が、
低くなる。
「どういうことだ」
老人は、
静かに空を見上げた。
「よく、
野球は筋書きのないドラマ、
とか言うじゃろ」
「……あれは嘘じゃ」
「わしら、
野球の神がな」
「感動的な物語になるよう、
審議会で決めとる」
虹原は、
言葉を失った。
老人は、
淡々と続ける。
「白石寛人は本来、
おまえさんの魂が移る前に、
就寝中の発作で死ぬはずじゃった」
「じゃが」
「あの日、虹原隼人をピッチャーライナーで
死なせるには惜しいと判断し」
「緊急避難的に、
おまえさんの魂を
あの少年へ移した」
「寛人の魂は微弱でな」
「おまえさんの体へは、
移せなんだ」
虹原は、
拳を握りしめる。
老人は、
静かに言った。
「たまたま体を借りた
少年じゃ」
「義理立てする必要もあるまい」
「早く、
元の体へ戻れ」
その瞬間。
虹原は、
即答した。
「――オレは戻らない」
老人が、
目を細める。
虹原は、
まっすぐ前を見た。
「最初は、
弱小野球部を
助けてやるだけのつもりだった」
「でも」
「分かったんだ」
「本当は、
助けられてたのは
オレの方だったって」
脳裏に浮かぶ。
頼子の笑顔。
志保の涙。
久保の冷静な横顔。
板橋の泥だらけのユニフォーム。
上田の不器用な励まし。
監督。
野球部のみんな。
夕暮れのグラウンド。
笑い声。
「野球の楽しさを、
オレに教えてくれた」
「そんな人たちを悲しませてまで、
自分の体に戻ることなんかできねぇ」
静寂。
老人は、
しばらく黙っていた。
やがて。
呆れたように笑う。
「……お主、
相当のバカじゃな」
「せっかく築いた
プロ野球選手としてのキャリアを、
捨てる気か?」
虹原は、
静かに笑った。
「オレは、
オレらしく生きたい」
「それだけだ」
風が吹く。
老人は、
大きくため息をついた。
「ふぅ……」
「しょうがないのぉ」
「では、
寛人の命を救うため」
「おまえさんにも、
それなりの代償を
払ってもらうぞ」
虹原は、
迷わず頷く。
「ああ」
「構わない」
老人は、
ゆっくり指をさした。
遠く。
闇の中に、
一本の光が差している。
「……あの光の先へ向かえ」
「行けば、
分かる」
その言葉と同時に。
老人の姿が、
風とともに消えていく。
「おい!」
虹原が叫ぶ。
だが。
返事はない。
ただ。
光だけが、
静かに差していた。
虹原は、
ゆっくり歩き出す。
光の先へ。
一歩。
また一歩。
そのたびに。
世界が、
白く溶けていく。
すべてが。
光へ、
飲み込まれていった。




