「重い一球」
八回裏。
城北高校の攻撃。
球場の空気が、変わっていた。
城北ベンチから漂う、獲物を追い詰めるような圧。
打席には、一番・神薙。
久保が、低く呟いた。
「……来るぞ」
上田がサインに頷く。
初球、ストレート。
神薙は、バントの構えを見せた。
三塁線へ、じわりとバットを差し出す。
板橋が、一歩前へ出る。
その瞬間――。
神薙が、素早くバットを引いた。
バスター。
カキィッ!!
鋭い打球が、一、二塁間を抜ける。
ライト前ヒット。
球場がざわついた。
神薙は一塁上で、ニヤリと笑う。
「ようやく温まってきたな」
続く二番・北里。
またしても、送りバントの構え。
今度は上田も前へ出る。
だが、北里も直前でバットを引いた。
同時に、神薙がスタートを切る。
バスターエンドラン。
打球は、一、二塁間を襲った。
上田が懸命に飛びつく。
だが、届かない。
ライト前ヒット。
神薙は一気に三塁へ到達した。
ノーアウト、一、三塁。
球場の空気が、一気に城北へと傾く。
打席には、三番・恵比寿。
上田が、悔しそうに歯を食いしばった。
久保がタイムをかける。
マウンドへ、内野陣が集まった。
久保が静かに言う。
「恵比寿は歩かせよう」
板橋が、目を見開いた。
「マジかよ。次、西郷だぞ」
久保は、ゆっくりと頷く。
「分かってる。でも、満塁の方が守りやすい」
一度、言葉を切る。
「西郷は、今日はゲッツーが二回だ。ここは勝負を急がない方がいい」
上田が、険しい顔で言った。
「じゃあ、四番もオレが投げる」
そのとき。
背後から、静かな声がした。
「……いや」
全員が振り返る。
寛人だった。
左腕を押さえながら、ゆっくりと歩いてくる。
顔には、いつもの笑みが浮かんでいた。
けれど、その足取りは重い。
「西郷は――オレがいく」
ベンチの志保が、息を呑んだ。
(……寛人が、また投げるの?)
顔から、さっと血の気が引く。
先ほどから、彼の左腕が気になって仕方がなかった。
痛みをこらえていることも、限界が近いことも、志保には分かっていた。
それでも寛人は、笑っていた。
まるで、何でもないことのように。
「最後の大仕事だ。やらせてくれ」
上田は、しばらく寛人を見つめた。
何かを言いかけたように口を開き、結局、何も言わなかった。
そして、静かにボールを手渡した。
寛人は、それを受け取る。
その手が、わずかに震えていた。
上田は気づいていた。
だが、何も言わなかった。
今の寛人に必要なのは、同情でも、慰めでもない。
自分が託された役割を、最後までやり遂げること。
上田は、それを誰よりも理解していた。
申告敬遠。
恵比寿を歩かせ、満塁。
迎えるは、四番・西郷。
球場全体が、息を呑んだ。
西郷は静かに打席へ入る。
その目は、ずっと寛人を見ていた。
「やっぱり、あんただったんだな」
寛人は、軽く笑った。
「なんのことだよ」
西郷は、それ以上何も言わなかった。
久保が、ミットを構える。
初球。
超スローボール。
だが、明らかに以前よりキレがない。
西郷は、微動だにしなかった。
二球目、スライダー。
わずかに高い。
西郷がフルスイングする。
ファール。
板橋が、顔を青くした。
「やべぇ……」
完全に、タイミングが合っている。
久保も察していた。
――もう限界だ。
寛人の左肘は、悲鳴を上げていた。
指先の感覚も、薄れ始めている。
それでも、寛人は首を振らなかった。
逃げるわけにはいかない。
ここで西郷を抑えなければ、今まで積み重ねてきたものが崩れてしまう。
久保が、最後のサインを出す。
外角低め。
幾度もピンチを救ってきたシンカー。
寛人は、全身を使って腕を振った。
だが――。
ボールは無情にも、わずかに高く浮いた。
その瞬間。
西郷の目が、鋭く光った。
――来た。
フルスイング。
カキィィィンッ!!
嫌な音だった。
打った瞬間、誰もが分かった。
打球は一直線に伸び、バックスクリーンへと吸い込まれていく。
満塁ホームラン。
球場が、大きく揺れた。
城北ベンチが、一気に爆発する。
西郷は、ゆっくりとダイヤモンドを回った。
寛人はマウンドの上で動かなかった。
ただ、静かに打球の行方を見つめていた。
志保が、唇を噛む。
「……寛人」
スコアは、四対二。
ついに、城北が逆転した。
城北の勢いは止まらない。
次打者はフォアボール。
投げられる投手は、西北にもういなかった。
久保が、苦しそうに言う。
「……板橋、頼む」
板橋は、思わず目を見開いた。
「え、オレが?」
応援席の由希も少し驚いた様子だった。
「……板橋先輩が投げるんですか?」
一昨日も登板していた板橋が、まさかこの場面でマウンドへ向かうとは思っていなかった。
だが、板橋はすぐにニッと笑った。
「しゃーねぇな!」
サードからマウンドへ向かう。
その背中に、応援席から由希の声が飛んだ。
「頑張れー!! せんぱーい!」
板橋が、少しだけ手を上げた。
そして、気迫だけで腕を振った。
フォームも球速も、上田や寛人には遠く及ばない。
それでも、必死に投げる。
まだ二点差。
この回をしのげば、試合は分からない。
六番、サードゴロ。
七番、ショートフライ。
最後は、気迫のストレートで八番・三田から空振り三振を奪った。
追加点は許さない。
球場から、大きな拍手が起こった。
四点。
その失点は、あまりにも重かった。
ベンチへ戻った寛人は、静かに俯いていた。
左腕は、もう感覚が薄い。
自分が、試合の流れを変えてしまった。
あの一球。
もう少し低く投げられていれば。
あと少し、肘が動いてくれていれば。
考えても、答えは出なかった。
(……上田に、どやされるな)
寛人は、そう思った。
あいつなら、きっと怒鳴るだろう。
何をやっているんだ、と。
ここまで必死に守ってきた試合を、どうして最後に打たれるんだ、と。
それだけの失点をしてしまったのだから、責められても仕方がない。
寛人は、膝の上で拳を握った。
そのとき――。
バシッ。
背後から、軽くミットが当たった。
寛人が、ゆっくり振り返る。
上田だった。
いつもの不機嫌そうな顔。
けれど、その目は、寛人の左腕を一瞬だけ見ていた。
「……まだ試合は終わってねぇぞ」
「下向くな」
寛人は、思わず目を見開いた。
怒鳴られると思っていた。
責められると思っていた。
自分が打たれたことで、上田がどれほど悔しい思いをしているかも分かっていた。
それなのに。
上田は、何も責めなかった。
「……でも、オレが打たれたせいで」
「うるせぇ」
寛人の言葉を、上田が遮った。
「お前、何イニング投げたと思ってんだ」
低い声だった。
「左が出るたびにマウンドに上がって、痛ぇ腕で抑えてきたんだろうが」
寛人は、言葉を失った。
上田はタオルを肩にかけ直し、ぶっきらぼうに続ける。
「オレだって、投げられるもんなら投げたかったよ」
その言葉には、悔しさが滲んでいた。
自分が不甲斐なかったこと。
寛人に何度もマウンドを任せるしかなかったこと。
本当は、誰よりも歯がゆかったのだ。
「……お前だけに、全部背負わせちまった」
上田は、視線を逸らした。
「だから、もう自分を責めんな」
寛人は、何も言えなかった。
上田は不器用で、口も悪い。
普段なら、真っ先に文句を言うような男だ。
それでも――。
誰よりも近くで、寛人の投球を見ていた。
誰よりも、寛人がどれほど無理をしてきたかを知っていた。
そして、誰よりも、寛人の役割が過酷だったことを理解していた。
上田は、もう一度だけ寛人の肩を軽く叩いた。
「まだ終わってねぇぞ」
そう言い残し、ベンチの前へ歩いていく。
寛人は、その背中を見つめていた。
胸の奥に、熱いものが込み上げる。
悔しさは消えない。
自分が打たれた事実も変わらない。
それでも、責められなかったことが、何よりも心に響いた。
寛人は、胸元のお守りにそっと触れた。
そして、小さく笑った。
「……ほんと、不器用な奴」
その声には、ほんの少しだけ、安堵が混じっていた。
上田は振り返らなかった。
だが、その背中は、さっきよりも少しだけ頼もしく見えた。




