「左だけは、消せる」
次の練習試合で、寛人に突然チャンスが巡ってきた。
マウンドに立った瞬間――不思議なことに、違和感が消えた。
(……ここだ)
足の裏に伝わる土の感触。
マウンドの傾斜。
ホームベースまでの距離。
すべて、知っている。
体は違う。
それでも、マウンドだけは違わなかった。
何度も立ち、何度も投げてきた場所。
プロの世界で戦ってきた記憶が、体の奥からよみがえる。
「白石、本当にいけんのか?」
キャッチャーの久保が声をかけてきた。
「左だけなら大丈夫だ」
寛人は短く答えた。
ベンチから、ざわめきが聞こえてくる。
「マジで投げるのかよ」
「ファーストだろ、あいつ……」
そんな声は気にならなかった。
(左打者だけ、封じればいい)
それが、今の自分にできる仕事だ。
打席には相手の三番打者。
左打者だった。
(まずは様子見だ)
久保のサインを確認する。
初球。
外角へ。
寛人は腕を振った。
低い位置から、横へ滑るように腕が走る。
――シュッ。
ボールは打者の外へ逃げていった。
「ボール!」
(悪くない)
指先に伝わる感覚は、思ったほど悪くなかった。
だが――。
(体が軽い)
プロ時代に比べれば、明らかに出力が足りない。
球速も、おそらく110キロ前後。
かつての自分とは比べものにならない。
それでも。
(球の出どころが見えなければ、簡単には打てない)
二球目。
同じ腕の振りから、今度は内角へ。
――カンッ!
打球は力なくファウルゾーンへ転がった。
バットの先だった。
打者のタイミングは、完全にずれている。
(見えてないな)
三球目。
寛人は、腕を振る。
見た目は速球と変わらない。
しかし、ボールはゆっくりと打者の手元へ向かっていった。
――ストン。
バットが空を切る。
「ストライク! バッターアウト!」
三振。
一瞬、静まり返ったグラウンドに、審判の声が響いた。
やがて、ベンチからざわめきが起こる。
「今の何だ……?」
「遅くね?」
「いや、なんか変だぞ」
寛人は何も答えず、次の打者に目を向けた。
(もう一人)
ベンチの空気が、少しずつ変わり始めていた。
「なあ、今の……」
誰かが、ぽつりとつぶやく。
「変じゃね?」
「変っていうか……」
言葉を探すような間があった。
そして。
「どっかで見たことある投げ方だな」
寛人の指先が、わずかに止まった。
(……やめろ)
次の一球。
低い位置から、腕を横へ振り抜く。
ボールが、打者の手元で逃げる。
「……似てる」
今度は、はっきりとした声だった。
「プロの……誰だっけ」
その名前は出てこなかった。
だが、寛人の胸の奥がざわついた。
(考えるな)
今は、投げるだけだ。
集中しろ。
二人目も左打者だった。
寛人は、迷わず腕を振った。
結果は――三振。
三人目は、バットの芯を外して内野ゴロに打ち取った。
スリーアウト。
チェンジ。
寛人がベンチに戻ると、チームメイトたちが一斉に声をかけてきた。
「すげえじゃん、白石!」
「何だよ、今の投球!」
サードの板橋が、興奮した様子で近づいてくる。
「なあ、お前、あんなのいつから投げられたんだ?」
「さあな」
寛人は適当に返した。
そのとき、視線を感じた。
上田だった。
何も言わず、じっとこちらを見ている。
(納得してねえな)
当然だろう。
自分だって、まだ何も証明できていない。
それでも、今はそれでいい。
――その後も。
左打者が打席に入るたび、寛人はマウンドへ向かった。
一人を抑える。
また一人を抑える。
相手の左打者は、ことごとくタイミングを崩された。
三振。
内野ゴロ。
力のないフライ。
まるで、左打者だけを狙い撃ちにするかのようだった。
(いける)
寛人は、確かな手応えを感じていた。
だが――。
「――打ったァ!」
右打者のスイングが、鋭く振り抜かれた。
真ん中付近に入ったボールを、きれいに弾き返される。
打球は外野の頭を越えていった。
長打。
「っ……!」
寛人は唇を引き結んだ。
分かっていた。
(右には通用しない)
左打者には見えにくい軌道も、右打者には見やすい。
球速の遅さも、甘く入ったコースも、ごまかせない。
今の自分の投球は、決して万能ではなかった。
あくまで、相手を選ぶ限定的な武器。
それでも――使い道はある。
ベンチへ戻る途中、上田と目が合った。
「……どうした」
上田が低い声で言った。
「左しか抑えられねえのか」
挑発するような口調だった。
だが、寛人は視線を逸らさなかった。
「それで十分だ」
一瞬、空気が止まった。
上田の目が、わずかに細くなる。
寛人は続けた。
「足りないところは、足していけばいい」
上田の眉が、ぴくりと動いた。
今までの上田は、投手が一人で相手を抑えなければならないと考えていた。
打たれたら投手の責任。
抑えられなければ、投手の力不足。
けれど、寛人の考え方は違う。
自分一人ですべてを背負う必要はない。
できないことがあるなら、できる仲間に任せればいい。
それもまた、チームで戦うということだ。
(全部じゃなくていい)
その考え方は、まだこのチームには根づいていない。
だからこそ――。
(変えてやる)
寛人は、静かにグラブを握り直した。
左打者を封じる。
今の自分にできることを、確実にやる。
その小さな一歩が、やがてチームを変えていく。
――左だけは、消せる。
その事実こそが。
弱小・西北高校野球部を変える、最初の一手になるはずだった。




