「プロの残像」
一回裏。
ワンアウト、一・二塁。
球場には、まだざわめきが残っていた。
まさか、初回から上田が降板するとは。
そして今、マウンドへ向かうのは――
ファーストを守っていた白石寛人だった。
ベンチから、志保が不安そうに見つめる。
(――大丈夫なの……?)
左肘の痛み。
痛み止め。
それでも無理を押して投げようとしていることを、志保だけは知っていた。
寛人は、静かに投球練習を始めた。
低い位置から、ゆっくりと腕が振り出される。
独特な左サイドスロー。
そのフォームを見た瞬間、打席の西郷がわずかに目を細めた。
「……あのフォーム」
ネクストバッターサークルにいる五反田が、鼻で笑った。
「なんだ、あれ」
「球、おせーし」
「これ、一回コールドまであるんじゃね?」
西郷は答えなかった。
ただ、寛人の投球フォームをじっと見つめていた。
(――似てる)
脳裏に浮かんだのは、横浜シーホースの虹原。
プロの世界でも異彩を放っていた、あの左サイドスロー。
まるで、生き写しのようだった。
試合再開。
久保がミットを構え、サインを出す。
――まずは慎重に。
寛人が小さく頷いた。
ゆっくりと、腕が振られる。
ふわり。
ボールが、空中を漂うように進んだ。
まるで風に乗っているかのような、奇妙な軌道。
球場がざわつく。
「遅っ……!?」
ボールは、久保のミットにストンと収まった。
「ストライク!」
スコアボードに球速が表示される。
『76km/h』
どよめきが広がった。
五反田が、思わず吹き出す。
「ははっ!」
「なんだそれ!」
だが、西郷だけは笑っていなかった。
二球目。
内角へのシュート。
わずかに外れる。
「ボール!」
西郷の目が、鋭くなった。
(――球は遅い)
(――だが、軌道がおかしい)
ただ遅いだけのボールではない。
こちらの狙いを見透かしているかのような、巧みな配球。
三球目。
外角いっぱい。
ストライクゾーンをかすめるように、スライダーが逃げていく。
西郷が、ここぞとばかりに踏み込んだ。
フルスイング。
カキィン!!
鋭い打球がレフト方向へ飛んでいく。
大きく切れていく打球。
左翼ポールのすぐ外側を、かすめるように通過した。
ファウル。
三塁コーチャーズボックスの板橋が、顔を引きつらせた。
「あっぶねぇぇ……!」
ベンチの志保も、思わず胸を押さえる。
一方、寛人は打球の行方を見届けながら、静かに考えていた。
(――やっぱり)
(――さすが、プロ注目の選手だ)
本当は、こんな早い段階から使いたくなかった。
左肘への負担が大きい、あの魔球。
シンカー。
だが、ここで止めなければ、試合が壊れる。
(頼む……最後までもってくれ)
寛人は、小さく息を吐いた。
マスクの奥で、久保が静かに頷く。
四球目。
寛人の腕が、再び振られた。
西郷が鋭く踏み込む。
捉えた。
そう確信した瞬間――
ボールがストライクゾーンの手前で、急激に沈んだ。
「っ!?」
西郷のバットが、空を切る。
いや、かろうじてバットの先がボールを拾っていた。
打球は力なく、ショート前へ転がる。
高校野球では、ほとんどお目にかかれない軌道。
シンカー。
西郷の表情が、一瞬だけ歪んだ。
「ショート!」
保坂が前進して捕球すると、素早く二塁へ送球した。
「セカンド!」
平石がベースを踏み、間髪入れずに一塁へ送球する。
「ファースト!!」
西郷が駆け抜けるよりも早く、上田のファーストミットにボールが収まった。
――6、4、3。
ダブルプレー。
「チェンジ!!」
西北ベンチが沸いた。
志保は、張り詰めていた息をようやく吐き出した。
(――よかった……)
一方、一塁ベース付近。
上田は、悔しそうな顔で立ち尽くしていた。
自分が抑えたかった。
自分の力で、このピンチを切り抜けたかった。
(――クソッ!!)
上田は無言でマウンドへ近づいていく。
そして。
バシッ!!
ミットで、寛人の尻を叩いた。
「いってぇ!?」
寛人が驚いて振り返る。
だが、上田は何も言わず、そのまま歩き出した。
数歩進んだところで、ぼそりと呟く。
「……やっぱムカつく野郎だ」
その声には、まだ悔しさが滲んでいた。
けれど。
ほんの少しだけ、嬉しそうでもあった。
さらに、風に紛れてしまいそうな小さな声で。
「……サンキュな」
そして、少しだけ間を置いてから。
上田は振り返らずに言い放った。
「でも次はオレが抑える!」
こうして、激闘の幕が上がった。




