「一度きりのトラップ」
一回裏。
城北高校の攻撃。
先頭打者の神薙が、セーフティーバントで出塁した。
一塁上。
神薙は、ニヤニヤと笑いながら大きくリードを取る。
「へぇ」
「やるじゃん、弱小公立」
マウンドの上で、上田が露骨に嫌そうな顔をした。
「……うぜぇ」
その横で。
ファーストの寛人は、静かに神薙を観察していた。
足の位置。
呼吸の間隔。
肩に入った力。
一つひとつ、目に焼きつけていく。
そして――
神薙の両手が、ぶらぶらと揺れ始めた。
(……来る)
寛人の目が、わずかに細くなる。
だが、神薙はまだ本気で走る気配を見せていない。
これは、ただの盗塁ではない。
相手を揺さぶるための「疑走」。
一球目に必ず見せる、神薙の癖だった。
その瞬間。
寛人は、さりげなく久保へサインを送った。
久保の目が、わずかに見開かれる。
(……マジか)
(ここで使うのか)
おそらく、この手が通用するのは一度きり。
見破られれば、次からは逆に利用されるかもしれない。
それでも。
寛人は、静かに頷いた。
久保は小さく息を吐き、サインを出す。
それを見た上田が、思わず顔をしかめた。
(――はぁ!?)
一球目から、ウエスト。
しかも、神薙が動くと読んでの選択。
完全なギャンブルだった。
「ふざけんなよ……」
上田は小声で悪態をつく。
だが、そのとき。
一塁の寛人と、一瞬だけ目が合った。
静かな目。
迷いがない。
まるで、すべて見えているかのような確信があった。
上田は舌打ちし、腹をくくった。
「……外したら殺すぞ」
打席では、二番打者が送りバントの構えを見せていた。
揺さぶり。
走者を進め、確実に得点圏へ送ろうとする。
いかにも城北らしい、いやらしい攻撃だった。
だが、久保は動じない。
上田が投球動作に入る。
そして――
捕手の構えから大きく外れたコースへ、ボールを投げ込んだ。
ウエスト。
その瞬間。
神薙が、予想どおり動いた。
大きくリードを取った状態から、一気に二塁へ向かう。
「なっ――!?」
久保が立ち上がった。
そして、ズドォン!!
久保の送球が、一直線に一塁へ伸びた。
神薙の顔色が変わる。
(しまった――!)
完全に虚を突かれた。
慌てて一塁へ戻ろうとするが、もう遅い。
寛人は落ち着いて送球を受け、神薙の身体にタッチした。
「アウト!!」
球場が、大きくどよめいた。
「嘘だろ!?」
「あそこでウエストするのか!?」
城北ベンチが騒然となる。
西北ベンチでは、志保が思わず立ち上がった。
「やった……!」
嬉しそうに、ぎゅっと両手を握りしめる。
板橋も、興奮を隠せずに叫んだ。
「すげぇぞ、久保!!」
久保は苦笑しながら、一塁の寛人へ目を向けた。
――本当にすごいのは、あいつだろ。
そんな思いが、その表情ににじんでいた。
一方、城北ベンチ。
監督が、鬼のような形相で怒鳴りつける。
「何やってる、神薙!!」
「初回から相手に流れを渡してどうする!!」
神薙は悔しそうに歯を食いしばった。
まさか、あの癖を読まれていたとは。
しかも、初球から。
だが――
城北打線は、ここで簡単には止まらなかった。
続く二番打者、谷中。
上田の投じた球を鋭く弾き返す。
打球は、二遊間を抜けてセンター前へ。
「チッ……」
上田が小さく舌打ちした。
ワンアウト一塁。
そして、球場アナウンスが響き渡る。
『三番、センター、恵比寿くん』
城北高校のクリーンナップ。
スタンドの空気が、さらに熱を帯びていく。
ネクストバッターサークルには、四番・西郷。
強打者であり、捕手としてもチームを支える主将。
久保はマスクの奥で、小さく息を吐いた。
神薙の足は封じた。
だが、城北の攻撃力はこんなものではない。
――ここからが本番だ。
西北のピンチは、まだ続いていた。




