第23話「過去」
夜。
白石家の居間には、静かな音だけが流れていた。
古い扇風機の回る音。
台所から聞こえる、水の音。
頼子が、洗い物をしている。
「無理しすぎないのよ」
優しい声。
「肘、痛いんでしょ?」
虹原――いや、白石寛人は、一瞬動きを止めた。
「……別に」
「顔見れば分かるわよ」
頼子は、少し笑う。
責めるでもなく。
問い詰めるでもなく。
ただ、心配している声だった。
「湿布、置いとくからね」
それだけ言って。
頼子は、また台所へ戻る。
寛人-虹原は、ベッドで横になりながら、その背中を黙って見ていた。
――不思議だった。
野球の話を、しない。
もっと投げろとも。
勝てとも。
なぜ打たれたとも言わない。
ただ。
「無理するな」
それだけ。
虹原は、小さく目を伏せた。
(……全然、違うな)
脳裏に浮かぶ。
小さい頃の虹原の家。
テレビには、いつも野球。
会話も、野球。
食事中も、野球。
「もっと強い学校へ行け」
「甲子園へ行け」
「プロになれ」
そればかりだった。
子供の頃。
試合で負けて帰れば。
「なんで打たれた?」
「練習不足だ」
褒められるのは、勝った時だけ。
結果を出した時だけ。
虹原は、いつからか。
“野球を楽しむ”
という感覚が、分からなくなっていた。
大学。
社会人。
野球を続けた。
プロにも、なった。
ドラフト六位。
それでも。
家族は喜ばなかった。
「六位か」
「微妙だな」
「もっと上で呼ばれると思ったのに」
帰省すれば。
「なんで先発じゃない」
「また中継ぎか」
「敗戦処理みたいな場面ばっかりだな」
「年俸も全然上がってないじゃないか」
そんな話ばかりだった。
虹原は、笑って流していた。
でも。
本当は、ずっと疲れていた。
野球をしているのに。
野球が、苦しかった。
「寛人ー、お茶いるー?」
台所から頼子の声。
寛人-虹原は、はっと顔を上げる。
「……ああ」
少し遅れて返事をする。
頼子が、麦茶を置く。
「ちゃんと寝なさいよ」
「明日もあるんだから」
優しい声。
その時。
ふと、今日の光景が浮かぶ。
板橋。
久保。
上田。
由希。
そして――志保。
誰も。
寛人に“結果だけ”を求めていなかった。
打たれても。
失敗しても。
無理をしていると気づけば、心配して。
立ち止まれば、支えようとする。
そんな人たちに囲まれて。
白石寛人は、野球をしていた。
(……羨ましいな)
自然に、そう思った。
胸の奥が、少しだけ痛む。
そして同時に。
怖くなる。
(このままでいたい)
その感情が。
確かに、自分の中にあった。
ここは、温かい。
白石寛人として過ごす時間は。
虹原隼人として生きていた時より。
ずっと、人間らしかった。
でも。
(……ダメだろ)
小さく、息を吐く。
これは、自分の人生じゃない。
白石寛人のものだ。
志保も。
頼子も。
この場所も。
全部、本当は寛人のもの。
(早く……戻してやらないとな)
そう思う。
思うのに。
胸の奥に残る寂しさを。
虹原は、まだ消すことができなかった。
窓の外では。
静かな夏の夜風が、そっとカーテンを揺らしていた。




