「願いはただ一つ」
八回裏。
上田の走者一掃の二塁打で、西北はついに6対5と逆転した。
ベンチは歓声に揺れていた。
だが、その中心にいる板橋だけは、すでに限界に近づいていた。
肩で息をし、帽子のつばから汗が滴り落ちる。
何度も膝に手をつきながら、それでも「まだ行けます」と言い張る。
その姿は、執念そのものだった。
寛人は、そんな板橋の背中をじっと見つめていた。
(……こいつ、本当に全部出し切る気だな)
九回表。
西北は、なおも板橋をマウンドへ送り出した。
スタンドから大きな拍手が沸き起こる。
板橋は帽子のつばに手をかけ、ゆっくりと顔を上げた。
だが、先頭打者にフォアボールを与える。
続く打者にはセンター前ヒット。
さらに進塁打で、ワンアウト二塁、三塁。
そして、打席には相手の三番、蓮根。
大会屈指の左の強打者だった。
この日も、ここまで三打数三安打。
一打逆転の場面で、最も迎えたくない打者だった。
西北ベンチの空気が変わる。
上林監督が、ゆっくりと立ち上がった。
代打で途中出場した寛人は、この回から一塁の守備についていた。
左肘の状態は、相変わらずよくない。
投げられるとしても、せいぜい二人。
三番と四番。
相手の中軸を抑えるためだけの、最後の登板だった。
マウンド付近では、板橋が悔しそうに唇を結んでいた。
けれど、その表情には、どこか安堵の色も浮かんでいた。
「……悪い。頼む」
かすれた声だった。
寛人は小さく首を振る。
「十分だって。ここまでよく一人で投げたな」
板橋は、力なく笑った。
「はは……最後くらい、かっこつけたかったんだけどな」
「いや、普通にかっこよかったし」
板橋が、少しだけ目を見開いた。
それから照れ隠しのように帽子のつばを下げ、寛人にボールを手渡した。
「……じゃあ、あと頼んだ」
「任せろ」
寛人は短く答え、マウンドで地ならしを始めた。
アナウンスが球場に響き渡る。
「西北高校、守備の変更をお知らせします」
「ピッチャー、板橋君に代わりまして、ファーストの白石君がピッチャーに入ります。板橋君はサード、サードの保坂君がファーストに入ります」
スタンドから歓声が上がった。
けれど、寛人の耳には、どこか遠く聞こえていた。
左腕を軽く回す。
肩は重い。
肘の状態も、決してよくない。
それでも、やるしかなかった。
(……二人だけだ)
三番と四番。
この二人を抑えれば、勝てる。
応援席では、志保が胸の前で両手を強く握り締めていた。
周囲から、声援が飛ぶ。
「抑えろー!」
「いけるぞ、白石ー!」
「三振取れー!」
けれど、志保の耳には、ほとんど入っていなかった。
視線の先にあるのは、マウンドで投球練習する寛人の背中だけ。
その投げ方が、いつもよりほんの少し重いことに、気づいてしまったから。
志保は唇を噛んだ。
(お願い……)
勝ってほしい。
抑えてほしい。
そう願うはずだった。
けれど、本当の気持ちは違っていた。
(……無事でいて)
その想いだけが、胸いっぱいに広がっていく。
(もう、無理しないで……)
寛人は、いつも大丈夫そうに笑う。
苦しくても、平気な顔をする。
だからこそ、怖かった。
このままマウンドで倒れてしまうのではないか。
誰にも苦しさを打ち明けないまま、自分を追い込んでしまうのではないか。
志保は祈るように、両手を握り締めた。
歓声に包まれたスタンドで、小さく呟く。
「……寛人」
その声は、喧騒の中に消えていった。
けれど、そのとき。
風が、一瞬だけ揺れた気がした。
マウンドに立つ寛人が、ほんのわずかに応援席へ視線を向ける。
そして、静かに息を吐いた。
打席には、三番打者の蓮根。
左の強打者は、不敵な笑みを浮かべた。
「また野手上がりか。舐められたもんだな」
寛人は答えなかった。
ただ、静かにボールを握り直す。
そして、ゆっくりとセットポジションに入った。
左肘の奥に、鈍い痛みが走る。
それでも、寛人の意識は不思議なほど澄み渡っていた。
その瞬間――。
プロ野球選手、虹原。
その記憶が、寛人の左腕の奥で、静かに目を覚まそうとしていた。




