第20話「願いはただ一つ」
8回裏。
上田の走者一掃の二塁打で、西北はついに6対5と逆転した。
ベンチは歓声に揺れていた。
だが、その中心にいる板橋だけは、もう限界に近かった。
肩で息をし、帽子のつばから汗が滴る。
何度も膝に手をつき、それでも「まだ行けます」と言い張る姿は、執念そのものだった。
白石寛人は、その背中をずっと見ていた。
――こいつ、本当に全部出し切る気だ。
9回表。
西北はなおも板橋をマウンドへ送った。
スタンドから大きな拍手が起こる。
だが先頭打者にフォアボールで粘られ、続く打者にはセンター前。
さらに進塁打で、ワンアウト二塁、三塁。
そして打席には、相手の3番、蓮根。
大会屈指の左の強打者だった。
この日も3打数3安打。
ベンチの空気が変わる。
監督がゆっくり立ち上がった。
「……白石」
名前を呼ばれた瞬間、ベンチの時間が止まった気がした。
白石は静かに顔を上げる。
代打で途中出場していたため、今は一塁の守備についている。
投げられるのは、二人だけ。
3番と4番。
最も危険な左打者たち。
板橋がマウンドを降りる。
戻ってきたその顔は、悔しさより先に安堵が浮かんでいた。
「……悪い、頼む」
かすれた声。
寛人は小さく首を振った。
「十分だって。ここまでよく一人で投げたな」
板橋は苦笑する。
「はは……最後、かっこつけたかったんだけどな」
「いや、普通にかっこよかったし」
その言葉に、板橋は少しだけ目を見開いた。
それから照れ隠しみたいに鼻を鳴らす。
「……じゃ、あと頼んだ」
「任せろ」
短く言って、寛人はマウンドへ向かった。
歓声が聞こえる。
けれど、不思議と遠かった。
左腕を軽く回す。
肩は重い。肘の状態も最悪だ。
――二人だけ。
それで終わりだ。
応援席では、志保は胸の前で、強く手を握っている。
周囲は口々に言う。
「抑えろー!」
「いけるぞ白石ー!」
「三振取れー!」
けれど志保の耳には、ほとんど入っていなかった。
視線の先には、マウンドへ向かう寛人の背中だけ。
その歩き方が、いつもより少しだけ重いことに気づいてしまったから。
志保は唇を噛む。
(お願い……)
勝ってほしい。
抑えてほしい。
本当はそう願うはずなのに。
違った。
(無事でいて……)
その想いだけが、胸いっぱいに広がっていく。
(もう、無理しないで……)
寛人はいつも大丈夫そうに笑う。
苦しくても隠す。
だから怖かった。
マウンドで倒れてしまうんじゃないか。
誰にも言わないまま、壊れてしまうんじゃないか。
志保は祈るように両手を握り締めた。
歓声の中で、小さく呟く。
「……帰ってきて」
その声は、喧騒に消えた。
だが、風が一瞬だけ揺れた気がした。
マウンドの寛人が、ほんの少しだけ応援席の方を見る。
そして静かに息を吐いた。
打席には3番打者、蓮根。
左の強打者が、不敵に笑う。
「また野手あがりか。舐められたな」
寛人は答えない。
ただ、ゆっくりとセットポジションに入る。
そして――。
プロ野球選手、虹原の記憶が、左腕の奥で静かに目を覚ました。




