「祈り」
三回戦。
初回。
マウンドには、板橋。
夏空の下。
その姿は、いつもより少しだけ小さく見えた。
(とにかく落ち着け……)
グラブの中で、指先が汗ばむ。
捕手の久保がミットを構えた。
まずは一人。
それだけでいい。
板橋は、大きく息を吸った。
第一球。
投げる。
――カキィン!!
乾いた音が、球場に響いた。
打球は高い。
嫌な角度だった。
レフトの高島が下がる。
下がる。
だが――
届かない。
打球は、そのままスタンドへ飛び込んだ。
先頭打者ホームラン。
城南高校の応援席が、一気に沸き立つ。
「うおおおっ!!」
「なんだあのピッチャー!」
「なめてんのか!?」
猛烈な野次が飛んだ。
板橋の体が、一瞬硬直する。
(……最悪だ)
久保が、すぐにマウンドへ駆け寄った。
「気にすんな!」
「打たれたら俺の責任だ!」
力強い声。
だが、板橋の呼吸はまだ浅かった。
次の打者。
ストライクが入らない。
ボール。
また、ボール。
腕が縮こまっていく。
「フォアボール!」
スタンドがざわついた。
さらに次の打者。
今度は、明らかな高め。
ミットが遠い。
また、四球。
一死も取れないまま、ランナーは一、二塁。
板橋は俯いた。
(無理だ……)
(やっぱり俺じゃ――)
その時だった。
ふと、視線がベンチへ向いた。
そこに――由希がいた。
何も言わない。
騒ぎ立てることもない。
ただ、真っ直ぐに板橋を見つめていた。
その表情は、いつもと少し違っていた。
不安がないわけではない。
きっと、心配している。
それでも、由希は目を逸らさなかった。
その瞳の奥には、祈るような願いがあった。
――大丈夫です。
そう言葉にする代わりに、ただ見つめている。
板橋は、しばらくその目を見返した。
(……なんだよ)
胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなる。
情けないところなんて、見せたくなかった。
格好悪いところだって、本当は見られたくなかった。
それなのに。
由希が見ていてくれることが、なぜか嬉しかった。
(……しょうがねぇな)
苦笑しそうになる。
張り詰めていた呼吸が、少しだけ落ち着いた。
久保がマウンドに戻ってくる。
「板橋」
「一回、好きに投げろ」
板橋が顔を上げた。
好きに。
その言葉で、ふと思い出す。
リトル時代。
遊び半分で投げていた球。
握りだけを変えた、変化球とも呼べない中途半端な球。
コーチには、遊び球だと笑われた。
それでも。
なぜか、打ちづらいと言われた球だった。
(……やってみるか)
板橋はボールを少し深く握り直した。
久保のサインは、外角低め。
投げる。
今度は、思い切り腕を振った。
――シュッ。
四番打者、志村がタイミングを外される。
カキン!
打球は、板橋の正面へ鋭く飛んだ。
板橋が反射的にグラブを差し出す。
――パシッ!
ライナーを捕球。
一死。
しかし、走者たちはスタートを切っていた。
板橋はすぐに二塁へ送球する。
戻りきれなかった二塁走者がアウト。
さらに一塁へ。
飛び出していた一塁走者も、戻れない。
アウト!!
トリプルプレー。
球場が、一瞬静まり返った。
次の瞬間。
西北ベンチが爆発した。
「うおおおおっ!!」
久保が、思わず叫ぶ。
板橋自身も、信じられないという顔で立ち尽くしていた。
城南ベンチがざわつく。
「なんだ今の球……!?」
「たいして曲がってねぇのに……」
板橋は、自分の手を見つめた。
今の球。
スライダーのような握り。
けれど、ほとんど曲がらない。
ただ、妙に打者の芯を外す。
久保が、ニヤッと笑った。
「変な球だな」
板橋は、小さく笑う。
「マッスラってやつ」
「昔、コーチに遊び球って言われた」
久保は板橋の肩を叩いた。
「最高の遊び球だよ」
板橋は、ふっとベンチを見た。
由希が――
今度は、小さく拍手していた。
大きな声を出すわけでもなく、誰よりも目立つわけでもない。
ただ、ほっとしたように微笑んでいる。
その笑顔を見た瞬間、板橋の胸が、また少しだけ熱くなった。
さっきまで、あんなに怖かったマウンド。
それでも今は、もう一度投げてみたいと思えた。
板橋は、由希から視線を戻す。
そして、初めて少しだけ笑った。




