「スクランブル登板」
いきなり監督から先発投手を指名され、板橋は困惑していた。
「……いや、でも」
言葉を探すように、視線を落とす。
「昔の話です」
「今さら無理ですよ」
即答だった。
当然だ。
公式戦。
しかも、三回戦。
いきなりマウンドに立てと言われても、簡単に引き受けられるはずがない。
「できません」
板橋は、はっきりと言った。
ベンチが静まり返る。
だが、上林監督は怒らなかった。
ただ、静かに頷く。
「そうか」
それだけだった。
責められるよりも、その静けさが、かえって苦しかった。
板橋は、目を逸らした。
その時だった。
「……先輩なら、できます」
小さな声が響いた。
全員が振り向く。
由希だった。
帽子を胸元で抱えている。
少し緊張した表情。
それでも、その目だけは逸らしていなかった。
「弱音を吐くなんて、先輩らしくないです」
板橋が、顔を上げる。
由希は、真っ直ぐに見つめ返した。
「ずっと、チームを助けてきたじゃないですか」
「だから……」
一瞬、言葉に詰まる。
それでも、由希は続けた。
「私は、先輩ならできると思います」
迷いのない声だった。
板橋は、目を見開いた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて、板橋は大きく息を吐いた。
そして、照れ隠しのように頭をかく。
「……言ったな」
由希の肩が、わずかに揺れた。
板橋は、少しだけ苦笑する。
「打たれても、知らねぇぞ」
「その時は、私がちゃんと応援します」
由希がすぐに返すと、板橋は一瞬きょとんとした。
それから、ふっと笑う。
「……頼もしいマネージャーだな」
そのやり取りに、張り詰めていたベンチの空気が、ほんの少し緩んだ。
由希は、ほっとしたように笑った。
上林監督が、前へ出た。
選手たちを見渡す。
「いいか」
低い声だった。
「今日は、多分点を取られる」
上田が眉をひそめる。
「いきなり、景気の悪い話ですね」
「現実を言っているだけだ」
監督は淡々と返した。
「守り切る試合じゃない」
一人ひとりの顔を見ながら、言葉を続ける。
「殴り合いになる」
その言葉が、ベンチに落ちる。
久保が、にやりと笑った。
「だったら、殴り勝てばいいんすね」
「そういうことだ」
上林監督は短く頷いた。
「覚悟しろ」
「一点取られたくらいで、下を向くな」
「その分、取り返せ」
板橋が苦笑しながら口を挟んだ。
「今日は、いつも以上に打ってくれよ。俺、投げるんだからな」
「先輩こそ、打たれすぎないでくださいよ」
由希の言葉に、板橋が振り返る。
「お前まで言うのかよ」
「だって、先輩が言ったんじゃないですか。打たれても知らないって」
「そういう意味じゃねぇよ」
短いやり取りに、何人かが吹き出した。
上林監督は、そんな選手たちを見て、わずかに口元を緩めた。
「今日は――」
一度、言葉を切る。
「全員で勝つぞ」
短い沈黙。
次の瞬間。
「……っしゃあ!!」
最初に声を上げたのは、上田だった。
次々と声が重なっていく。
その声が、ベンチを満たした。
板橋は一拍遅れて、照れくさそうに笑う。
「……足を引っ張らないように、頑張りますよ」
「弱気は禁止です、先輩」
由希がすかさず言う。
板橋は、肩をすくめた。
「はいはい。分かったよ」
「……それじゃ責任取って、最後まで応援してくださいよ。マネージャー」
由希は、一瞬きょとんとした。
それから、少し照れながら笑った。
「はいっ。もちろんです」
夏の空は、どこまでも青かった。
不安が消えたわけではない。
板橋が、突然投手として覚醒したわけでもない。
それでも。
仲間を信じて、前を向くことはできる。
西北の戦いは、ここからが本番だった。




