「シンカー」
六回表。
投げられなくなった上田に代わり、寛人がマウンドに上がった。
左バッターが続き、何とか無失点に抑える。
七回途中。
その表情には、余裕がなかった。
「くそ……っ」
変化球が、ことごとく右打者に合わされる。
――カキン!
また打たれた。
外したはずのコース。
それなのに、バットが出てくる。
(読まれてる……?)
いや、違う。
(この体じゃ、キレが足りない……)
頭では分かっている。
どこへ投げれば打者が嫌がるのか。
どう組み立てれば、次の球を振らせられるのか。
プロで培った経験は、失われていない。
それでも、体がついてこない。
かつての自分なら、打者の手元で鋭く変化していた球。
今は、わずかに甘くなる。
そのわずかな差を、打者は見逃してくれなかった。
「白石!」
久保の声が飛ぶ。
サインは、外角低めのスライダー。
だが――。
寛人は首を振った。
一度。
二度。
久保が目を見開く。
(まさか……)
寛人は、ゆっくりと頷いた。
(使うのか……今、ここで)
バッテリーミーティングで、候補には挙がっていた球。
だが、実戦では使えないと判断していた。
理由は単純だった。
今の体には、負担が大きすぎる。
そして――。
制御できなければ、ただの暴投になる。
(でも……)
ランナー三塁。
一点もやれない。
このまま打たれ続けるわけにはいかなかった。
(ここで止める)
寛人はセットポジションに入った。
深く息を吸う。
そして――腕を振った。
――シンカー。
ボールが、打者の手元で鋭く沈む。
バットが空を切った。
パシッ!
久保のミットに、ボールが収まる。
「ストライク!」
球場がざわついた。
打者が、戸惑いを浮かべる。
寛人は表情を変えず、久保のサインを待った。
次の一球。
同じ腕の振りから、再び沈む球。
――カンッ!
打球は内野へ転がった。
ショートが捕球し、一塁へ送球。
アウト。
チェンジ。
なんとか、相手の流れを食い止めた。
*
マウンドを降りた瞬間。
寛人の顔が歪んだ。
「……っ」
左肘に、違和感が走る。
鈍い痛みが、じわりと残っていた。
(やりすぎたか……)
思わず、左肘を押さえる。
無理をした自覚はあった。
今の体で、あの球を投げ続けることはできない。
それでも――。
(止められた)
相手の流れを、なんとか断ち切った。
今は、それでいい。
寛人は小さく息を吐き、ベンチへ戻った。
*
九回裏。
西北高校、最後の攻撃。
二死。
ランナーは一塁。
一打が出れば、サヨナラのチャンスにつながる。
打席には、寛人。
(……打てるわけねぇだろ)
心の中で苦笑した。
プロ時代は、リリーフ専門。
打席に立つ機会なんて、高校時代以来、ほとんどなかった。
投げることなら、いくらでも考えられる。
だが、打つとなると話は別だ。
(それでも――)
寛人はベンチを見た。
仲間たちが、こちらを見つめている。
誰も諦めていない。
自分の打席を信じて、声を送ってくれている。
(繋ぐだけだ)
バットを構える。
初球。
外角ストレート。
――カット!
ファウル。
二球目。
低めの変化球。
――カット!
またファウル。
三球目。
ボール気味の球。
それでも、バットを当てる。
――カット!
再びファウル。
観客がざわついた。
「……粘るな」
汗が頬を伝い、地面に落ちる。
左肘が、うずいた。
(関係ねぇ)
今は、目の前の一球だけだ。
次の球。
わずかに外れる。
寛人は、バットを出さなかった。
「ボール!」
フルカウント。
あと一球。
投手が、息を整える。
そして、投げた。
際どいコース。
寛人は、じっと見送った。
――ボール!
「フォアボール!」
出塁。
寛人は一塁へ向かいながら、小さく息を吐いた。
(……繋いだ)
それだけでよかった。
ベンチが沸く。
二死、一・二塁。
そして――。
打席には、板橋。
板橋は静かにバットを構えた。
余計な力は入っていない。
ただ、投手を真っすぐに見据えていた。
初球。
相手投手が投げ込む。
板橋は、思い切りバットを振り抜いた。
――カキィン!
打球は三遊間を鋭く抜け、左前へ転がっていく。
二塁走者が、迷わず三塁を蹴った。
ホームへ。
左翼手がボールを拾い、返球する。
だが――間に合わない。
サヨナラ。
歓声が、球場を揺らした。
「うおおおおっ!」
ベンチから選手たちが飛び出す。
板橋は拳を握りしめた。
寛人は二塁付近で、しばらく立ち尽くしていた。
左肘には、まだ違和感が残っている。
それでも。
その顔には、少しだけ笑みが浮かんでいた。
「……なんとかなったな」
呟いた声は、歓声にかき消された。
仲間たちが、次々と板橋のもとへ駆け寄っていく。
寛人も、その輪に加わろうと歩き出した。
勝った。
みんなで、繋いで勝った。
今は、それを喜べばいい。
――だが。
左肘に残る鈍い痛みだけは、確かにそこにあった。




