第11話「ささやかなお礼」
試合の帰り道。
夕焼けが、少しずつ薄くなっていく。
並んで歩く、寛人と志保。
試合終わりの風は、少しだけ涼しかった。
「今日さ」
寛人が、前を向いたまま言う。
「うちで飯食ってかない?」
志保が、目を瞬かせる。
「え?」
「母さん、志保も来るなら張り切ると思うし」
少しだけ笑う。
だが。
志保は、困ったように視線を揺らした。
「でも……急に行くの悪いよ」
「そんな気使わなくていいって」
寛人は、あっさり言う。
「母さん、前から志保のこと知ってるし」
「それはそうだけど……」
まだ少し遠慮している志保を見て。
寛人は、少しだけ照れくさそうに頭をかいた。
「ていうかさ」
「俺、いつもバッティングセンター、タダで使わせてもらってるし」
志保が、きょとんとする。
「だから、まぁ……」
「その、ささやかなお礼」
最後の方は、少しだけ小さい声。
志保は、一瞬黙って。
それから――
ふっと笑った。
「なにそれ」
「変?」
「ううん」
首を横に振る。
「寛人っぽい」
そう言って笑う志保を見て。
寛人も、少しだけ笑った。
夕焼けが、二人の影を長く伸ばしていた。
玄関の引き戸を開けた瞬間。
「ただいまー」
懐かしい匂いが、鼻をくすぐった。
「おかえり、寛人」
キッチンから顔を出したのは、母――頼子。
エプロン姿のまま、変わらない笑顔。
そして。
「……あら?」
その視線が、すぐに柔らかくなる。
「志保ちゃんじゃない」
「お久しぶりです」
志保が、少しだけ照れながら頭を下げる。
「もう、“お久しぶり”なんて言う仲じゃないでしょ」
頼子は笑って、手を振った。
「小さい頃は毎日のように来てたのに」
「……そうですね」
志保も、どこか懐かしそうに微笑む。
「ほら、上がって上がって。ちょうどご飯できてるの」
小さな居間。
年季の入ったテーブル。
昔と、ほとんど変わらない景色。
「変わってないですね」
「変えられないのよ、うちは」
冗談めかして言う頼子に、志保がくすっと笑う。
食卓には、湯気が並んでいた。
白米。
味噌汁。
煮物。
焼き魚。
豪華ではない。
でも、温かい。
「はい、もっと食べなさい」
頼子が笑いながら皿を置く。
「今日はお祝いなんだから」
志保が、小さく笑った。
「ほんとにすごかったです、今日」
「七点差、ひっくり返したんでしょ?」
頼子が驚いたように目を丸くする。
「しかもね」
志保が、少し嬉しそうに続ける。
「最後、寛人がピッチャーやったんです」
その瞬間。
頼子の動きが、止まった。
「……え?」
箸を持ったまま、寛人を見る。
「寛人が……?」
「うん」
志保は、大きく頷く。
「すごく頑張ってました」
頼子は、しばらく言葉を失っていた。
やがて。
どこか信じられないように、笑う。
「へぇ……」
「寛人が、ピッチャー……」
その声は、少しだけ震えていた。
「昔はあんなに引っ込み思案だったのにねぇ」
「人前に出るの、苦手で」
「小さい頃なんて、発表でもすぐ隠れちゃってたのに」
懐かしそうに笑う。
志保も、小さく頷いた。
「でも、今はチーム引っ張ってますよ」
「ね?」
不意に話を振られて。
寛人――いや、虹原の肩が、わずかに揺れた。
「……まあな」
できるだけ自然に返す。
だが。
胸の奥が、ざわつく。
(まずいな……)
頼子の目。
昔を知っている人の目。
(変わりすぎてる)
食べ方。
話し方。
野球。
昔の白石を知っているほど、違和感は出る。
(勘づかれたら……)
箸を持つ手に、少し力が入る。
その時。
「でも」
頼子が、ふっと笑った。
「なんか安心した」
寛人が、顔を上げる。
「ちゃんと、前向いてるんだなって」
優しい声。
まっすぐな目。
虹原は、一瞬だけ言葉を失った。
胸の奥が、少し痛む。
(……違う)
そう思う。
でも。
その言葉は、出てこなかった。
代わりに。
「……飯、冷めるぞ」
ぶっきらぼうに言う。
頼子が、吹き出した。
「はいはい」
食卓に、小さな笑い声が広がる。
その輪の中で。
虹原だけが――
静かに、目を伏せていた。
そんな”寛人”をお構いなしに、頼子は箸を動かしながら、ふと。
「志保ちゃん、覚えてる?」
「え?」
志保が顔を上げる。
「この子が小さい頃――」
「……やめろよ」
寛人が、すぐに遮る。
でも、頼子は止まらない。
「“将来は志保ちゃんをお嫁さんにする”って言ってたのよ」
「ぶっ――!?」
危うく、ご飯を吹き出しそうになる。
「ちょっ、母さん!!」
志保が、固まる。
「え……それ……」
顔が、じわっと赤くなる。
「い、言ってないって!」
厳密には確かに言っていない。嘘じゃない。
「言ってたわよ。“絶対守るから”って」
その言葉に。
志保の目が、ほんの少しだけ揺れた。
寛人は、顔を逸らす。
「……覚えてねえよ」
でも。
志保は、知っている。
今日のマウンドで。
彼が、誰よりも“守ろう”としていたことを。
「……ふふ」
小さく、笑う。
「いいじゃないですか」
「え?」
「変わってないんだなって思って」
まっすぐに、寛人を見る。
その視線に。
寛人は、言葉を失う。
頼子は、そのやり取りを見て――
ただ、静かに微笑んだ。
外では、夏の夜の風が吹いていた。
昔と同じ場所で。
少しだけ変わった関係で。
それでも確かに――
繋がっている時間が、そこにあった。
そして。
この穏やかな夜が、いつか終わることを。
まだ、誰も知らない。




