第八話
絶念崖へと続く山道は、もはや道とは呼べなかった。
白道組織『清流会』の構成員たちが、まるで叩き潰された虫のように点々と転がっている。
ある者は頭部を粉砕され、ある者は胸壁を貫通し、絶命していた。
いずれも抵抗の跡すらなく、ただ圧倒的な「暴力」の前に跪かされた無惨な骸だ。
「胤禅……。お前、またこんなことを……っ!」
後を追う師兄の延武が、一際無惨に握り潰された死体を前に、震える声で叫んだ。
彼が知る胤昭は、蟻一匹殺すのにも躊躇うほどに慈悲深く、不器用な師妹を常に案じ続ける、心優しい男だったはずだ。
だが、目の前に広がるのは、仏の加護など微塵も感じさせぬ、怒りが作り出した地獄絵図であった。
「阿弥陀仏……。慈悲なき力は、魔そのもの……」
延武は、静かに数珠を繰りながら唱える。その声は、師弟の魂がもはや戻れぬ場所に堕ちたことを確信しているかのように、どこまでも冷たく響いた。
趙謙は、彼らの嘆きを背に、さらに速めた足取りで血の跡を辿った。
やがて、風が哭く絶壁の縁に、その背中が現れた。
墨石城を一望できる断崖絶壁──絶念崖。
その場所で、一人の男が地面を這いずっていた。清流会の副門主である。
かつては正義の執行者を気取り、権勢を誇ったその男の顔には、今や糞尿にまみれた獣のような怯えしかなかった。
「……た、助けてくれ! 悪かった、母娘のことは謝る! 金ならいくらでも出す! 命だけは、命だけは……っ!」
副門主の懇願を、背後に立つ影が冷たく切り裂く。
返り血を浴び、灰色の僧衣を赤黒く染め上げた胤昭であった。その瞳は、滅紫に染まり、入魔に陥った証拠であった。
さらに、その手に握られた錫杖は、すでに半ばから折れ曲がっている。
胤昭は無言で、震える副門主の首根っこを、獲物を吊るすように掴み上げた。
「……そうです。あなたは、そう生きるべきでした。そうやって、謙虚に、他人にへりくだって、生きるべきだったんですよ。なのに、調子に乗るから……。こうやって、死んでいくんですよ」
胤昭の声は、驚くほど穏やかだった。
だが、その瞳に宿るのは、墨石よりも深い「虚無」。
趙謙が追いつき、その光景を目の当たりにしたとき、胤昭の右掌には、すでにすべてを終わらせるための滅紫の内功が、渦巻いていた。
「胤禅……! やめろ!」
延武の叫びが、断崖の風にかき消される。
胤昭はゆっくりと首を巡らせ、延武を見た。
断崖を吹き抜ける風が、返り血を帯びた胤昭の僧衣を激しく煽る。その足元では、清流会の副門主が喉を鳴らし、無様に命を乞うていた。
「待て! 胤禅、待つんだ!」
背後から、悲痛な叫びを上げて延武が駆け寄った。数歩手前で足を止め、震える手で数珠を握りしめる。
「……阿弥陀仏。師弟よ、その手を汚してはならん。小宛も、そんなことは望んでいないはずだ! 仏の慈悲を思い出せ。今なら、今ならまだ戻れる。私と共に寺へ帰り、共に罪を贖おう!」
延武の説法は、激しい風の中でもはっきりと響いた。それは少龍寺で共に過ごした十年、慈しみ、競い合った兄弟子としての、魂を削るような嘆願であった。
当の胤昭は、ゆっくりと首を巡らせた。
その瞳は、延武の言葉を確かに聞き届けていた。
拒絶するでもなく、無視するでもない。ただ、鏡のように平坦な光を湛え、師兄の姿を映し出している。
「……阿弥陀仏。師兄、お久しぶりです」
胤昭の声は、驚くほど穏やかだった。
「おっしゃる通りです。仏の慈悲、そして小宛の願い……。それらはすべて、私の胸の内に今も息づいています。……ですが、師兄。私には、それを聞き入れる『気』がないのです」
「なっ……何を……!」
延武が絶句した瞬間、胤昭の右掌が、獲物を捕らえる鷲の如き速さで、副門主の胸元へと吸い込まれた。
「──っ、が、あああぁッ!?」
少龍寺の絶技、『透骨打』。
外傷を最小限に留め、その内功を一点に貫通させる破壊の業。
胤昭の指先が、副門主の肋骨を容易く抉り、その奥にある生々しい鼓動を直接掴み取った。
「胤禅、やめろ!!」
延武が叫び、一歩踏み出した。
だが、遅かった。
グチャリ──
墨石が砕ける音よりも遥かに小さく、しかしこの世の何よりも重い肉の破砕音が響いた。
副門主の瞳から光が消え、絶命の痙攣がその巨躯を駆け抜ける。
胤昭は、自らの掌の中で握り潰した「正義の象徴」であったはずの心臓を、そのまま無造作に放り出した。
「……悲しんでいても、仕方がないのです。師兄」
血塗られた手を僧衣で拭うこともせず、胤昭は再び虚空を見つめた。
「そう……悲しんでいても、小宛は戻って来ませんから」
その声は、かつて少龍寺の講堂で経典を読み上げていた時と同じ、静謐な響きを湛えていた。
「ああ、そうだ! その通りだ、胤禅!」
延武は、必死に叫んだ。
「悲しんでいても小宛は戻らない。それは、復讐も同じだ! 殺戮を重ね、血の海を築いたところで、あの子が再び笑うことはないのだぞ!」
「ええ、戻りませんよ、もう。死んだのですから」
胤昭はあっさりと、それこそ「雨が降れば地面が濡れる」という自明の理を述べるかのように頷いた。
その瞳には、一滴の涙も、一欠片の迷いも宿っていない。
「ならば、なぜだ! なぜ、これほどまでの惨劇を広げる必要がある!? 確かに、師妹を手にかけ、汚辱を隠蔽しようとした門主らは万死に値するだろう。だが、彼らはどうだ! 真実も知らず、ただ命じられるままに門を守っていた末端の武人たちは!? 彼らに、殺されるほどの罪などないはずだ!」
延武の悲痛な叫びが、断崖の風に霧散する。
胤昭はゆっくりと首を巡らせ、師兄を見た。その顔に浮かんだのは、慈愛に満ちた、しかし救いようのない絶望を孕んだ微笑だった。
「いいえ、師兄。それは違いますよ。彼らは──『清流会』の看板を背負う者は、生きているだけで万死に値するのです」
「……何を、言っている?」
「罪はない? いいえ、ありますよ。『生きている罪』です。彼女が、あんなにも懸命に、泥を舐めてまで繋ごうとした命を断たれた世界で、殺した側の末端がのうのうと呼吸を続けている。……それは、仏の教えに背く『悪』ではありませんか?」
胤昭は一歩、また一歩と延武の方へ歩み出した。
錫杖の環が、ジャラン……ジャラン……と、死の足音を刻む。
「なぜ……? なぜ、だと……?」
胤昭は、師兄の吐いたその言葉を、反吐でも吐き出すかのように呪わしく反芻した。
「なぜも、何もありはしませんよ……ッ! 小宛が死んだのですッ!!!」
その絶叫は、墨石城の煤けた空気を震わせ、断崖を打ち付ける風さえも圧し潰した。
「善を積み、慈悲を説き、己の欲を殺せば、いつか救われると……あなたはそう教えた! だが、あの子が何をした! 泥を啜り、自分を汚しながら、ただ妹を生かそうとしただけだ! その彼女が、『正義』を語る白道どもの保身のために、石の下に埋められたんだッ!」
胤昭は、血に汚れた錫杖を激しく地面に叩きつけた。石畳に深い亀裂が走る。
「師兄、教えてくださいよ! あんなに一生懸命に背伸びして、転んでも笑っていたあの子が殺され、彼女を殺した連中がこの街で『清流』などと名乗ってのうのうと生きている。……この世界のどこに、我らが信じる仏が、いらっしゃるんですか!?」
延武は、胤昭の眼に宿る、灼熱のような憎悪と深淵のような悲哀に気圧され、言葉を失った。
「私が殺しているのは、人間ではありません。……ゴミですよ。あの子を救わなかったこの腐り果てた世界の、不純物です」
胤昭は、天を仰いで哄笑した。その笑い声は、そのまま血を吐くような嗚咽へと変わる。
「悲しんでいても仕方ない……。ええ、その通りだ。だから私は、もう悲しまない。この手を血で染め、仏の道を地獄に変えても、私は『粛清』を止めない。……あの子が愛した妹を傷つける可能性のあるものは、この街ごと、すべて私が引きちぎってやる!」
錫杖の環が、ジャラン……と、最後の一打ちを鳴らす。
胤昭の周囲に渦巻く内功は、もはや少龍寺の黄金色ではない。怨念を吸い込み、墨石よりも深く、淀んだ滅紫の影へと変質していた。
「……延武師兄、そして玄徳師父。十年間、私を育ててくださって、本当にありがとうございました。あなた方が、路傍にいた私に手を差し伸べてくれたからこそ、今の私はここに立っていられる」
ふっと短く、熱を帯びた息を吐き、胤昭は言った。
その声には、先ほどまでの狂気は微塵もなかった。ただ、十年という歳月が刻んだ感謝だけが、静かに、一点の曇りもなくそこにある。
それは、紛れもない彼の本心であった。
「そして、あなた方がいたからこそ、私は小宛と出会えた。……私の、唯一の想い人」
胤昭は、血に濡れた自らの掌を、愛おしむように見つめた。
「この想いを伝える気など、毛頭ありませんでした。……ですが、今だから言える。私は小宛のことが、好きでした。この十年間、一瞬たりとも、その想いが消えることはありませんでした。……仏の教えよりも、彼女の隣にいる時間の方が、私にはずっと尊かった」
それもまた、血を吐くような本心であった。
あまりに純粋で、あまりに身勝手な愛の告白。
師父たちの悲痛な沈黙が流れる中、その静寂を、一歩踏み出した男の足音が踏み躙った。
「……ケッ。聞くに堪えねえノロケだな」
趙謙だ。
彼は漲る内功を抑え込むことなく、抜き放った剣の先を、真っ直ぐに胤昭へと向けた。
その瞳に宿るのは、憐れみでも怒りでもない。ただの浪人としての、傲慢な意地だった。
「……胤昭」
「趙謙。あなたも、説法ですか?」
「……お前が『復讐したい』なんて我儘を抜かすなら、俺は『お前を止めてやる』っていう我儘を押し通す。理屈も、説法も、ないさ」
趙謙の『一字慧剣』が、澄み渡るような剣鳴を上げる。
一触即発。趙謙が地を蹴ろうとしたその刹那、一振りの腕が彼の前に差し出された。
「……趙施主、待たれよ」
延武であった。
彼は涙を拭い、拳を強く握り直した。その顔には、兄弟子としての、そして少龍寺の弟子としての、烈火のごとき覚悟が宿っていた。
「ここは、私に。……これは少龍寺の、兄弟の因縁。他人のあなたが命を懸ける筋合いはないでしょう」
「……できるのか?」
「無論だ。入魔に陥った奴の武功も確かに、強力だが……」
延武の背中が、趙謙の前を塞ぐ。
「……いや、そういう意味じゃなくてだな」
「……やるさ。師兄として」
絶念崖の風が吹き荒れる中、かつて同じ釜の飯を食べ、同じ仏を仰いだ兄弟弟子が、殺し合うために向き合った。




