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武侠小説:慧剣魔僧録  作者: ヤマダ


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第七話

 『陰寒枯脈(いんかんこみゃく)』に凍てつく葉宛児(ようえんじ)の妹──葉小蓮(ようしょうれん)の体は、もはや通常の真気を受け付けぬほどに冷え切っていた。


 趙謙(ちょうけん)は、胤昭(いんしょう)が持ち出した橙色の霊薬『大還丹(だいかんたん)』を手に取った。


(胤昭……後で必ず高い酒を奢れよ)


 趙謙は、内心で吐き捨てるように言うと、凡人が口にすれば即座に体が爆裂すると言われるその霊薬を、自らの口へと放り込んだ。


 刹那、胃の底に落ちた大還丹が、休火山の如く爆発した。


「……っ、くぅ……!!」


 体内で火龍がのたうち回るような激痛が走る。


 数十年分の内功を凝縮した薬力は、趙謙の気海を焼き、経絡を内側から引き裂こうと荒れ狂う。


 趙謙は、少女の内関から、極陽の気を流し込む。


 趙謙は『一字慧剣(いちじけいけん)』の心法を極限まで回し、暴虐な陽気を己の気脈へと強引に導いた。


 本来、鉄をも断つ鋭利な彼の内功を、あえて「フィルター」として用いる。


 自身の肉体を焦がし、薬力の尖った角を削り取ってから、少女へと流し込むのだ。


 灼熱の気が趙謙の腕を通り、少女の凍てついた『督脈』へと流れ込む。


 趙謙の鼻や毛孔からは、耐えきれぬ圧力で血が吹き出し始めた。全内功を注ぎ込み、枯れ木のような気脈を一本ずつ「再生」させる作業。


 それは、己の命の灯火を削り、冷え切った石に火を灯すに等しい苦行であった。


 時が止まったかのような、永い静寂。


 趙謙の意識が白濁し、内丹の真気が底を突こうとしたその時──。


「……、はぁっ、はぁっ……」


 窓の外には、残酷なほど鮮やかな朝日が差し込んでいた。


 夜が明け、昼が来る。墨石城の煤煙を白く染め上げる強烈な日差しの中で、趙謙が血反吐を吐きながら掌を離すと、少女の頬には初めて生きた人間としての朱が差していた。


 気脈は開通し、凍てついた血は再び巡り始めた。


 趙謙は、自身の経絡が焼け爛れるような痛みに耐えながら、ふらつく視線で周囲を見渡した。


「……ふぅ、成功だ。おい、胤昭。酒を奢──おい、胤昭?」


 だが、本堂には石仏の影が伸びるばかりで、胤昭の姿は、どこにもなかった。


「おい……まさか……!?」


………


……



 趙謙が『清流会(せいりゅうかい)』の拠点へと辿り着いたとき、そこは、もはや武館としての体を成していなかった。


 白道(せいぎ)の象徴であったはずの門は粉々に砕け、広大な演武場は、地面を塗り潰さんばかりの鮮血に染まっている。


 累々と重なる死体は、いずれも胸板を巨大な掌の形に陥没させ、内臓を粉砕されていた。


 少龍寺の絶技、『大力金剛掌だいりきこんごうしょう』。そのあまりに無慈悲な破壊の痕跡が、演武場を埋め尽くしている。


「……やりやがったな、胤昭」


 趙謙は、漲る内功を全身の経絡に巡らせ、迷いのない足取りで血の海を進んだ。


 演武場の中央、返り血を浴びて赤黒く光る石畳の上に佇んでいたのは、探していた友ではなかった。


「……あんたらは?」


 そこにいたのは、灰色の僧衣を纏った二人の僧侶。彼らは静寂の中に立ち、凄惨な死体の山を嘆くこともなく、ただ静かに数珠を繰っていた。


「阿弥陀仏……。施主が胤禅と行動を共にしていた若者かね。ようやくお目にかかれましたな」


 老僧がゆっくりと顔を上げた。その眼差しは深く、底知れぬ静謐さを湛えている。


 彼こそ、少龍寺の禁忌を破り脱走した胤昭を捕縛し、秘宝『大還丹』を回収するために遣わされた追手であった。


「……なるほど。あんたらが少龍寺からの追手か。悪いが、胤昭はもうここにはいねえぜ。それに──」


 趙謙は自らの胸を堂々と叩き、不敵に言い放った。


「『大還丹』も、もう使っちまったよ。死にかけていた少女の命を繋ぐために、俺の体を通してな。文句があるなら、俺を少龍寺まで引っ張っていくか?」


 老僧の傍らにいた若僧が、驚愕に目を見開いた。


 少龍寺の至宝を、名もなき浪人が己の体を器にして消費したという事実に、息を呑んだのだ。


 しかし、老僧は、ただ穏やかに微笑んだ。


「……左様ですか。少龍寺の至宝が、一人の幼き命を救ったというのなら……。それこそが、この薬が打たれた真の『慈悲』というものでしょう。施主、弟子の我儘に付き合ってくださったこと、深く感謝いたします」


 意外な言葉だった。執拗な追跡と過酷な罰を覚悟していた趙謙にとって、その「許し」はあまりに拍子抜けであり、そして今この場に流れる血の赤さとあまりに不釣り合いであった。


「礼なんていいさ。……それより、あんたが胤昭の師父か。じゃあ、そっちの隣は師兄ってわけだな?」


「阿弥陀仏……。自己紹介が遅くなった。私は少龍寺の弟子、延武(えんぶ)と申す。こちらは我が師であり、胤昭の師父でもある玄徳大師(げんとくたいし)であられる」


「趙謙だ」


 玄徳大師は、血塗られた演武場のさらに奥、清流会の最深部へと続く扉を見つめた。


 その瞳には、深い哀しみと断念の色が混じり合っている。


「南無阿弥陀仏……。もはや、あの子は私たちが知る胤昭ではないのでしょう。これも全て、私の不徳が招いた因果──ゴホッ、ゴホッ!」


 吐血する玄徳大師。


「師父ッ! そんなことは……! あいつを、そして師妹を守ることのできなかった師兄である私の責任です!」


 延武が声を荒らげる。その叫びは、虚空に消える。趙謙は鼻を鳴らし、無造作に踵を返した。


 瓦礫の陰で、ガタガタと歯を鳴らして震えていた清流会の生き残りを見つけ、その襟首を掴んで強引に引きずり出す。


「……おい、お前。あの坊主はどこへ行った。吐け。さもなくば、お前の内臓もあの山の一部にしてやるぞ」


「……ひっ、ひいいっ! あいつは……あの化け物は、あっちだ! 逃げ出した副門主を追って、裏の崖へ……『絶念崖』へ向かったぁッ!」


 趙謙は、指し示された方角──墨石城を見下ろす断崖絶壁を見据えた。


 この日、病に冒されていた少女の未来は少龍寺の秘宝によって救われ、光を失った武僧の心は、絶望の深淵へと堕ちた。


「……あんたらも行くだろ?」


「無論だ……が、趙施主、そなたまで行く必要は──」


「……まだ、ツケを払ってないんだよ」


 趙謙はそう言い残すと、疾風の如き身のこなしで、絶念崖へと駆け出した。

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