第九話
「胤禅……。いや、胤昭よ。生きて、私と共に来い! お前の罪も、その身に受けた汚れも共に背負ってやる!」
延武が咆哮し、大地を蹴った。その姿はまさに獅子の如き猛々しさ。
彼が選んだのは、殺しの剣ではなく、少龍寺の絶技『半歩崩拳』。
わずか一尺の踏み込みに全身の「渾元の内功」を凝縮し、相手を殺さずして制する。
生け捕りにして寺へ連れ戻す──それが、かつて同じ釜の飯を食べた兄弟子としての、血を吐くような慈悲であった。
──ドォォォォン!
延武の拳が空気を爆ぜさせ、「雷鳴」の如き音を立てて胤昭の胸元へ迫る。
しかし、胤昭は不動。その全身からは、禍々しい滅紫の真気が立ち昇っていた。
彼は静かに掌を掲げると、同じく『半歩崩拳』で受け止めた。
二人の足元の石畳は蜘蛛の巣状に砕け散り、同心円状に広がった内功の余波が、広間の柱を震わせた。
「……甘いですよ、師兄」
胤昭の声は、万年雪の如く冷たく響いた。
延武の拳には、確かに山をも穿つ威力が秘められていた。だが、肉薄したその瞬間、拳にわずかな「火候の乱れ」が生じていた。
十年間、共に汗を流し、同じ月を見上げてきた弟弟子の命。それを奪うことを、彼の良識が、土壇場で拒絶してしまったのだ。
「ぐっ……、くぅッ!」
延武は悲痛な叫びを上げ、さらに半歩、命を削るように踏み込んだ。
拳と掌が触れ合う境界で、「正」と「魔」の真気が激しく反発し合い、肉を焼くような焦燥感が漂う。
延武は必死であった。胤昭を傷つけたくない、だが止めねばならぬ。その矛盾した想いが、彼の純粋な武功を歪ませ、刃のような鋭さを奪っていく。
一方、胤昭の心境は、すでに「明鏡止水」の彼方──暗黒の淵にあった。
彼は延武の拳を「柔」の動きでいなすと、蛇が獲物に絡みつくが如き『粘衣十八跌』の理でその腕を封じ、電光石火の速さで掌を延武の肩口へ叩き込んだ。
パァン──!
乾いた音が響き、延武の巨躯は木の葉のように軽々と吹き飛んだ。
「……趙施主が言った通りです。ここは戦場。師兄、あなたのその『正しき心』が、今はこの上なく邪魔だ」
胤昭の瞳から、一筋の熱い雫がこぼれ落ちた。しかし、それは頬を伝う前に滅紫の気に触れ、一瞬で蒸発し消え去った。
延武は血を吐きながら立ち上がろうとするが、右腕の経絡を冷徹な内功で断たれ、力なく膝をつく。
趙謙は、その光景を、ただ沈黙のまま見つめていた。
(……あいつ、わざと急所を外したな)
趙謙の鋭い眼は、胤昭の凄まじい一撃が、絶命を避けるべくわずかに分の単位でずらされたことを見抜いていた。
それは「救い」などではない。むしろ、情を捨てきれぬままに修羅の道を進まざるをえない男の、あまりに孤独で、あまりに痛ましい「決別の儀」であった。
「土壇場で迷いが出たな……どちらも」
負傷しながらも、立ち上がろうとする延武の前へ躍り出ると、剣を引き抜いた。
「関係は、あんたの方が長いんだろうが、この事件に関しては、俺の方が親密でね。悪いが出しゃばらせてもらう」
「……どうか、頼む」
力なく、延武は言った。
「フッ、任せろ」
趙謙の抜き放った剣が、冷たい太陽の光を浴びて、青白い閃光を放つ。
その身からは、これまでの不敵な笑みが消え、代わりに底知れぬ『剣気』が溢れ出していた。
「胤昭。……いや、今はその名で呼ぶのも野暮か」
趙謙は、わずかに腰を落とし、剣先を胤昭の喉元へと向けた。これは彼が編み出した『一字慧剣』の絶招、『追風捕影』の構え。
一度放たれれば、風をも切り裂き、影をも逃さぬ神速の一撃が繰り出される。
「趙謙……。あなたまで、私を遮るのですか」
胤昭の周囲で、滅紫の気が逆巻く。その足元の大地は、彼が発する強大な内功に耐えかね、ミシミシと音を立てて沈み込んでいた。
「当たり前だ」
趙謙の体が、陽炎のようにかき消えた。
次の瞬間、胤昭の眼前には無数の剣影が花開く。
『百花繚乱』。一瞬の間に十三の急所を突く連撃。
だが、胤昭は微動だにしない。
彼は錫杖を静かに一回転させると、重厚な内力を込めて地面を叩いた。
ドォォォォン──!
少龍寺の絶技、『大震力』。
大地から突き上げるような衝撃波が、趙謙の放った剣影をすべて打ち消す。趙謙は空中で身を翻し、燕のごとき身のこなしで胤昭の背後へ回り込んだ。
趙謙の剣が、胤昭の項をめがけて吸い込まれる。しかし、胤昭の体はまるで実体がないかのように、わずか一寸の差でその刃をやり過ごした。
そのまま胤昭は、流れるような動作で右の掌を趙謙の胸元へ突き出す。
「『|金剛般若掌《こんごうはんにゃしょう』──!」
放たれた掌打は、空気を圧縮し、目に見えるほどの白い衝撃波となって趙謙を襲う。趙謙は咄嗟に剣身を盾にして防ぐが、その凄まじい内功に、剣が「ギギギ」と悲鳴を上げた。
「……もうちょい高価な剣を買うべきだったな」
根本からぽっくりと折れた剣を投げ捨て、趙謙は言った。
「剣士が剣を捨てて、どうするのです?」
「おいおい、俺がいつ剣士だと名乗ったよ?」
一人は、親密な友を救うために。
一人は、自らが選んだ修羅の道を完遂するために。
かつて同じ酒を酌み交わした二人の影が、激しく、そして美しく交錯し続けていた。




